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91.生き地獄の始まり

 放課後──。

陽が傾き、校舎の裏は長く伸びた影と静寂に包まれていた。

風が吹き抜け、誰もいない空間が、ただ時間の経過を告げている。


 私は、そこに立っていた。

待っていた。ずっと──。


陽は赤く、空を染めていく。あの頃、何度も見上げたはずの空。

けれど、当時の私はそれを綺麗だと思ったことは、一度もなかった。


学校にいる時間のすべてが、地獄だったからだ。


(美紗──)


 私は心の中で、そう呼びかける。

ノエルじゃない。伊原美紗。かつての名前で。


 覚えてる?靴がなくなった日のこと。机の中がゴミで埋まっていた朝のこと。


水筒の味が変だった昼休み。ロッカーに入った瞬間に漂ってきた腐臭。

放課後の部室で、誰にも気づかれないように押し込められたあの時間。


 私がどんな顔をして、黙って涙を飲み込んだか──覚えてないよね。

というか、知る由もないよね。あんたたちにとっては、ただの“遊び”だったんだもの。


誰かを傷つけることに、意味なんてなかった。ただ、「そうすればウケる」から、「そうしたほうが面白い」から。

それだけで、私を壊した。


 地獄だった。

心が、毎日どこかで死んでいた。

だけど、それでも私は“生きていた”。

あんたたちが笑い、楽しんで、何の罰も受けずに過ごしていたその日々に、私は毎秒、歯を食いしばって耐えてた。


 ──それを、たった一言の謝罪で終わらせるつもりなら、私は絶対に許さない。


あの頃の私の悲鳴を、涙を、息が詰まりそうだった夜を、全て“無かったこと”にしようとするなら──私は、お前を地獄に引きずり込む。




 ゆっくりと日が沈み、空が紫がかる。それでも、誰も来ない。


(・・・逃げたか)


当然と言えば当然だ。この期に及んで、逃げるような女だったのだ。あの頃から、ずっと。


 だが──その時だった。


「・・・アリア」


かすれた声。私は、顔を上げた。


 校舎の影から、ゆっくりと現れたその姿。

制服のリボンは少し乱れ、肩はかすかに震えていた。目の下には赤みが残り、瞳は酷く曇っていた。


「・・・ごめん、遅くなって」


私は何も言わない。ただ、じっと見つめた。


「・・・全部じゃないけど、少しずつ、思い出してる。まだ夢みたいで・・・でも、あれは私の記憶。私がやったこと」


 美紗──いや、今はノエルと呼ばれている彼女は、震える声でそう言った。

だが、その次に口にした言葉が、私の胸に釘を打ち込んだ。


「でも・・・あの時はね、私も怖かったの。仕方なかったの。状況が状況だったから。逆らったら、自分がやられるかもしれなくて。みんなに合わせるしかなかった。誰かを守る余裕なんてなかったの。・・・ごめんね。悪気があったわけじゃないの ・・・」


 その瞬間、私の中の何かが切れた。


ゴオッ──という音が響いたのは、風のせいじゃない。

私の背後で、赤い炎が燃え上がった。空気が震え、地面が揺れる。


夕焼けの赤よりも、遥かに深く、熱く、鋭い色が私の身体から噴き出していた。


 美紗の顔が青ざめ、引きつる。

それでも、私は止まらなかった。


「・・・言い訳?」


 低く、怒気を噛み殺した声。


「“悪気はなかった”? “仕方なかった”? “合わせるしかなかった”?・・・ ふざけんなよ!」


言葉と同時に、炎が炸裂するように広がる。草が焦げ、空気がひび割れる。


「お前が“周りに合わせただけ”で、私は死ぬ羽目になったんだよ!!」


 叫んだ声に、自分でも驚くほどの怒りが混じっていた。

全身が震えていた。怒りで、苦しみで、ようやく言葉にできた絶望で。


「誰かを泣かせて、笑っておいて・・・ 自分も被害者だみたいな顔するな!私はな、毎日毎日お前たちが怖くて泣いてたんだよ!誰にも助けてもらえず、ただただ苦しかった!だから・・・結局、死ぬしかなかったんだよ!!」


魔力が爆ぜる。

背後に燃え上がる炎は、赤ではなく、もはや深紅だった。


「・・・そうだ。だったらさ、私も“悪気なんてない”って言ってやるよ。これから、お前を焼き尽くすこの炎も──ただの、気持ちのままなんだ。私は私の正しさを信じて、お前に同じ痛みを味わわせるだけ。生きたまま焼かれて、後悔して、絶望して──ようやく、お前も理解できるんじゃない?」


 その瞬間、美紗の足がすくんだように、がくりと膝をつく。


私は一歩、前に出た。


「“ごめん”って言うだけで、何もかもがチャラになるとでも思ってた?“私は悪くなかったんです。仕方なかったんです”って言って、許してもらおうとしてた?・・・ふざけんなよ。お前たちは、私をバカにしすぎだ!」


 もはや、自分でも止められない。長らく眠っていた私の中の炎は、激しく燃え上がる。


「しかも・・・お前は今も、自分の罪を認めきれないでいる。その姿こそが、私の怒りを燃やすんだよ・・・!」


さらに一歩、また一歩と近づく。

美紗は何も言えず、ただ震えていた。顔は蒼白で、手が地面を掴んでいた。


「許さない・・・絶対に、絶対に許さない。お前がそういう姿勢を取るってなら、私は容赦しない。かつての私と同じ・・・“惨めな最期”を、お前に与えてやる」


 地面が割れ、私の魔力は大地の奥から炎を引き出す。

それはまるで地獄の火口のようで、赤く脈打ち、唸り声を上げていた。


「今度は、“お前の番”だよ──伊原美紗」


その名を、冷たく告げる。



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