季節は、春から初夏へと静かに移り変わっていた。
窓の外には、新緑が陽を受けて揺れている。レフェの風はまだ柔らかく、けれど確かに熱を帯び始めていた。
私とシルフィンは、今日もガルト先生の授業を受けていた。
「結界の性質を読む力。それは、結界を展開する魔法使いにとって最も重要な感覚だ。理屈ではない。風の乱れに、気づけるかどうか・・・」
教室の中央で、ガルト先生はそう言って、指先で軽く空をなぞった。
すると、淡い緑の光が軌跡となって空間に描かれ、細やかな魔法陣が浮かび上がる。
風の魔力が流れる“道”──目に見えないものを、先生は視覚化して見せた。
「君たちは、ようやく見ることができるようになったな。アリア、シルフィン」
「・・・はい!」
シルフィンがやや硬い声で答える。
私はそれに続いた。
「先生、質問があります。この結界、中央が二重構造になっていますが・・・これは、補強ですか?」
「正確には“重ね掛け”だ。防御というより、別の魔法構造を織り込んでいる。よく気づいたな、アリア」
ガルト先生は珍しく、ほんのわずかに口角を上げた。・・・ほめられた。
シルフィンは、隣で軽く私の肘をつついた。「・・・さっすが、アリア」と、小声でささやく。
私はちょっとだけ照れながら、視線を窓の外へ移した。
“感じる”力。それは、以前の私にはなかった感覚だった。
けれど、ガルト先生のもとで何度も訓練を重ねるうちに、空気のわずかな歪みや、魔力の揺れが、確かに“分かる”ようになってきた。
風を読む──それは、この国の今を知ることでもある。
私の母が張った結界、その変化。その先に待つ運命に、私がどう向き合うべきかを考えるためにも。
授業が終わると、ガルト先生は最後に静かに言った。
「・・・風は常に流れている。変化を恐れるな。ただし、秩序を見失うな。魔法使いとは、それを読める者のことだ」
教室の空気が、一瞬だけ静まり返った。
そして私たちは立ち上がり、背筋を伸ばして礼をした。
ガルト先生は何も言わず、ただ静かに窓の外の風に目を向けていた。
・・・確かに、変わり始めている。この国も、私自身も。
けれど、進まなくちゃならない。見えてきたものがあるのなら──。
私は、教室を出ながら、心の中で決意を新たにしていた。
校舎を出て、石畳の道を並んで歩く。
初夏の陽はやや高く、遠くの空では白い雲が風に押されてゆっくり形を変えていた。
「今日の先生、ちょっと優しかったね。ほめてくれたし」
シルフィンが小さく笑って、私の横を歩く。
「・・・うん。あんなふうに笑うの、珍しいよね」
「やっぱり、アリアが鋭いとこ突いたからじゃない?あの結界の“重ね掛け”って、私ちょっとしかわかんなかったし・・・正直、あの緑の光、いまだに息をのむよ。風の魔法って、ほんときれい。私に適性がないのがすごく残念」
「・・・うん。きれい、だね」
私は、ゆっくりと足を進めながら答えた。
風。光。空気の震え。
それを“きれい”だと思える感覚を、私はこの世界に来て、ようやく知った。
──前の世界では、こんなふうに思ったことなんて、たぶん一度もなかった。
学校では、いつも誰かの視線を気にしていた。いつ背中を押されるか、ロッカーを荒らされるか、机に落書きされるか。
教師も、見て見ぬふりをしていた。
私がどれだけ泣いても、どれだけ叫んでも、世界は変わらなかった。
でも、今は──。
「・・・アリア?」
シルフィンが、ふと私の顔をのぞきこんだ。
「あ、ごめん。ちょっと考えごと」
「ううん、なんか遠く見てたから。・・・大丈夫?」
「うん。全然」
私は笑った。できるだけ自然に、心配させないように。
「ねえ、シルフィン」
「ん?」
「“見ること”って、先生は言ってたけど・・・私、少しずつ見えてきた気がする」
「・・・風の流れ?」
「それもあるけど・・・それだけじゃない。・・・世界のかたち、とか」
「ふふ、アリアってときどき詩人みたいなこと言うよね。セリエナさんの娘だからかな。・・・でも、わかるよ。私も、前よりちょっとだけ、何かが見えてきた気がする。自分の力とか、限界とか、そういうの」
私はシルフィンの横顔を見つめながら、小さく頷いた。
前世の私は、誰にも信頼されず、誰も信じることができず、だから終わってしまった。
けれど今は──こうして隣に、肩を並べて歩く人がいる。
言葉にしなくても、分かち合える時間がある。
「・・・ありがとう、シルフィン」
「え?」
「・・・なんでもない」
私は小さく笑って、風に髪をなびかせた。
もうすぐ家に着く。けれど、まだ少しだけ、この風に包まれていたいと思った。
家に戻ると、ほのかなハーブの香りが出迎えてくれた。
窓の外には朱に染まった空。風はやさしく、庭の花々が揺れている。
「おかえり、アリア。今日は早かったのね」
母はいつものように穏やかな声で私を迎えた。柔らかな赤髪をゆるく束ね、エプロン姿のまま作業台に向かっている。
「うん。授業、最後の方早めに終わって。・・・何作ってるの?」
「『鎮静の
私は頷いて、隣に立った。
母が差し出したのは、青みがかった透明のビン。中には細かく刻まれた銀緑の葉と、わずかに発光する液体が揺れていた。
「これ、
「ええ。風属性の魔力を持つ者にとっては、特に相性がいい植物。でも、注意しなければならないのは、その“混ぜる順番”よ。間違えると効果が逆になるわ」
母はそう言って、慎重に瓶を傾けた。その指先には炎の紋章が浮かび、かすかな熱が周囲の空気を整える。
「アリア、試してみる?」
「うん」
私は深呼吸して、母の手から瓶を受け取った。蒼露の液体に、少しだけ自分の魔力を注ぐ──静かに、静かに。
魔力の流れを整える感覚。授業中に学んだ理論が、今は指先で確かに“生きている”。
「・・・すごい。ちゃんと・・・揺れてる」
「ええ、いい流れよ。魔力を扱うっていうのはね、力で押し通すんじゃなくて、対話することなの。薬草も、魔法も、人の心も」
母の声は、炎のように暖かくて、風のようにやさしかった。
私は少しだけ、母の横顔を見つめる。
──この人に育てられて、本当によかった。
前の世界では、あんなふうに私を責める目しかなかった。
でも今は違う。手を伸ばせば、そこに確かに“ぬくもり”がある。
「・・・母さん」
「なぁに?」
「ありがとう。・・・いつも」
母は一瞬きょとんとした顔をしたあと、ふわりと微笑んだ。
「ふふ、どういたしまして。じゃあ、お礼代わりに・・・今晩はちょっと特別なハーブティーをいれましょうか?」
「うん!」
私は自然と笑っていた。
夕暮れの部屋に、やさしい風と、草の香りが満ちていた。