私は腕を振り上げる。それだけで空間が熱を帯び、周囲が震える。空気が軋み、視界の端が歪んでいく。
「泣けよ、美紗。痛い、辛いって喚けよ。・・・まあ、何したって許さないけどね」
私は、口元を歪めて笑った。
「今さら“怖い”とか“仕方なかった”とか、そんな台詞じゃ誤魔化せないくらい──私はお前に壊されたんだよ。せめて、泣け。喚け。命乞いしろ」
ノエルは震え、声を出そうとしたが、言葉にならなかった。
怯えている。怯えて、震えて、それでも、かつての自分を“守ろうとしている”。
それが、許せなかった。
「私はさ、あんたに“命乞い”すらさせてもらえなかったんだよ」
言いながら、手のひらに火球を作り出す。
それは次第に膨れ、灼熱を含んだ魔力となって唸り始める。
「私が泣いてたとき、あんたは見て見ぬふりをしてた。机の中のゴミに顔を近づけて吐いたとき、笑ってたよね?“気持ち悪~”って、周りと一緒に──笑ってたよね?」
魔力が燃え上がる。火球が形を変え、蛇のように渦を巻く。
「・・・自分の行いってのは、いずれ自分に返ってくるもんだ。だから・・・今度は、お前が吐く番だよ。涙も、恐怖も、全部呑み込め」
ただひたすら、怒りに身を任せた。
私は、“優しい子”じゃない。二度とそんなフリはしない。今の私は──私自身のために、怒ってるんだ。
火蛇が地を這い、美紗のすぐそばの地面を焼いた。土が裂け、炎が地中を這い回る。ノエルのスカートの端が焦げ、肌を燃やし、ようやく声をあげた。
「や・・・やめてっ!」
その叫びに、私は鼻で笑う。
「やめて?・・・今さら?」
近づく。一歩ずつ、ノエルとの距離が詰まっていく。
「ごめんね・・・?私は、もう止まらない。誰にも、止められない。だってこれは──私が“生きるため”の怒りだもん」
顔を近づけ、呟いた。
「ようやく取り戻せたんだよ、怒りを。私の声を。・・・今度は、お前が壊れる番だ。私と同じ地獄の底まで、沈めてあげる」
──その時、背後から一陣の風が吹き抜けた。
(・・・誰か来る?)
微かな気配が、怒りに濁った私の集中をわずかに逸らした。
けれど、まだだ。私はまだ終わっていない。
私は叫び、怒鳴る。
心の底から、全てを吐き出す。
「私はな・・・ずっと泣いてたし、痛かったんだよ!辛かったんだよ!泣いてるのを見たなら、助けてほしかった!“やめろ”の一言でよかったのに、それを誰も言わなかった!だからもう・・・私自身が裁くしかないんだよ!!」
炎が爆ぜる。世界が赤く染まり、ノエルは両腕で頭を抱えるようにして、蹲った。
私は炎を構えた手を振り上げた。
その先に──地獄が待っている。
ノエルは、ぼろぼろの制服の袖を震わせながら、必死に手を組んだ。
震える指先が描いたのは、魔力による防御障壁──簡易結界。
けれど、それはあまりに脆く、頼りない。
“あの頃”のように、自分を守る言い訳だけでできているような、そんな中身のない結界だった。
「──無駄だよ」
私は低く呟き、指を鳴らす。
次の瞬間、炸裂した。
炎が咆哮を上げ、ノエルの結界を真っ向から貫いた。防壁は、まるで紙細工のようにあっけなく崩れ落ちる。
その背後にいたノエルは、咄嗟に腕で顔を庇った。だが──意味はなかった。
焼け爛れる肉。弾ける悲鳴。
地面に崩れ落ちた彼女の身体が、なおも炎に包まれてのたうつ。
「熱い・・・!し、死ぬうっ!た・・・助け・・・助けてぇっ・・・!!」
無様だった。身をよじり、髪を焼かれ、涙を垂れ流し、声を潰して喚いている。
あの頃、私がどんなに泣いても誰も見てくれなかったのに。
今は、ようやく。やっと──。
「──私を、見てくれてるじゃん?」
私は笑った。歪んだ、ひどく歪んだ笑みだった。
でも、それは間違いなく私の“本音”だった。
「いいよ、その顔。やっと似合うようになったじゃん、地獄の景色にさ」
やがて、炎がゆっくりと弱まる。
空気が冷え、焦げた土の匂いが、校舎裏の夕闇に染み込むように漂う。
そこにいたのは──もはや“ノエル”でも“伊原美紗”でもない。焼け焦げ、皮膚の半分がただれ、視線も定まらぬ“ただの生き残り”だった。
それでも、彼女はまだ息をしていた。
小さく、小さく。喉の奥で引きつった音を立てながら。
私はその傍にしゃがみ、そっと顔を覗き込む。
「・・・ごめんね、ちょっとやりすぎちゃった」
囁くように言った。
その言葉に、ノエルがわずかに動いた。顔を、私の方に向けようとした。
だが、瞳はもう焦点を結んでいない。彼女は、すでに“壊れて”いた。
「お願い、許して。・・・最後に、一つだけあげるからさ」
私は指を一本立て、ふっと息を吹きかける。
──そして、告げた。
「美紗・・・死ね」
最後の言葉と同時に、私の指先から小さな炎が生まれ、彼女の胸元にすっと落ちた。
その瞬間、炎が“花のように”咲いた。
赤い光が舞い、世界が沈黙した。
この瞬間、私の中でひとつの過去が焼き尽くされた。
前世から続く因縁は、確かに──この手で、断ち切った。
それはただの怒りでも、恨みでもない。
私が、“生きてきた”という証。
泣きながら、それでも歩き続けた人生の、血と涙で刻んだ──通過点。
血のように赤い光の中で、ノエルの喉がごくりと動いた。
その唇が、かすかに動く。
「・・・あのとき・・・ほんとは・・・止めたかった、んだよ・・・」
しわがれた、ひび割れた声。
それでも、確かに言葉だった。
「私は・・・こわくて、逃げただけ・・・ごめん・・・」
その目には、焦点はなかった。
でもその声だけが、やけに“生”を帯びていた。
私は──動けなかった。
胸の奥に、何かが突き刺さった。
それは炎じゃない。怒りでも、憎しみでもない。
ただ、ただ・・・“痛み”だった。
「・・・逃げただけ、ね」
呟きながら、私は目を伏せる。
ノエルは謝った。自分が“見殺しにした”と認めた。
今さら、そんな言葉を聞いたところで。
許す気なんて──あるはずがないのに。
(・・・なのに、なんで。こんなに、苦しいの?)
私は、膝をついた。
指先はまだ熱を帯びているのに、心だけが急激に冷えていく。
「・・・言い訳、しないでよ。今さら・・・ずるいよ」
そう口にして、私は自分の声に、わずかな震えがあることに気づいた。
ノエルの唇は、かすかに震えている。
焦点の定まらないその瞳が、空を見つめる。
「ごめん・・・ 三春・・・」
その声がかすれ、肺から最後の空気が抜けるように、途切れた。
そして──一滴。
焼け爛れた頬を伝い、涙がこぼれた。
まるで、罪の証のように。
ノエルは、それきり動かなくなった。
私は、ただ見下ろしていた。
赦さない。赦されない。
それでも、確かに聞いた。
彼女の声を。言い訳を。後悔を。命の最後の揺らぎを。
そして、私は──呟いた。
「・・・遅いよ」
それは、怒りでも、哀れみでもなかった。
ただ、“事実”だった。
遅かった。
あまりにも、すべてが。
「・・・遅いよ。この、バカ女」
最期に、そう伝えた。