魔法薬の香りが満ちる薄明の室内で、母は一息ついて私に視線を向けた。
その表情は穏やかで、けれどほんの少し、遠い過去を懐かしむような寂しさが滲んでいた。
「・・・あの頃は、信じられないほどの力と混乱が渦巻いていたわ。けれど、それでも──楽しかったの」
私は瓶の口を封じながら、母の横顔をそっと見つめた。
夕日が差し込み、赤髪が燃えるように輝く。その姿は、どこか童話やおとぎ話に出てくる“伝説の魔女”のようだった。
「“あの頃”って、戦争の時・・・?」
母は微かに頷き、薬草を指先で砕いた。
「そう。・・・私を含めて、八人の魔女がいた。八つの属性を担う魔女たち。今では、“八大魔女”と呼ばれているわね」
私は手を止めた。
”八大魔女”。幾度となく言耳にしたことがある言葉だ。
この世界の歴史書や、ゼスメリアではしばしば伝説のような存在として語られる。
目の前の母は、そのうちの一人。
だが、他の七人がどこで何をしているのか、私はよく知らない。
「・・・その人たちって、今もどこかに?」
「ええ、生きているわ。私と同じように、七つの国のいずれかに拠点を移し、それぞれの地を守る“柱”になっている。雷のリゼ、氷のヴァルナ、水のシェル、風のエスリィ、地のオルガ、光のセファラ。そして・・・闇のマティア。誰もが誇り高く、そして孤独だった」
その名をひとつひとつ口にするたび、母の声は少しずつ遠くなるように感じられた。
私は何か問いかけたくなったが、同時に口を噤んだ。
母の中にある記憶は、まだ触れてはいけないような、そんな重さを湛えている。
代わりに、私はそっと言った。
「会いたいと思う?」
母は瓶の蓋を閉め、微笑んだ。
けれど、その目はほんの少し揺れていた。
「・・・それは、彼女たちが望むかどうかにもよるわ。絆とは、力で繋ぐものじゃないから」
室内を風が抜け、窓辺のカーテンを揺らした。
私はその流れに、どこか「はじまりの気配」を感じた。
“八大魔女”。母はその一人であり、その仲間たちもまた、この世界のどこかで生きている。
──この時、私はまだ知らなかった。
彼女たちの運命が、やがて自分の歩む道に深く関わってくることを。
風が揺らしたカーテンの隙間から、茜色の空が覗いていた。
私は黙ったまま、母の手元に置かれた薬瓶を見つめていた。
セリエナ・ベルナード。私の母であり、炎の大魔女。
そして──かつて世界を救ったという、八人の偉大な魔女のひとり。
前世で自殺した私が、そんな人の娘に転生するなんて・・・普通なら、信じられないって思うはずなのに、どうもあまり思わない。
この人の纏う空気はあたたかくて、でもどこか厳しくて、遠くの過去を背負っているような、そんな感じがする。
「雷のリゼ、氷のヴァルナ、水のシェル……」
母が呟いた魔女たちの名を、私は心の中で反芻する。
そのたび、胸の奥が少しだけざわめいた。
名前だけじゃ何もわからない。でも、どこかで出会う気がする。・・・そう、予感みたいなもの。
「母さん。・・・私も、彼女たちに会うことになると思う?」
思わず、そう聞いていた。
母は少しだけ目を伏せて、でもすぐに私をまっすぐに見た。
「そのうち、否応なく巻き込まれるわ。あなたは、私の娘だから」
その言葉には、迷いも冗談もなかった。
炎のようにまっすぐで、熱を孕んでいた。
“否応なく”──母の言葉は、どこか冷たくて、でも優しかった。
それはまるで、未来の私を案じているようで。
私は微かに頷いた。
怖くないと言えば嘘になるけど、不思議と逃げたいとは思わなかった。
この世界で、生きていくって決めた。
前の世界で何もできなかった私にとって、それは──再出発の証。
あのときの私じゃない。
ここでは、ちゃんと自分の足で歩ける。歩きたい。・・・そう思えた。
瓶の中の魔法薬が、ほのかな光を放つ。
それは、夕暮れの影を跳ね返すように揺らめいていた。
きっと、世界は変わっていく。
“八大魔女”の名が、私の歩く道のどこかで再び響くとき──私は、ただの“娘”じゃいられない。
胸の奥で、炎が静かに灯る気がした。