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87.オレンジの影

 朝の教室は、いつもよりざわついていた。


「そういえば、今日って編入生が来るんでしょ?」


「この時期に?ちょっと変だよね」


「地属性らしいよ。どこから来たんだろうねー」


クラスメイトたちのざわめきが、耳の奥で反響する。

私は静かに席につきながら、昨夜の夢の残像を心から追い払おうとしていた。


 ──赤い瞳の少女、崩れゆく学院、紅に染まった空。

現実のように鮮明だった、あの夢はなんだったのだろう。


 思わず手元を見る。汗ばんだ指先が、夢の余韻をはっきりと物語っていた。


「おはようございます、アリアさん」


控えめな声に顔を上げると、サラがそっと隣に腰を下ろす。

四年生になってから、彼女はいつも私の隣に座るようになった。


「・・・あ、おはよう。サラ」


 サラは少しだけ首をかしげ、私の顔を覗き込む。けれど何も言わずに、いつもの微笑みを浮かべただけだった。


 その時、教室前方のドアが開く。担任のレシウス先生が姿を見せた。


「おはよう、みんな。今日は新しい仲間を紹介するよ」


 そう言って、先生はドアの外へと手招きをした。

ゆっくりと、一人の少女が教室に入ってくる。


──その瞬間、私は息を呑んだ。


柔らかく光を受ける橙色の髪、澄んだ琥珀のような瞳。

髪も目も、地属性の証を宿している。


(・・・赤く、ない)


心の中でそうつぶやいて、安堵する。けれどその奥には、わずかな物足りなさが残った。


「ノエル・ルシリスです。今日からお世話になります。よろしくお願いします」


 少女は一礼し、しっかりとした声で名乗った。

その話しぶりはどこか大人びていて、教室が一瞬静まり返るのがわかった。


彼女──ノエルは一瞬だけ、私の方を見た。

だがその視線には、何の色もなかった。

探るような気配も、驚きも、関心も。まるでただの“他人”を見ているかのようだった。


(特に、何も・・・)


 心の中で繰り返し、小さく息をついた。


「彼女の席は・・・アリアの隣にしよう。アリア、いろいろ教えてあげてくれ」


「・・・わかりました」


私は無意識に背筋を伸ばして返事をした。


 ノエルは静かに私の隣──サラの反対側に座り、鞄をそっと机の下に置いた。

その所作に、一切の無駄がない。


「よろしくね。時間割、見せた方がいい?」


「・・・うん。ありがとう」


口調は素っ気なくない。むしろ丁寧ですらあった。

けれど、そこには温度がなかった。言葉の壁に触れているような、そんな感覚。


「地属性って、珍しいよね。どこから来たの?」


「北西の村。学院は、ここが初めて」


「へえ・・・ 緊張とか、してない?」


「・・・少しは、してる」


 その“少し”が、どこまで本当なのか、私には分からなかった。

彼女はまるで、最初からここにいたかのように落ち着いている。


(堂々としてる・・・すごいな)


けれど、それこそが違和感だった。


「・・・」


 ふと横を見ると、サラがノエルを見つめていた。言葉もなく、じっと何かを見抜こうとするように。


「サラ?」


声をかけると、サラはすぐに目を逸らし、小さく首を振った。


「なんでもありません」


それだけの言葉が、胸に小さな棘のように残った。


(ノエルは、夢に出てきた“あの子”じゃない。・・・でも、何かがおかしい)


 新しい朝。新しい出会い。

それなのに、私の胸の奥に沈む影は、少しも晴れなかった。




 チャイムの音とともに、教室の空気が一気にほぐれた。

昼食の時間。生徒たちは思い思いに立ち上がり、校舎中央の食堂へと向かい始める。


「よっし!今日は絶対デザート付きのセットにするっ!」


元気に立ち上がったのは、シルフィン。

炎のように短く整えられた赤髪が揺れ、目もきらきらと輝いている。


「昨日、それでポタージュこぼしてなかった?」


「うっ・・・アリア、それは秘密にしてって言ったじゃん!」


「ふふっ・・・」


 思わず笑ってしまう私の隣で、もう一人の女友達ことサラがふんわりと微笑んでいた。


「今日のメニュー、オムレツとポタージュに、林檎のコンポートがついてるみたいです。・・・たぶん、シルフィンさんの好物ですね」


「わかってるじゃん、サラ!ありがとう!」


三人並んで教室を出るとき──その後ろ姿が、目に入った。


 ノエル。今日転入してきたばかりの、オレンジ髪の少女。

彼女は誰にも話しかけず、何も言わず、ただ一人、静かに歩いていた。


(・・・綺麗な歩き方。でも)


その背中には、妙な違和感があった。

端正すぎて、不自然なほどに整っていて──でも“生きた”感じがない。


「・・・なんかあの子、氷みたいだよね」


 シルフィンがぽつりとつぶやいた。

普段は明るい彼女の声が、どこか慎重だった。


「触ったら溶けちゃいそうな・・・でも、こっちが凍るかもしれない感じ」


私はそれに返す言葉を探して、見つからなかった。




 食堂は今日もにぎやかだった。

木造の大広間に昼の光が差しこみ、生徒たちの楽しげな声と食器の音が交錯する。


三人で列に並んでいると、ノエルが前方に見えた。

オレンジの髪が窓の光を受けて、まるで水面のようにきらきらと輝いている。


けれど彼女は、ずっと俯きがちで、誰とも目を合わせない。


「初めて・・・なのかな、ここで食べるの」


 シルフィンがぽつりと言った。


「そうかも。でも、なんか・・・変な感じがするの」


「・・・変な感じ?」


「夢の中で、見たことがある気がするんです。あの髪の色、あの立ち方・・・それに、赤い空で」


私とシルフィンは、同時に彼女を見た。


「サラ、夢・・・って?」


 サラは、林檎のコンポートがのったトレイを受け取りながら、遠い目をしていた。


「前にも言ったと思うんですけど・・・また最近、夢を見るようになって。校舎が崩れて、誰かが泣いてて、赤い空に、影が立ってて──」


彼女の手が、少し震えていた。

それを見て、シルフィンも顔を曇らせる。


「それって・・・前にアリアが言ってたやつと、似てない?」


 私の喉が、かすかに鳴った。

忘れようとしていた“あの夢”──炎に包まれた学院、崩れ落ちる塔、焼け焦げるような叫び声──。


「・・・うん、似てる」


三人でテーブルに着くと、ノエルは少し離れた席で、黙々と食事をしていた。

姿勢は整っていて、手元の動きも優雅。けれど、まるで心が感じられなかった。


「・・・あの子、本当に魔女?」


シルフィンの声は、冗談のようでいて、どこか本気だった。


 サラはそっと祈るように手を合わせて、呟いた。


「次は、“もっと近くに来る”気がします。夢の中で。あの人が・・・こっちを見てるんです。真っ直ぐに」


 その言葉に、私はノエルの背中を見た。


彼女は静かにスプーンを動かしながら──まるで、全部聞こえているような気さえした。



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