夕暮れの校舎。窓の外が茜色に染まり、廊下には誰の気配もなかった。
私は中庭を見下ろせる場所に立ち、ひとり黙って彼女を見つめていた。
──ノエル・ルシリス。
風に揺れる橙色の髪。整った制服の襟元。何もしていないはずなのに、その背中はどこか浮いて見えた。
まるで、この世界の地面にちゃんと足が着いていないみたいに。
そのとき、不意に彼女が顔を上げた。
その目が、赤く焼けた空ではなく、見えないどこかを見つめているようだった。
(・・・思い出しかけてる)
その確信が、胸の奥に走った。
彼女の中に眠る“前世”──それは、私が地獄と呼ぶしかなかった日々の一部。
伊原
同じテニス部で、クラスメイトだった。
表面上は「誰とでもうまくやれる子」とされていたようだが、私への態度は違っていた。
直接手を下すことはほとんどなかった。
でも美紗は、私のラケットに細工をし、水筒の中身をこっそりすり替え、ロッカーの上に生ゴミを仕込み・・・「道具」を使った、陰湿なやり方で私を痛めつけてきた。
笑いながら、周囲に「三春が鈍臭いからでしょ」って流すのがうまかった。
あの頃の私は、毎日が“仕掛けられた罠”だった。
──だから、私は覚えてる。
伊原美紗の視線。
笑っているくせに、どこか冷めた目で、私が苦しむのを遠巻きに見ていた、あの感覚。
(それが・・・ノエル)
あの時の罪を知らずに、この世界で平然と生きている。そう思うと、言葉にならない怒りがこみ上げる。
でも、夢が呼び起こす。
地が呻き、記憶が揺れる。そのたびに、少しずつあの女の“奥”が目覚め始めている。
──思い出せよ、美紗。
名前も、過去も、あの教室で私に向けたすべてのことを。
私は、あんたに“問う”ためにここにいる。
「どうして?」
「なぜ、あんなことをしたの?」
「私は、あんたに何をしたの?」
言えなかった言葉が、もうすぐ私の口から出る。
そのときこそ、あんたの“言葉”を聞かせてもらう。
──でも。
(その前に・・・一度、落ちてもらう)
私が味わった“地獄”を、あんたにも味わわせてやる。
夢の中じゃなく、現実の“揺らぎ”として。
報復はする。
でもそれは、ただの復讐じゃない。
私のためじゃなく、“かつての私”のために。
柵に手をかけ、私はゆっくり背を向けた。
その背後で、ノエル──伊原美紗の姿が、夕焼けに沈みかけた風の中で、揺れていた。
許すかどうかは、全てが終わってから決める。
翌朝、教室にはまだ朝の冷たい光が残っていた。
私は誰よりも早く登校し、静まり返った教室に一人入る。
(・・・今なら、誰にも見られずに済む)
ノエルの机の上に、一冊のノートをそっと置いた。その中には、古びた羊皮紙のような質感の一枚が挟まれている。
表面には、なにも書かれていないように見えるが──それには、私の記憶の一部が魔法として封じられている。
「追憶の魔法」──対象がページを開いた瞬間、魔法をかけた者の記憶を“体験”する。夢のような形で、五感ごと。
その魔法はただ見せるだけではなく、“体験させる”のだ。
(目覚めてもらう。せめて、自分のしてきたことくらい──)
私は席に戻り、誰にも気づかれぬよう、深く息を吐いた。
しばらくして、生徒たちが次々に教室へ入ってくる。
ノエルもその一人だった。今日も完璧に整えられた制服と、栗色のリボン。無駄のない所作で自席につく。
そして──
「・・・?」
机の上に置かれていたノートに、目をとめた。
誰のものかも分からないまま、彼女は静かにそれを開いた。
──その瞬間だった。
ページを開いたノエルの瞳が、一瞬だけ虚ろに揺れた。
周囲の音は、彼女にはもう届いていない。
教室のざわめきも、朝の陽射しも、遠く霞んでいく。
彼女の意識は、静かに、だが確実に“記憶”の中へ引きずり込まれていった。
ざらついた木の机。蛍光灯の白い光。古びた黒板の前に立つ、冴えない教師の声。
見覚えのない景色のはずだった。
──けれど、ノエルの心臓は警告のように跳ねた。
(・・・ここ、知ってる)
そう思うより早く、体が勝手に動き、視線が教室の隅を捉えた。
窓際の一番後ろの席に、小さな影がある。
下を向いて、じっとノートに視線を落としている少女。髪が少し長くて、制服のリボンが少し崩れていて。
その姿を見た瞬間、なぜか胸が締めつけられるように苦しくなった。
(誰?・・・この子、どうして──)
周囲の空気が冷たくなる。
次の瞬間、ざらりと黒板にチョークが叩きつけられる音。
声が飛んだ。
「ねぇ、それ飲んだらどうなるかな?」
「うっそ、また? 見て見て、ほんとにバカみたい」
そして──机の下から溢れ出す、生ゴミのような匂い。
「くさっ・・・なにこれ」
「三春じゃないの? まじヤバ・・・」
目の前の少女が、何も言わずに立ち尽くしていた。いや、立つことすらできず、唇を震わせながらじっと下を向いていた。
周囲の笑い声。教師の無関心。
全てが、少女の心を無視していた。
──その中に、自分がいた。
輪の中に入りきらず、それでもニヤリと笑っていた自分。
直接手を出さず、だが確かに、仕掛けた側。
水筒の中身を入れ替えたのは、ほかならぬ伊原美紗──自分だった。
(・・・うそ)
視界が滲む。心の奥が軋む。
目の前の少女──三春の手が、机の下で震えていた。
それを、知っていたのに。
自分は、何も感じなかった。あの頃は。
誰にも見られてないからって、自分だけは罪を逃れられる。そう、どこかで思っていた。
──でも今、痛みがそのまま自分に返ってくる。
あの子が感じた、悔しさ、怖さ、恥ずかしさ、痛み。
全てが、ノエルの心と体に襲いかかってくる。
(やだ・・・やだ、やだ!やめて、やめて・・・!)
けれど、記憶は止まらなかった。
廊下で突き飛ばされた日。水をかけられた日。部活のロッカーに閉じ込められた日──。
どれも淡々と、ただ“再現”されていく。
そしてその傍には、常に誰かの笑いがあった。
──その中に、自分の声が混ざっていた。
「っ・・・!」
ノエルはびくんと身体を震わせ、はっと顔を上げた。
手元のノートは、ただの紙の束に戻っている。
教室の音が戻る。誰も彼女の異変に気づいていない。
でも彼女の顔には、冷や汗と、形容しがたい震えが浮かんでいた。
そして──視線を上げた先に、私は立っていた。
静かに、無表情で彼女を見る。
その瞳では、何も語らない。ただ、待つだけだ。
ノエルは額に手を当てて、心を落ち着けようとする。だが、それは無理だった。
そりゃそうだろう。今しがた、自分の中に入り込んできた記憶は、あまりにも生々しかったはず。
まして、それが他人のものではない──自分がかつて他人に与えた“地獄”だと、知ってしまったのだから。
ノエルの視線がぶれる。
彼女は、私から目をそらした。
「・・・逃げんなよ」
私は美紗の腕を掴み、顔を見る。
今度は、全ての感情を込めて。
「あ・・・アリア・・・」
「私の気持ち、少しはわかった?まあ、わかるわけないよね」
半ば諦めつつ、次の言葉を紡ぐ。
「思い出したか?あの日々を。・・・私はな、あんたたちに殺されたんだよ」
美紗を突き放し、運命の一言を述べる。
「今日の放課後、校舎の裏に来い。・・・逃げんなよ、美紗」
かつての名を呼ばれ、ノエルは震え上がった。