あの日、私は学院に忘れ物を取りに戻っていた。
夕方の校舎は静かで、まるで誰もいない神殿みたいに感じた。
けれど、裏庭の方に足を踏み入れた瞬間、焦げた匂いが鼻を突いた。
そこに、彼女はいた。
黒く焼け焦げた制服。すすけた髪。血と煤にまみれ、呻き声すら出せない少女。
その姿を見た瞬間、私は言葉を失った。
誰が、何を、ここで。どうして──?
私はとにかく、彼女を抱き上げた。
熱がまだ身体に残っていて、まるで溶ける寸前の蝋のように柔らかく、痛々しかった。
迷ってる暇はなかった。学院の医療室には連れて行けない。だから、私は──家へ運んだ。
「・・・ありがとう。あなた、私を・・・助けてくれたんだね」
数日後、ようやく目を覚ました彼女は、かすれた声でそう言った。
名前を訊くと、「ノエル」と名乗った。でも、その目は、別の名前を思っていた。
話を聞いた。少しずつ、ぽつりぽつりと。
──彼女は、転生者だった。
──この世界に来る前、日本という国にいた。
──そして、「三春」という少女をいじめ、壊したと。
私は、ただ聞くしかなかった。
信じがたい内容だったけど、目の前のノエルは、虚勢も強がりもなく、ただ静かに、確かに、悔いていた。
「あの日、彼女は死んだ。でも、本当は
・・・わかってる・・・私が、彼女を殺したんだ。その報いが、今こうして返ってきただけ・・・」
涙を流すノエルの横顔を、私はまっすぐ見つめた。
「でも・・・殺そうとする必要なんて、なかった。いくらなんでも、あれは──」
私の口から出たその言葉に、ノエルは首を横に振った。
「違う。私には、そんな資格はない。私がやったのは、命を踏みにじることだった。“いじめ”なんて言葉じゃ足りない。私、三春の人生を壊したんだよ・・・」
その声は震えていた。けれど、弱さではなかった。
自分の罪を、自分で認めた者の声だった。
・・・私は、そのとき、ある決意をした。
アリアには、伝えなきゃいけない。
ノエルがまだ生きてることも。
あの日の“復讐”が、まだ終わっていないことも。
なにより──
彼女の心が、壊れていないことを。
あれから、二週間が経った。
あの日私の中に燃えていた炎は、まだ燻っている。
けれどそれは、燃え盛る憎しみではない。
ただ、静かに胸の奥で燻ぶる、灰色の余熱のようだった。
夏が来ていた。陽射しはやけに眩しく、空はやたらと青かった。
こんなにも世界が明るいのに、私は少しもそれを美しいと感じなかった。
──ノエルは、死んだ。
あの火の中で、確かに焼けて、泣いて、壊れた。
私は彼女に言った。「死ね」って。
そして彼女は、私の炎の中で、涙を一滴だけ流して果てた。
それが、私の見た“最後”だった。
私は、それで終わったと思っていた。
前世の呪いは果たされた。
過去は焼き尽くされた。
だからこそ、今さら私は“普通の生活”に戻るべきなのだと思っていた。
──でも、戻れなかった。
朝、目が覚めるたびに思う。「まだ、あのときの匂いがする」。
服に染みついた煙の臭いじゃない。私の心に焼きついた、焼け焦げた悲鳴と涙の匂い。
それが、離れなかった。
“これでよかったんだ”。そう思い込もうとするたびに、胸の奥で鈍い痛みが走る。
私は、“生きるため”に怒ったはずだった。
なのに今は──なぜか、心のどこかが、虚ろだった。
校舎裏の焼け跡は、まだ残っている。
誰も、そこには近づかない。まるで「死者の痕跡」に触れることを、みんなが避けているかのように。
私は、そこに立った。
今日も、また。
──誰かが私を見ている気がした。
けれど、振り返ってもそこには誰もいない。
風だけが、頬を撫でて通り過ぎていった。
静かだった。あまりにも、静かすぎた。
・・・そんな日々の中、私は知らなかった。
ノエル──伊原美紗が、生きていたなんて。
あの日、私が“地獄に突き落とした”はずの彼女が、まだこの世界に存在していたなんて。
──そして、それを知っている誰かが、すでに私の傍にいたことも。
無邪気な笑顔で、私の隣を歩いていた、炎の魔女・シルフィンが、すべてを知っていたなんて──。
あれから二週間という時間が経っても、心の中は焼けたままだった。
燃え尽きるはずだったのに。まだ燻ってる。
私は、中庭の片隅にあるベンチで、沈む夕陽を眺めていた。
誰にも話しかけられたくなくて、でも、一人でいたくない気分だった。
そんな私の前に、足音が止まる。
「・・・アリア」
振り向くと、そこにはシルフィンがいた。
いつもの無表情が、今日は少しだけ揺れている。
「なに、用?」
苛立ち交じりの声が出た。私自身にも、少し驚く。
でも彼女は怯まず、まっすぐに言った。
「ノエルは・・・伊原美紗は、生きてるよ」
・・・何の冗談?
言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「・・・は?」
「私が見つけて、助けた。偶然だけど、あの時、学院に戻って──」
「嘘」
私は立ち上がる。心臓が、怒りとも混乱ともつかない衝動で跳ねた。
「そんなわけない。・・・だって、私はあの時、確かに──」
殺した。そう思ってた。そう信じて、やっと、終わらせたはずだったのに。
シルフィンはゆっくり首を振った。
「生きてた。でも・・・あの子は、壊れてた。肉体も、心も」
「・・・ふざけないで」
どうして。どうして生きてるの。あんなに私を壊して、何もかも奪っておいて──。
「アリア、落ち着いて」
「落ち着けるわけないでしょ!」
怒鳴り声が、空に響く。
魔力がざわめき、指先に火が宿りかける。
「あなた、あの時の私の気持ち、何も知らないくせに・・・!“やりすぎ”って思ってるんでしょ?“いじめられてたからって、殺すことない”って、そう思ってるんでしょ!?」
シルフィンは黙ったまま、私を見ていた。
でも、否定はしなかった。それが余計に、腹立たしかった。
「言えばよかった?“やめて”って?助けを求めればよかった?・・・でも、誰も聞いてくれなかった。誰も!」
私の声が震える。喉が焼けるほど熱いのに、胸は寒くて仕方なかった。
「私はただ、叫びたかったの。怒りたかったの。・・・それだけなのに」
沈黙が落ちる。
そして──静かに、シルフィンは口を開いた。
「・・・私は、あなたの全部を理解できない。だって、私は、いじめられたことがないから」
その言葉に、胸がひどく痛んだ。
でも次に続いた言葉が、それ以上に深く、染み込んできた。
「でも、それでも。あなたのこと、分かろうとしたいって思ってる。それでも、友達でいたいって思ってるから」
私は、黙って彼女を見つめた。
「だから、聞かせて。あなたは──ノエルを、どうしたいの?」
胸の奥が、ずっと冷たかった。
だけど今、その問いかけに触れて、少しだけ熱が戻ってきた気がした。
「・・・“ノエル”は、死んだ。あの日、私が焼いたのは、過去の亡霊だよ」
私はそう言った。けれど──心のどこかが、まだ揺れていた。
「でも、もし・・・“美紗”が生きてるのなら。・・・あの日、私が殺しきれていなかったのなら」
私は、再び炎を灯すかもしれない。
でも、ほんの少し。ほんの、ほんの少しだけ──
それでも、もう一度だけ会ってもいいと思ってしまった。