夜の静けさの中、母と私はランタンの灯のそばにいた。風が小さく炎を揺らし、まるで何かを語ろうとしているようだった。
私はまず、フィアのことを尋ねた。
母は一瞬だけ視線を逸らし、そして静かに語り始めた。
「彼女のことを、歴史の中では“災厄の魔女”と呼ぶ。でも、本当は──違ったの。彼女はただ、愛する人を守ろうとしただけ。・・・でも、その力があまりに強すぎた」
私は黙って聞き続けた。
「・・・フィアという名前もね、後になって呼ばれたものよ」
母はランタンの灯を見つめながら、静かに続けた。
「本当の名は、“ルナフェイズ”。満月の夜に生まれた、優しい瞳の少女だった」
「ルナフェイズ・・・」
あの日、精霊樹の森で見た名前だ。
こんな形で、その正体を知ることになろうとは。
「昔読んだ記録なんだけどね・・・それには、幼い彼女の姿が残っていた。村の外れで星を数えたり、風と遊んだり・・・普通の子供と変わらない姿で、笑っていた。まだ“世界を焼く者”になる前の、ただの少女。けれど、運命は──彼女にその名を許さなかった」
母の言葉は、どこか悼むようだった。 そして、そこには炎ではない“月の記憶”が、確かに息づいているような気がした。
「人は、理解できない力を恐れる。とくに、王や貴族たちは。だから、彼女の行いは歪められ、語り継がれていった。──“フィアは、世界を焼いた”とね」
「でも、それって本当じゃない・・・?」
「ええ、本当ではない。彼女が焼いたのは“この世界”じゃない。彼女が焼いたのは・・・信じて裏切られた者たちへの怒りと、自分自身だった。彼女は自らの炎に焼かれ、消えた。そうして、“災厄”という名が残された」
私は小さく息を呑んだ。
母は言った。
「フィアの血は、絶えたと思われていた。でも・・・実はひとつだけ、密かに継がれていた流れがあったの。──それが、私たち。ベルナード家よ」
「・・・私たちが?」
「私は“フィアの末裔”。あなたは、さらにその血を濃く継いだ娘。炎を操る力だけじゃない。魂の奥底にある“深紅の炎”──それこそが、彼女の遺した力なの」
「・・・あ、もしかして・・・だから私、あんなに魔力が暴れるの?」
母は頷いた。
「フィアの力は、もはや人の枠を超えていた。彼女の炎は、ただの属性魔法ではない。“感情”と“記憶”に反応する、“魂の火”だった。あなたが夢を見るのも、過去を感じるのも、そのせいかもしれないわ」
「私が、ルナフェイズ・・・いや、フィアの記憶を・・・?」
「そう。でも、忘れないで。あなたはフィアじゃない。そして、ルナフェイズでもない。あなたはアリア──この時代に生きる、ひとりの魔女」
私はゆっくりと目を閉じた。胸の奥が熱くなっていく。
私は、過去の業を背負っているのかもしれない。だけど、それを“呪い”にするか“願い”にするかは──私次第なんだ。
しばらく沈黙が続いた。
私が次の言葉を探していると、母はぽつりと口を開いた。
「・・・私もね、一度だけ、“炎に飲まれた”ことがあるの」
その声は、かすかに震えていた。
「10歳・・・あなたとほぼ同じ年の頃だった。まだ若くて、感情を制御する術なんて何も知らなかった。ただ・・・必死だった。私の村は、もうすぐ“焼かれる”運命だった。領主の兵がやってくると知っていたの。邪悪な血を引く魔女がいると、噂が広まっていたから」
「それって、魔女狩りみたいな感じ・・・?」
母は静かに頷いた。
「そう。私は、自身の邪悪な魔力を隠して生きていた。でも、気づかれたのよ。誰かが密告したのかもしれない。──そして、兵たちが来た」
ランタンの灯が、母の影を揺らした。
「私は・・・そのとき、恐怖と怒りと、どうしようもない絶望に包まれた。“生きたい”って、そう叫んだの。心の奥で。でも・・・私の願いを受け取ったのは、“炎”だったの。私の中の、フィアの血よ」
私の心臓がどくんと鳴った。
「気づいたときには、もう・・・村が焼けていた。兵だけじゃない。人々も、家も、木々も、すべてが・・・」
母の瞳は遠くを見つめていた。まるで、まだその光景を見ているかのように。
「私は──人を守ろうとして、人を焼いたの。気づいたとき、私は地面に崩れ落ちていて・・・焼けた灰の中で泣いていた。泣いても、誰も答えなかった」
「・・・」
「私は“フィアの末裔”として生まれた。でも、心のどこかで、それを否定したかった。私は“普通の魔女”として生きたかった。でも、血は・・・炎は、裏切らなかった。私を守ったの。でも、それは“誰も守らなかった”ことと同じだった」
私は言葉を失った。母は、私が知らないほどに、深く、激しく──炎に傷ついていた。
「それ以来、私は炎を封じる方法を必死になって学んだ。魔力の流れを抑える術式、感情の制御法、そして・・・自分を偽る術。後に私は、“灼炎の女皇”という仮面をかぶり、静かに生きることを望んだの」
「・・・でも、私を産んだ」
「そう。あなたを見籠ったとき、正直、怖かった。あなたの中に、またあの炎が眠っていたらどうしようって。でも──同時に、思ったの」
母は、私の頬にそっと手を伸ばした。
「“この子には、私と違う未来を与えられるかもしれない”って。だから私は、あなたに“自由”を与えたかったの。炎に飲まれるのではなく、炎を灯せるように」
私は母の手を握りしめた。温かかった。
──過去の炎ではない、今を生きる、温もりだった。
「母さん、私は──」
「言わなくていい。まだ迷っているのなら、そのままでいい。あなたが進むべき道は、誰かに決められるものじゃない。ただ、覚えていて。あなたの中の炎は、呪いでも、罪でもない。──それは、生きようとする意志なのよ」
炎は、奪うだけのものじゃない。母が焼いたものの中に、きっと“想い”もあった。守ろうとした愛もあった。
私は、その続きを──見届けたい。
母の手を握ったまま、私は問いかけた。
「・・・母さんは、ずっと一人でそんな思いを?」
母は微かに笑った。けれど、その微笑みには血のように濃い、過去の影があった。
「知っているでしょう?私はかつて、七人の仲間と共に邪神ガラネルを討ち、彼を“異界の門”に封じた」
もちろん、それは知っている。
炎の大魔女たる母の強大さを物語るエピソードであり、母が”灼炎の女皇”と呼ばれるに至るまでの、根本的なスタートの物語だ。
母の瞳は、かすかに赤く揺れた。
静かな怒りと、深い悲しみが燃えている。
「その戦いで、私は炎の力のすべてを解き放った。そうして、私たちは勝った。私はその後、故郷の地全体を守る結界を張り巡らせた・・・この全身を代価として。だから、私はこの土地を離れられない」
私は声を失った。私の知っている母ではない、けれどたしかに母である彼女が、そんな過去を背負っていたなんて。
「でも・・・前にも言った通り、その勝利は完全なものじゃなかった。奴は、呪いを残したのよ。私の血を受け継ぎ、私に“愛された者”たちへ──」
母は、ゆっくりと言葉を区切るように続けた。
「“私の家族となった者は、例外なく早死にする”・・・見えない毒のように、魂を蝕む呪い」
私は思わず母の腕を見た。その細い腕に、見えない何かが絡みついている気がして、ぞっとした。
「・・・父さんも、そうだったのよね」
母は、瞳を伏せた。
「ええ。結ばれてから一年もせず、帰らぬ人となった・・・原因もわからないまま、急に倒れてね。私は、後になって気づいた。ガラネルの呪いだったんだって。でも・・・そのときには、もうあなたを身ごもっていた」
「・・・」
「とても悩んだわ。産むべきかどうか。でも──この子の命に罪はないって、そう思った。呪いを恐れて、愛さない理由にはならないと。・・・だから私は、あなただけは絶対に生かすって、心に決めたの」
私は何も言えなかった。
母は、ただただ強かった。失い、呪われ、それでも生き抜いてきた。その身一つで。
「アリア。あなたが炎に振り回されそうになっても、私がそばにいたのは・・・ただ守るためじゃない。あなたが私のように、“炎を怖れながら生きる魔女”になってほしくなかったのよ」
「母さん・・・」
「あなたはまだ知らないかもしれないけど、あなたの炎は、私を超えるかもしれないほど純粋で、強い。だから私は、それを“殺さずに守る”ことを選んだ」
母は、私の額にそっとキスを落とした。
「私は、この世界を炎で守った。でも、あなたには、炎で世界を照らしてほしい」
あたたかな唇の感触が、額から胸の奥まで伝わってきた。涙が、こぼれそうだった。
私がその手をぎゅっと握り返したとき、母の指先が微かに震えた。
「ねえ、母さん・・・私はどうすればいい? 炎と、生きるには」
母は、目を細めて言った。
「“燃やす”のではなく、“灯す”ことを、考える。アリア──それが、あなたにしかできない未来への道なのよ」