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93.怒りの余燼

 あの日、私は学院に忘れ物を取りに戻っていた。

夕方の校舎は静かで、まるで誰もいない神殿みたいに感じた。


 けれど、裏庭の方に足を踏み入れた瞬間、焦げた匂いが鼻を突いた。


そこに、彼女はいた。

黒く焼け焦げた制服。すすけた髪。血と煤にまみれ、呻き声すら出せない少女。


その姿を見た瞬間、私は言葉を失った。

誰が、何を、ここで。どうして──?


 私はとにかく、彼女を抱き上げた。

熱がまだ身体に残っていて、まるで溶ける寸前の蝋のように柔らかく、痛々しかった。


 迷ってる暇はなかった。学院の医療室には連れて行けない。だから、私は──家へ運んだ。




「・・・ありがとう。あなた、私を・・・助けてくれたんだね」


 数日後、ようやく目を覚ました彼女は、かすれた声でそう言った。

名前を訊くと、「ノエル」と名乗った。でも、その目は、別の名前を思っていた。


話を聞いた。少しずつ、ぽつりぽつりと。


──彼女は、転生者だった。

──この世界に来る前、日本という国にいた。

──そして、「三春」という少女をいじめ、壊したと。


 私は、ただ聞くしかなかった。

信じがたい内容だったけど、目の前のノエルは、虚勢も強がりもなく、ただ静かに、確かに、悔いていた。


「あの日、彼女は死んだ。でも、本当は

・・・わかってる・・・私が、彼女を殺したんだ。その報いが、今こうして返ってきただけ・・・」


涙を流すノエルの横顔を、私はまっすぐ見つめた。


「でも・・・殺そうとする必要なんて、なかった。いくらなんでも、あれは──」


 私の口から出たその言葉に、ノエルは首を横に振った。


「違う。私には、そんな資格はない。私がやったのは、命を踏みにじることだった。“いじめ”なんて言葉じゃ足りない。私、三春の人生を壊したんだよ・・・」


その声は震えていた。けれど、弱さではなかった。

自分の罪を、自分で認めた者の声だった。


 ・・・私は、そのとき、ある決意をした。


アリアには、伝えなきゃいけない。

ノエルがまだ生きてることも。

あの日の“復讐”が、まだ終わっていないことも。

なにより──


 彼女の心が、壊れていないことを。







 あれから、二週間が経った。

あの日私の中に燃えていた炎は、まだ燻っている。


けれどそれは、燃え盛る憎しみではない。

ただ、静かに胸の奥で燻ぶる、灰色の余熱のようだった。


 夏が来ていた。陽射しはやけに眩しく、空はやたらと青かった。

こんなにも世界が明るいのに、私は少しもそれを美しいと感じなかった。


──ノエルは、死んだ。

あの火の中で、確かに焼けて、泣いて、壊れた。


私は彼女に言った。「死ね」って。

そして彼女は、私の炎の中で、涙を一滴だけ流して果てた。


 それが、私の見た“最後”だった。


私は、それで終わったと思っていた。

前世の呪いは果たされた。

過去は焼き尽くされた。

だからこそ、今さら私は“普通の生活”に戻るべきなのだと思っていた。


 ──でも、戻れなかった。


 朝、目が覚めるたびに思う。「まだ、あのときの匂いがする」。

服に染みついた煙の臭いじゃない。私の心に焼きついた、焼け焦げた悲鳴と涙の匂い。

それが、離れなかった。


“これでよかったんだ”。そう思い込もうとするたびに、胸の奥で鈍い痛みが走る。

私は、“生きるため”に怒ったはずだった。

なのに今は──なぜか、心のどこかが、虚ろだった。


 校舎裏の焼け跡は、まだ残っている。

誰も、そこには近づかない。まるで「死者の痕跡」に触れることを、みんなが避けているかのように。


 私は、そこに立った。

今日も、また。


──誰かが私を見ている気がした。

けれど、振り返ってもそこには誰もいない。

風だけが、頬を撫でて通り過ぎていった。


静かだった。あまりにも、静かすぎた。


 ・・・そんな日々の中、私は知らなかった。

ノエル──伊原美紗が、生きていたなんて。

あの日、私が“地獄に突き落とした”はずの彼女が、まだこの世界に存在していたなんて。


──そして、それを知っている誰かが、すでに私の傍にいたことも。


無邪気な笑顔で、私の隣を歩いていた、炎の魔女・シルフィンが、すべてを知っていたなんて──。




 あれから二週間という時間が経っても、心の中は焼けたままだった。

燃え尽きるはずだったのに。まだ燻ってる。


私は、中庭の片隅にあるベンチで、沈む夕陽を眺めていた。

誰にも話しかけられたくなくて、でも、一人でいたくない気分だった。


 そんな私の前に、足音が止まる。


「・・・アリア」


 振り向くと、そこにはシルフィンがいた。

いつもの無表情が、今日は少しだけ揺れている。


「なに、用?」


苛立ち交じりの声が出た。私自身にも、少し驚く。


でも彼女は怯まず、まっすぐに言った。


「ノエルは・・・伊原美紗は、生きてるよ」


・・・何の冗談?

言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。


「・・・は?」


「私が見つけて、助けた。偶然だけど、あの時、学院に戻って──」


「嘘」


 私は立ち上がる。心臓が、怒りとも混乱ともつかない衝動で跳ねた。


「そんなわけない。・・・だって、私はあの時、確かに──」


殺した。そう思ってた。そう信じて、やっと、終わらせたはずだったのに。


 シルフィンはゆっくり首を振った。


「生きてた。でも・・・あの子は、壊れてた。肉体も、心も」


「・・・ふざけないで」


 どうして。どうして生きてるの。あんなに私を壊して、何もかも奪っておいて──。


「アリア、落ち着いて」


「落ち着けるわけないでしょ!」


怒鳴り声が、空に響く。

魔力がざわめき、指先に火が宿りかける。


「あなた、あの時の私の気持ち、何も知らないくせに・・・!“やりすぎ”って思ってるんでしょ?“いじめられてたからって、殺すことない”って、そう思ってるんでしょ!?」


 シルフィンは黙ったまま、私を見ていた。

でも、否定はしなかった。それが余計に、腹立たしかった。


「言えばよかった?“やめて”って?助けを求めればよかった?・・・でも、誰も聞いてくれなかった。誰も!」


私の声が震える。喉が焼けるほど熱いのに、胸は寒くて仕方なかった。


「私はただ、叫びたかったの。怒りたかったの。・・・それだけなのに」


 沈黙が落ちる。


そして──静かに、シルフィンは口を開いた。


「・・・私は、あなたの全部を理解できない。だって、私は、いじめられたことがないから」


 その言葉に、胸がひどく痛んだ。

でも次に続いた言葉が、それ以上に深く、染み込んできた。


「でも、それでも。あなたのこと、分かろうとしたいって思ってる。それでも、友達でいたいって思ってるから」


私は、黙って彼女を見つめた。


「だから、聞かせて。あなたは──ノエルを、どうしたいの?」


 胸の奥が、ずっと冷たかった。

だけど今、その問いかけに触れて、少しだけ熱が戻ってきた気がした。


「・・・“ノエル”は、死んだ。あの日、私が焼いたのは、過去の亡霊だよ」


私はそう言った。けれど──心のどこかが、まだ揺れていた。


「でも、もし・・・“美紗”が生きてるのなら。・・・あの日、私が殺しきれていなかったのなら」


 私は、再び炎を灯すかもしれない。

でも、ほんの少し。ほんの、ほんの少しだけ──


それでも、もう一度だけ会ってもいいと思ってしまった。


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