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89.記憶の地響き

 夜──。

ノエル・ルシリスは、暗い寝室の天井を見つめていた。


眠っているはずだった。けれど、何かが胸の奥に引っかかって、彼女の意識は深く沈んでいく。




 ──夢。


 どこかの教室。

窓から午後の日差しが射している。だが、それは見慣れたゼスメリアの教室ではない。

もっと古くて・・・殺風景。


机や椅子も無骨で、全体的に灰色がかった空気が流れていた。


(ここは・・・?)


 自分の手元を見ると、制服らしきものを着ている。色は暗く、スカートの裾がわずかに揺れている。


耳に届くのは、誰かの小さな笑い声。そして──鈍い音。


 視線を横に向けると、教室の隅に“彼女”がいた。

髪は長く、顔は伏せられている。何かを言おうとしているのに、声になっていない。


「・・・また泣いてる。ほんっとキモいわ」


「だからさ。・・・あんた、もう来なきゃいいのに」


 誰かの声が飛ぶ。

それは、自分の──すぐ隣から聞こえていた。いや、もっと近く・・・自分の口元から。


(え・・・?)


ノエルは、自分の唇が何かを罵っていた瞬間を確かに見た。

教室にいる全員が笑っている。その中心で、ひとり、彼女だけが俯いていた。


 その顔が、ゆっくりとこちらを向いた──赤い目。


(あ・・・)


 その目を見た瞬間、ノエルの胸がきゅっと締めつけられた。


知っている。どこかで、この目を──あの顔を、見たことがある。


だが、そこまでだった。

光が弾けるように視界が白くなり──






 ベッドの上で、ノエルは荒く息をついた。胸が痛い。指先が冷たくなっている。


(今のは・・・)


頭の中が混乱していた。夢に出てきた“教室”。あの灰色の空気。そして、あの目──。


赤い目をした、少女。


ノエルは頭を抱える。


(私、誰かを・・・傷つけてた?)


その記憶の意味は、まだつかめない。ただ、ひどく胸が痛んでいた。


 自分は、何か大切なことを思い出し始めている。

だけど、それをはっきりと認めるのが、なぜか怖かった。







 一方その頃、アリアは机の上の手帳を見つめていた。

夢のこと。ノエルのこと。

日に日に、得体の知れない気配が近づいてくる。


あの橙色の瞳に、ただの転入生のそれ以上の“何か”を感じた。


──そして、あの夢で見た教室。

崩れた大地の上に立つ、ノエルの姿。


(もしかして、記憶が戻り始めてる?)


 彼女が自分を思い出していないことは、今のところ救いだ。だが、それも時間の問題。

もし、彼女が思い出したとき──私は、どうする?


拳を強く握る。

胸の奥に、かつての痛みが、微かにうずいた。


(前のリーネの時みたいに、許す・・・?いいえ、そう簡単には)


 ただの赦しでは終われない。当たり前だ。

その先に、何かがある──その確信だけが、今のアリアを支えていた。





 教室の片隅──ノエル・ルシリスは、手にした本の文字をまったく追えていなかった。

胸が重い。喉の奥がずっとざらついている。


眠ったはずの昨夜。目を覚ました瞬間、彼女は理由もなく「泣きそう」だった。

夢を見たことは覚えている。けれど、その内容はぼやけている。


 ただ──


(私は・・・誰かに、何かを・・・)


 ノエルは胸元をぎゅっと握った。

痛み。それも、物理的なものではない。もっと、深く、記憶の底から響いてくるような・・・後悔に似た苦しさ。


ページの上を指がすべる。そこに書かれていた文章が、ひどく冷たく感じた。


「ノエルさん」


声に、びくりと肩が跳ねた。


顔を上げると、そこにいたのはアリアだった。

赤い瞳が、じっと彼女を見ている。


けれど、その視線には怒りも憐れみもなかった。ただ、測るような、底知れない沈黙。


「・・・調子、悪そうね」


 静かな声だった。

ノエルは少しだけ戸惑った表情を浮かべながらも、微笑んでうなずく。


「いえ、大丈夫。ちょっと、眠りが浅かっただけで・・・」


「そう・・・」


アリアはそれ以上は何も言わず、ただ彼女の隣の席に腰を下ろした。

そして声を出さずに息を吸い、心の中で呟いた。


(思い出し始めてる・・・でも、まだ完全じゃない)


 今ならまだ届く。今なら、私の言葉で──あるいは、私の“感情”で揺さぶれる。

赦す気はない。けれど、ただ罰するだけでもない。


(わたしは、あんたにわたしの痛みを“返す”。)


何を奪われたのか、どう壊れたのか。

それを、ノエル自身の記憶の中に、正しく“戻す”必要がある。


その上で赦すかどうかを、ようやく決められるのだ。


 アリアは机の下で、静かに拳を握る。

もうすぐ──始まる。因果の逆流が。





 同じ日の放課後。

ノエルは人気のない中庭で、ひとり佇んでいた。


胸のざわめきは、授業中もずっと消えなかった。


(あの夢・・・あの、赤い目の子・・・)


 脳裏に、再び断片が浮かびかける。

割れたガラス。黒板の音。湿った匂いのする教室。笑い声。


そして──“自分の声”。


『マジでさ、あいつ泣いてばっかじゃん』


『無視してればそのうち来なくなるでしょ』


(わたし・・・これ・・・)


 突然膝が崩れるように力が抜け、ノエルは木の根元に座り込んだ。


頭の奥で、何かが崩れ始めている。

けれど、それを止めようとする力もまた、自分の中にある。


思い出してはいけない。戻ってはいけない。

そんな声が、心のどこかで響いていた。




 その姿を、影から見つめている者がいた。

アリアだった。


遠くから見えるその背は、小さく揺れていた。


「・・・まだ、全部じゃない。でも・・・」


アリアは赤い瞳を細め、風に髪を揺らしながら呟いた。


「もう、止まらないよ。ノエル。あんたの“罪”は・・・この世界でも、ちゃんと生きてるから」




 そして彼女は背を向けた。

復讐という言葉の形を借りて、自分自身の過去を、もう一度向き合うために。


それは断罪ではない。けれど、赦しでもない。

“対話”と“代償”。


 アリアはその場を離れながら、胸の奥に確かな火を宿した。




──その火は、かつて踏みにじられた少女の「魂」が、ようやく自分自身を取り戻すために燃やすものだった。



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