春の陽が差し込む教室の窓辺。
小鳥のさえずりが微かに聞こえる中、私たちは静かに椅子に座っていた。
これから受ける授業は、「結界の感知と識別」。
担当のガルト先生は、風属性の高位使いで、外見はちょっと怖いけど本当は優しい人だ。
結界の性質を読み取る力に長けていて、「自分の国の結界のゆらぎを肌で感じることができて一人前」と、いつも口癖のように言っていた。
「さあ、目を閉じて、自分の内側に魔力を集中してごらん。レフェの大地を覆う『炎の結界』・・・それが、どこまで感じられるかを試してみよう」
先生の言葉に従って、私はそっとまぶたを閉じた。
呼吸を整え、魔力をゆっくりと巡らせてゆく。身体の奥に灯る、赤くて熱い光。それが私の“炎”。
・・・あった。
遠く、大地を包み込むように広がる巨大な“膜”のような存在。それが母の張った結界だ。今までも何度か感じ取ったことはあったけれど、今日は──。
──おかしい。
私はふっと息を詰まらせた。
なぜか、国の中央あたりの結界が“薄い”。
まるで布が擦り切れたように、魔力の流れが乱れているのが分かる。
(・・・まさか)
ちょうど1日の最後の授業だったので、私は授業が終わるなり、足早に家へ帰った。
胸の奥にざわついたものを抱えたまま。
帰ってくると、母はいつも通り居間で魔術書を読んでいた・・・ように見えた。
けれど、私が声をかけたとき、母は軽く咳き込んでいて、しかも机の上にあった杯の水は、周囲の空気で湯気を立てていた。
「・・・母さん、なんか魔力暴走しかけてない?」
母は微笑もうとしたけれど、その目元はどこか疲れていた。
「・・・さすが、私の娘ね。察しが早いわ」
「結界・・・弱まってる。今日の授業で感じたんだけど、あれ、まさか・・・」
私が言いかけると、母はゆっくりとうなずいた。そして、窓の外──遠くの山脈を見つめるように、ぽつりと語りだした。
「・・・この国を覆う結界の中心は、家の地下にあるわ。私が、命を賭けて張り巡らせた結界」
「え、それじゃ、もしかして・・・!」
私の声が震える。
母は静かに目を伏せた。
「私の命が尽きれば、この国の結界は消える。そうなれば・・・ガラネルの封印も、解けてしまう」
「え・・・」
「レフェだけじゃないわ。大陸の八つの国、それぞれに存在する“大魔女”が張る結界は、単なる国の防御じゃない。すべては繋がっているの。ガラネルを、門の向こうに閉じ込めるための封印・・・その一部なの」
私は言葉を失った。
「そして・・・私の魔力は、最近中枢が揺らいでいる。自分でも分かるの。・・・また誰かを焼き尽くす前に、どうにかしなきゃ」
母は、自分の手を見つめながら微笑んだ。どこか寂しげに。
私は、拳を握った。
「母さん・・・私、強くなる。もっと。母さんの代わりに結界を支えられるくらいに」
母は目を見開き、それから、少しだけ微笑んだ。
「・・・ありがとう、アリア。でも、あなたにはまだ早いわ。あなたの未来は、私の代わりになることじゃない。あなたは──あなた自身の道を、歩んで」
母はそう言ってくれたが、私は心の奥で決めていた。
どんな未来が待っていようと、私は守る。母も、この国も。
たとえ、世界が壊れそうになっても──。
その夜、私は眠れなかった。
部屋のベッドに横たわって、天井を見つめながら、母の言葉を何度も思い返していた。
──私の命が尽きれば、結界は消える。
それはつまり、この国に迫る危機が、すでに始まっているということか。炎の魔女としての力を、母が保てなくなってきているということか。
(どうして私、今まで気づかなかったんだろう)
授業で“結界”に触れたのは、今日が初めてじゃない。 何度も、何度も訓練してきた。けれど──今日、初めて「異変」として捉えられた。
それは、私の魔力が強くなってきたからだろうか。それとも、母の魔力の揺らぎが、それだけはっきりと現れてきたから・・・?
どっちにしても、のんびりしてる場合じゃない。
私は枕元のノートを手に取り、ぱらぱらとページをめくった。
火の精霊との対話方法、結界式の構築理論、魔力の循環制御・・・どれも、まだ完璧にはできていない。
でも、覚えなきゃ。もっと学ばなきゃ。
そして──母の背中を、少しでも支えられるように。
(・・・私、知らなかったんだ)
どんな思いで、母がこの結界を支えていたのか。 毎日のように見ていた、あの凛とした背中が──実は、いつ壊れてもおかしくないほど、綱渡りだったなんて。
──どうして、もっと早く気づけなかったんだろう。
悔しさで胸がいっぱいになり、私は思わず毛布をぎゅっと握りしめた。
目元が熱くなる。でも泣いてる場合じゃない。私がしっかりしなきゃ。
明日から、もっと頑張ろう。いや──今からでも、できることを探そう。
そのとき。
ふと窓の外で、風がやさしくカーテンを揺らした。
──サァァ・・・
静かで、心地いい風の音。まるで、「大丈夫だよ」と誰かに囁かれたような気がした。
(・・・ガルト先生の風、みたい)
私は深く息を吸い込んだ。 そして心の中で、静かに誓いを立てた。
(絶対に・・・絶対に、母さんを守る。結界も、この国も。ぜんぶ──私が)
翌朝、学院の鐘が鳴る少し前──私はまだ人影の少ない渡り廊下を歩いていた。
昨夜、母のあの言葉を聞いてから、どうしても気が逸ってしまい、早く来すぎたのだ。
風が静かに吹き抜ける中庭。その片隅に、長身の人影が立っていた。
黒と深緑のローブ。その縁をなぞるように刺された風の符文が、朝の光を受けて柔らかく輝いている。
──ガルト=フェルディナント先生だ。
深いエメラルドグリーンの髪は無造作に背に流れ、微かな風に揺れている。その背はまっすぐに伸び、まるで戦場に立つ軍人のような静かな威圧感があった。
けれどその雰囲気に、なぜか私は息苦しさを覚えなかった。不思議と、呼吸が深くなる。空気が軽く感じられる。
「・・・アリア・ベルナードか」
彼は、こちらを見ずに言った。けれどその声には、確かな意志と“見抜く者”の重みがあった。
「君の魔力が、昨日、大きく揺れたな。・・・いや、揺れさせたのか」
私は驚いて足を止める。彼の背中越しに見えるのは、学院の上空に広がる、淡く霞む雲。だが彼の眼は、もっと遠くを──空気の流れを視ているのだろう。
ゆっくりと振り向いたガルト先生の視線が、私を射抜いた。鋭い黄緑の瞳。その中に、風の道筋が宿っているように思えた。
「風は変化をもたらすが、常に秩序を求めて吹いている。・・・それを読めるかが、魔法使いの分かれ目だ」
その言葉に、私は息をのんだ。
「セリエナ殿の魔力・・・いや、“核”が、沈み始めている。炎の本流に、わずかな沈黙がある。・・・君も感じたろう?」
「・・・はい」
私は小さく頷いた。昨夜の水のゆらぎ、母の言葉、炎の消える気配。すべてが、先生の言葉とつながっていく。
「君の魔力は、既にその流れを受け始めている。自覚しているか?」
「母の代わりに、何か・・・しなきゃいけない気がして」
私が言うと、ガルト先生はわずかに目を細めた。
「セリエナ殿の“代わり”になることなど、誰にもできん。・・・だが、違う流れを創ることはできる。君自身の魔力でな」
そのとき、微かな風が彼の周囲を舞った。ローブの袖口からふわりと浮かぶ細かい魔法具の粒が、緑の光の軌跡を描く。
「セリエナ殿の魔力が揺らげば、世界は反応する。特に、“門”の封印はな」
「ガラネルの・・・?」
「“風”は、すでにざわめき始めている。まだ声にはなっていないが、境界の結界に、歪みが生じている」
私は思わず拳を握った。
「私・・・何をすれば・・・」
「まずは、己の炎を知るのだ。母君のそれではない、“アリア・ベルナード”という存在の魔力だ。それなくして、何も守れはしない」
そう言い残すと、彼はふたたび空を仰いだ。髪が風に流れ、背後に朝の陽が滲む。どこか、ひどく遠い場所を見ているようだった。
「・・・授業を楽しみにしているぞ。今日は、風の結界の基礎だ」
それだけ言うと、彼は廊下の奥へと歩いて行った。背筋をまっすぐに伸ばし、風をまとう姿は、ひとつの秩序のように見えた。