汗が背中を伝い、制服の布地が肌に張りつく。周囲には焦げた匂いと、魔力が消えていく残り香だけが残っていた。
ふと見ると、シルフィンも同じように肩で息をしていた。
赤い髪が汗で額に貼りつき、普段はきりっとしているその目が、今はほんの少し潤んでいる。
まるで、火の精霊が一度火を収めたように。
「・・・ほんとに、手加減しなかったんだね」
シルフィンが呆れたように笑いながら、汗をぬぐう。
その笑顔にはどこか清々しさがあって、私は思わず口元を緩めた。
「だから、言ったでしょ?それに私は、『灼炎の女皇』の娘よ」
「ん、私だって・・・!あれでも、本気だったんだからね!」
そう言いながら、シルフィンは仰向けになって芝の上に寝転がった。
そのまま空を見上げ、眩しそうに目を細める。
夏の兆しを孕んだ朝の空。
遠くには、うっすらと入道雲が浮かんでいた。
私はしばらくその隣に座っていたが、やがて同じように寝転がった。
背中から草の匂いがして、まだ冷たさの残る土の感触が心地よい。
沈黙がしばらく続いた。けれど、それは気まずいものじゃなかった。
火照った体に、風が通り抜けていく。
「ねえ、アリア」
ふいに、シルフィンが声を発した。
その声はさっきまでの戦闘のものではなく、どこか脆さを含んだ少女のものだった。
「・・・何?」
「私ね、昔から“マグナスター家の子”として見られてたの。“炎の名門”だって、強くて当然、特別で当然、って・・・でも、その“当然”がずっと苦しかった」
私はそっと彼女の横顔を盗み見た。
まっすぐに空を見上げながら話すその表情は、いつになく柔らかく、どこか寂しげだった。
「“セリエナ様の娘さんが同級生にいるんだから、彼女みたいになりなさい”ってよく言われるんだけど・・・そのたびに怖くなるの。自分が、自分の魔法が、本当に好きなのか分からなくなって。“私って、なんなんだろう?”って・・・ずっと思ってた」
その声に、私はなぜか胸の奥を掴まれたような気がした。前世では、誰かとこんなふうに向き合えたことなんてなかった。
「でもね、今日戦って、少し分かった気がするの。アリア、あなたの魔法はすごく自由。誰かの言葉じゃなくて、誰かの真似でもなくて・・・ただ、自分自身のままで燃えてる」
風が吹いた。燃えさしのように赤い髪が交わった。
「あなたの魔法を見るたびに、私もあんなふうになりたいって思うの。“誰かの理想”じゃなくて、“私のまま”で炎を灯したい・・・って」
私は言葉を失った。
でも、それでも、何かを返さなきゃいけない気がして・・・ゆっくりと目を閉じて、素直な思いを探した。
「あなたの魔法は、もう十分すごかった」
「・・・え?」
「最初の炎槍、正直ちょっと焦った。私、ああいう攻めには慣れてないから。あれ、“誰かの真似”なんかじゃなかった。ちゃんと、あなた自身の魔法だったよ」
シルフィンは目をぱちくりさせて、それから突然起き上がった。
「ほんとに!?あのセリエナ様の娘・・・アリア・ベルナードに“焦った”って言わせた!?
うわ、やった!これ一生の自慢にするわ!」
「あなた・・・はあ。プライドが高いのか、低いのか分かんないわ」
呆れながらも、私は笑ってしまう。
その無邪気な笑顔を見ていると、どこか遠い昔の・・・前世の、幼い頃の夏を思い出した。
その日、私は初めて「シルフィン・マグナスター」という一人の少女の姿を、しっかりと見た気がした。
そしてたぶん、彼女もまた、私という“個人”を見てくれたのだと思う。
燃えるような、訓練場の中央で。
その夜、私はまた奇妙な夢を見た。
燃えるゼスメリア、白い影、名前のない声。
そして、赤い目の少女がこちらを振り返る。
(あれは・・・誰?)
それ、は現実ではありえないはずの光景だった。 けれど私は、はっきりとその熱を、煙の匂いを、感じていた。
赤く染まる校舎。きしむ扉。崩れかけた壁。その中に、“それ”は立っていた。
白い影。名前のない声。そして──
赤い目の、少女。
その子はゆっくりとこちらを振り返った。 表情は見えなかった。ただ、確かに目が合った気がした。
(・・・あれは、誰?)
言葉をかけようとした瞬間、夢は唐突に途切れた。
私は、汗ばんだ額に手をやりながら目を覚ました。
部屋の窓はわずかに開けてあって、夏の気配を含んだ風がカーテンを揺らしている。
けれどその風が、さっきまで見ていた夢の熱を吹き消すことはなかった。
(・・・また、あの夢)
最近、夜ごとに見るようになった“記憶にない景色”。 燃える建物。何かを喪ったような胸の痛み。そして、名前のない少女。
夢はいつも曖昧で、掴もうとするたびに指の間から零れていく。
でも今日のそれは、なぜか・・・“これから起きること”のような、そんな予感すらあった。
朝の支度を終えて、私はいつものように学院へ向かう。
空は高く澄んで、木々の葉はまばゆく光を反射していた。 けれどその美しさの中にも、ほんのわずかに──まるで、息をひそめて何かが“始まる”のを待っているような、そんな静けさがあった。
学園に着いて間もなく、クラスの空気がざわつきはじめた。
「ねえ、聞いた?今日、編入生が来るって」
「えっ、今の時期に?変なのー。試験終わったばっかなのに」
「しかもさ、ルージュの組なんだって。私たちのクラスだよ」
私はその声を聞いて、思わず足を止めた。
編入生。それ自体はおかしいことではない。けれど──
胸の奥で、夢の残滓がかすかに脈打つ。
赤い目の少女。 あの白い影。 燃える校舎。
夢と現実がじわじわと重なっていく感覚に、私は小さく息をのんだ。
(まさか・・・そんな偶然、あるはずないよね。サラの時じゃあるまいし)
それでも、不思議と確信めいたものがあった。
──あの夢は、過去の記憶でも、ただの空想でもない。 “誰か”が、近づいてきている。
もう、夏はすぐそこだ。
空は青く、風は熱を孕み、記憶の奥で沈んでいた何かが・・・少しずつ、ゆっくりと動き出していた。
間もなく、朝の会の始まりを知らせる鐘が鳴る。
そのとき、私は“あの子”と再会するのかもしれない。