夜──。
ノエル・ルシリスは、暗い寝室の天井を見つめていた。
眠っているはずだった。けれど、何かが胸の奥に引っかかって、彼女の意識は深く沈んでいく。
──夢。
どこかの教室。
窓から午後の日差しが射している。だが、それは見慣れたゼスメリアの教室ではない。
もっと古くて・・・殺風景。
机や椅子も無骨で、全体的に灰色がかった空気が流れていた。
(ここは・・・?)
自分の手元を見ると、制服らしきものを着ている。色は暗く、スカートの裾がわずかに揺れている。
耳に届くのは、誰かの小さな笑い声。そして──鈍い音。
視線を横に向けると、教室の隅に“彼女”がいた。
髪は長く、顔は伏せられている。何かを言おうとしているのに、声になっていない。
「・・・また泣いてる。ほんっとキモいわ」
「だからさ。・・・あんた、もう来なきゃいいのに」
誰かの声が飛ぶ。
それは、自分の──すぐ隣から聞こえていた。いや、もっと近く・・・自分の口元から。
(え・・・?)
ノエルは、自分の唇が何かを罵っていた瞬間を確かに見た。
教室にいる全員が笑っている。その中心で、ひとり、彼女だけが俯いていた。
その顔が、ゆっくりとこちらを向いた──赤い目。
(あ・・・)
その目を見た瞬間、ノエルの胸がきゅっと締めつけられた。
知っている。どこかで、この目を──あの顔を、見たことがある。
だが、そこまでだった。
光が弾けるように視界が白くなり──
ベッドの上で、ノエルは荒く息をついた。胸が痛い。指先が冷たくなっている。
(今のは・・・)
頭の中が混乱していた。夢に出てきた“教室”。あの灰色の空気。そして、あの目──。
赤い目をした、少女。
ノエルは頭を抱える。
(私、誰かを・・・傷つけてた?)
その記憶の意味は、まだつかめない。ただ、ひどく胸が痛んでいた。
自分は、何か大切なことを思い出し始めている。
だけど、それをはっきりと認めるのが、なぜか怖かった。
一方その頃、アリアは机の上の手帳を見つめていた。
夢のこと。ノエルのこと。
日に日に、得体の知れない気配が近づいてくる。
あの橙色の瞳に、ただの転入生のそれ以上の“何か”を感じた。
──そして、あの夢で見た教室。
崩れた大地の上に立つ、ノエルの姿。
(もしかして、記憶が戻り始めてる?)
彼女が自分を思い出していないことは、今のところ救いだ。だが、それも時間の問題。
もし、彼女が思い出したとき──私は、どうする?
拳を強く握る。
胸の奥に、かつての痛みが、微かにうずいた。
(前のリーネの時みたいに、許す・・・?いいえ、そう簡単には)
ただの赦しでは終われない。当たり前だ。
その先に、何かがある──その確信だけが、今のアリアを支えていた。
教室の片隅──ノエル・ルシリスは、手にした本の文字をまったく追えていなかった。
胸が重い。喉の奥がずっとざらついている。
眠ったはずの昨夜。目を覚ました瞬間、彼女は理由もなく「泣きそう」だった。
夢を見たことは覚えている。けれど、その内容はぼやけている。
ただ──
(私は・・・誰かに、何かを・・・)
ノエルは胸元をぎゅっと握った。
痛み。それも、物理的なものではない。もっと、深く、記憶の底から響いてくるような・・・後悔に似た苦しさ。
ページの上を指がすべる。そこに書かれていた文章が、ひどく冷たく感じた。
「ノエルさん」
声に、びくりと肩が跳ねた。
顔を上げると、そこにいたのはアリアだった。
赤い瞳が、じっと彼女を見ている。
けれど、その視線には怒りも憐れみもなかった。ただ、測るような、底知れない沈黙。
「・・・調子、悪そうね」
静かな声だった。
ノエルは少しだけ戸惑った表情を浮かべながらも、微笑んでうなずく。
「いえ、大丈夫。ちょっと、眠りが浅かっただけで・・・」
「そう・・・」
アリアはそれ以上は何も言わず、ただ彼女の隣の席に腰を下ろした。
そして声を出さずに息を吸い、心の中で呟いた。
(思い出し始めてる・・・でも、まだ完全じゃない)
今ならまだ届く。今なら、私の言葉で──あるいは、私の“感情”で揺さぶれる。
赦す気はない。けれど、ただ罰するだけでもない。
(わたしは、あんたにわたしの痛みを“返す”。)
何を奪われたのか、どう壊れたのか。
それを、ノエル自身の記憶の中に、正しく“戻す”必要がある。
その上で赦すかどうかを、ようやく決められるのだ。
アリアは机の下で、静かに拳を握る。
もうすぐ──始まる。因果の逆流が。
同じ日の放課後。
ノエルは人気のない中庭で、ひとり佇んでいた。
胸のざわめきは、授業中もずっと消えなかった。
(あの夢・・・あの、赤い目の子・・・)
脳裏に、再び断片が浮かびかける。
割れたガラス。黒板の音。湿った匂いのする教室。笑い声。
そして──“自分の声”。
『マジでさ、あいつ泣いてばっかじゃん』
『無視してればそのうち来なくなるでしょ』
(わたし・・・これ・・・)
突然膝が崩れるように力が抜け、ノエルは木の根元に座り込んだ。
頭の奥で、何かが崩れ始めている。
けれど、それを止めようとする力もまた、自分の中にある。
思い出してはいけない。戻ってはいけない。
そんな声が、心のどこかで響いていた。
その姿を、影から見つめている者がいた。
アリアだった。
遠くから見えるその背は、小さく揺れていた。
「・・・まだ、全部じゃない。でも・・・」
アリアは赤い瞳を細め、風に髪を揺らしながら呟いた。
「もう、止まらないよ。ノエル。あんたの“罪”は・・・この世界でも、ちゃんと生きてるから」
そして彼女は背を向けた。
復讐という言葉の形を借りて、自分自身の過去を、もう一度向き合うために。
それは断罪ではない。けれど、赦しでもない。
“対話”と“代償”。
アリアはその場を離れながら、胸の奥に確かな火を宿した。
──その火は、かつて踏みにじられた少女の「魂」が、ようやく自分自身を取り戻すために燃やすものだった。