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90.追憶のページ

 夕暮れの校舎。窓の外が茜色に染まり、廊下には誰の気配もなかった。

私は中庭を見下ろせる場所に立ち、ひとり黙って彼女を見つめていた。


 ──ノエル・ルシリス。


 風に揺れる橙色の髪。整った制服の襟元。何もしていないはずなのに、その背中はどこか浮いて見えた。


まるで、この世界の地面にちゃんと足が着いていないみたいに。


 そのとき、不意に彼女が顔を上げた。

その目が、赤く焼けた空ではなく、見えないどこかを見つめているようだった。


(・・・思い出しかけてる)


その確信が、胸の奥に走った。


 彼女の中に眠る“前世”──それは、私が地獄と呼ぶしかなかった日々の一部。

伊原美紗みさ。高校時代、私・・・鈴木三春をいじめていたグループのひとり。


同じテニス部で、クラスメイトだった。

表面上は「誰とでもうまくやれる子」とされていたようだが、私への態度は違っていた。


 直接手を下すことはほとんどなかった。

でも美紗は、私のラケットに細工をし、水筒の中身をこっそりすり替え、ロッカーの上に生ゴミを仕込み・・・「道具」を使った、陰湿なやり方で私を痛めつけてきた。


笑いながら、周囲に「三春が鈍臭いからでしょ」って流すのがうまかった。

あの頃の私は、毎日が“仕掛けられた罠”だった。


 ──だから、私は覚えてる。

伊原美紗の視線。

笑っているくせに、どこか冷めた目で、私が苦しむのを遠巻きに見ていた、あの感覚。


(それが・・・ノエル)


あの時の罪を知らずに、この世界で平然と生きている。そう思うと、言葉にならない怒りがこみ上げる。


でも、夢が呼び起こす。

地が呻き、記憶が揺れる。そのたびに、少しずつあの女の“奥”が目覚め始めている。


 ──思い出せよ、美紗。

名前も、過去も、あの教室で私に向けたすべてのことを。

私は、あんたに“問う”ためにここにいる。


「どうして?」

「なぜ、あんなことをしたの?」

「私は、あんたに何をしたの?」


 言えなかった言葉が、もうすぐ私の口から出る。

そのときこそ、あんたの“言葉”を聞かせてもらう。


 ──でも。


(その前に・・・一度、落ちてもらう)


私が味わった“地獄”を、あんたにも味わわせてやる。

夢の中じゃなく、現実の“揺らぎ”として。


 報復はする。

でもそれは、ただの復讐じゃない。

私のためじゃなく、“かつての私”のために。


 柵に手をかけ、私はゆっくり背を向けた。

その背後で、ノエル──伊原美紗の姿が、夕焼けに沈みかけた風の中で、揺れていた。


許すかどうかは、全てが終わってから決める。




 翌朝、教室にはまだ朝の冷たい光が残っていた。

私は誰よりも早く登校し、静まり返った教室に一人入る。


(・・・今なら、誰にも見られずに済む)


 ノエルの机の上に、一冊のノートをそっと置いた。その中には、古びた羊皮紙のような質感の一枚が挟まれている。


表面には、なにも書かれていないように見えるが──それには、私の記憶の一部が魔法として封じられている。


「追憶の魔法」──対象がページを開いた瞬間、魔法をかけた者の記憶を“体験”する。夢のような形で、五感ごと。

その魔法はただ見せるだけではなく、“体験させる”のだ。


(目覚めてもらう。せめて、自分のしてきたことくらい──)


 私は席に戻り、誰にも気づかれぬよう、深く息を吐いた。





 しばらくして、生徒たちが次々に教室へ入ってくる。

ノエルもその一人だった。今日も完璧に整えられた制服と、栗色のリボン。無駄のない所作で自席につく。


 そして──


「・・・?」


机の上に置かれていたノートに、目をとめた。

誰のものかも分からないまま、彼女は静かにそれを開いた。



 ──その瞬間だった。

ページを開いたノエルの瞳が、一瞬だけ虚ろに揺れた。


周囲の音は、彼女にはもう届いていない。

教室のざわめきも、朝の陽射しも、遠く霞んでいく。

彼女の意識は、静かに、だが確実に“記憶”の中へ引きずり込まれていった。





 ざらついた木の机。蛍光灯の白い光。古びた黒板の前に立つ、冴えない教師の声。

見覚えのない景色のはずだった。


──けれど、ノエルの心臓は警告のように跳ねた。


(・・・ここ、知ってる)


そう思うより早く、体が勝手に動き、視線が教室の隅を捉えた。


窓際の一番後ろの席に、小さな影がある。

下を向いて、じっとノートに視線を落としている少女。髪が少し長くて、制服のリボンが少し崩れていて。


 その姿を見た瞬間、なぜか胸が締めつけられるように苦しくなった。


(誰?・・・この子、どうして──)



 周囲の空気が冷たくなる。


 次の瞬間、ざらりと黒板にチョークが叩きつけられる音。

声が飛んだ。


「ねぇ、それ飲んだらどうなるかな?」


「うっそ、また? 見て見て、ほんとにバカみたい」


 そして──机の下から溢れ出す、生ゴミのような匂い。


「くさっ・・・なにこれ」


「三春じゃないの? まじヤバ・・・」


 目の前の少女が、何も言わずに立ち尽くしていた。いや、立つことすらできず、唇を震わせながらじっと下を向いていた。


周囲の笑い声。教師の無関心。

全てが、少女の心を無視していた。




 ──その中に、自分がいた。

輪の中に入りきらず、それでもニヤリと笑っていた自分。


直接手を出さず、だが確かに、仕掛けた側。


 水筒の中身を入れ替えたのは、ほかならぬ伊原美紗──自分だった。



(・・・うそ)


 視界が滲む。心の奥が軋む。


目の前の少女──三春の手が、机の下で震えていた。


 それを、知っていたのに。

自分は、何も感じなかった。あの頃は。

誰にも見られてないからって、自分だけは罪を逃れられる。そう、どこかで思っていた。


──でも今、痛みがそのまま自分に返ってくる。

あの子が感じた、悔しさ、怖さ、恥ずかしさ、痛み。

全てが、ノエルの心と体に襲いかかってくる。


(やだ・・・やだ、やだ!やめて、やめて・・・!)


 けれど、記憶は止まらなかった。

廊下で突き飛ばされた日。水をかけられた日。部活のロッカーに閉じ込められた日──。


どれも淡々と、ただ“再現”されていく。

そしてその傍には、常に誰かの笑いがあった。


──その中に、自分の声が混ざっていた。






「っ・・・!」


 ノエルはびくんと身体を震わせ、はっと顔を上げた。

手元のノートは、ただの紙の束に戻っている。


教室の音が戻る。誰も彼女の異変に気づいていない。

でも彼女の顔には、冷や汗と、形容しがたい震えが浮かんでいた。



 そして──視線を上げた先に、私は立っていた。

静かに、無表情で彼女を見る。


その瞳では、何も語らない。ただ、待つだけだ。


 ノエルは額に手を当てて、心を落ち着けようとする。だが、それは無理だった。

そりゃそうだろう。今しがた、自分の中に入り込んできた記憶は、あまりにも生々しかったはず。


まして、それが他人のものではない──自分がかつて他人に与えた“地獄”だと、知ってしまったのだから。



 ノエルの視線がぶれる。

彼女は、私から目をそらした。


「・・・逃げんなよ」


私は美紗の腕を掴み、顔を見る。

今度は、全ての感情を込めて。


「あ・・・アリア・・・」


「私の気持ち、少しはわかった?まあ、わかるわけないよね」


 半ば諦めつつ、次の言葉を紡ぐ。


「思い出したか?あの日々を。・・・私はな、あんたたちに殺されたんだよ」


美紗を突き放し、運命の一言を述べる。


「今日の放課後、校舎の裏に来い。・・・逃げんなよ、美紗」


かつての名を呼ばれ、ノエルは震え上がった。


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