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95.涙の先で

 部屋はまだ、夕陽に満たされていた。

けれど、さっきまでの熱気は、どこか遠ざかっていた。

私も、ノエルも、泣いたまま黙っていた。


シルフィンは気を遣ったのか、「ちょっと水、持ってくるね」とだけ言って席を立った。


 ふたりきりになった空間。

私とノエル。いや、伊原美紗。


ノエルは、しばらく視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。


「・・・実はね、私も、前世でどうやって死んだか、覚えてるの」


 その声は、まるで独り言のように弱かったけど、ちゃんと私に向けられていた。


私は黙って、頷いた。続きを促すように。


ノエル──いや、美紗は、薄く笑った。

悲しい、悔やむような、それでも静かな顔で。


「三春が死んだって聞いた時、最初は何も思わなかったんだよ。『自殺? ふーん』って、それくらい」


「・・・うん」


「ただの噂話のひとつみたいで。教室も騒いでたし、誰かが『あの子、また泣いてたもんな』って言ってて・・・私も、それに笑って乗った」


 そこまで言ったあと、美紗は一度、唇を噛んだ。

きっとそのあたりの記憶は、自分でも触れたくなかったんだろう。


「・・・でもね。それからしばらくして、駅で電車を待ってる時、ふと三春の顔が浮かんだの。泣いてた顔。私を見てた目。・・・助けて、って言ってた、あの目」


 私は、息を呑んだ。


「・・・私、見てたのに。聞こえてたのに。知らないふりして、笑ってた。私、三春のことが怖かったの・・・違う。三春じゃない。教室が。あの空気が──自分がいじめられる側になるのが、怖かった。だから、あの輪の中にいた。自分の意思じゃなかった・・・なんて言い訳にもならないけど、それでも・・・私、本当に、怖かった」


彼女は、私を見た。まっすぐに。


「そのとき、やっと気づいたの。三春は・・・あなたは、ずっと怖かったんだって。孤独のなかで、一人きりで、私の目を見てたんだって」


 そして、静かに言った。


「だから、私は線路に降りた。・・・あれは、自殺だった。“赦してほしかった”とか、そんなのじゃない。ただ、私は・・・逃げたの」


私の目から、また涙が零れそうになった。

でも、それをこらえて、ただ言った。


「じゃあ、どうして・・・転生してまで、生きてるの?」


 ノエルは、今の名ではなく、前の名で答えた。


「美紗としての私は、あそこで終わった。

でも、“ノエル”として生まれ変わって──初めて、誰かに向き合えた気がする。・・・それが、シルフィンだった。そして今、あなたに会えて、ようやく言えた。『私が、あなたを殺した』って」


私は、何も言えなかった。


胸の中で、ずっと燃えていた“怒り”と“哀しみ”が、音を立てて崩れていくのがわかった。

それは痛くて、でも、少しだけ──少しだけ、温かかった。



 ──私は、怒っていたはずだった。

憎んでいたはずだった。

何度も、何度も、夢に見た。

あの教室の天井、冷たい床、そして、誰一人、差し伸べてくれなかった手。


でも、今。

この目の前で、泣いている人がいる。

あの頃とは違う、名前も、髪も、瞳の色も違うけれど。

でも、確かに──彼女は「伊原美紗」だった。


 その事実が、私の中の何かを、ひどく揺さぶっていた。


「・・・ねえ、アリア」


ノエル──美紗は、涙に濡れた声で言った。


「私、本当は・・・あなたに謝る資格なんてないと思ってた。でも、それでも言わせて。・・・ごめんなさい。本当に・・・本当に、ごめんなさい・・・」


絞り出すような声だった。

震えるその指先が、膝の上で握られている。


 私は俯いたまま、唇を噛んだ。

この言葉を、私はどれだけ待ち望んでいたのだろう。

ずっと、届かないと思っていた“ひとこと”だった。


でも今、それが目の前で差し出されている。


なのに、心はどうして、こんなにも苦しいのだろう。


「・・・私、ずっと考えてた」


 自分の声が、少しだけ震えていた。


「もし・・・あんたが、また目の前に現れたら、絶対に許さないって。今度こそ、本当に殺してやるって、そう思ってた。でも、そんなふうに泣かれたら・・・ずるいじゃん・・・」


 喉の奥が熱い。息が苦しい。

どうして、こんなに痛いの?


「・・・“ごめんなさい”って、言ってくれるなら・・・私、ずっと、欲しかったよ・・・その言葉・・・!」


 気づけば、私は泣いていた。声を押し殺すように。どうしようもなく、子どもみたいに、しゃくり上げながら。


「・・・っく、ぐ・・・ぁ・・・!」


涙の先に、彼女の姿がぼやける。

でも、その輪郭は、ずっとそこにあった。


 その時だった。そっと、何かが触れた。


小さな、小さな手のひらが。

私の手の上に、重ねられていた。


震える指先だった。

それでも、離れず、そっと、そっと、私の手に触れていた。


「・・・ありがとう、アリア」


──その言葉が、私の心の奥を、ゆっくりと溶かしていった。



 私は、彼女の手を、静かに握り返した。

ぎこちなくて、不器用で、それでも確かに、互いのぬくもりを確かめるように。


涙が止まらなかった。

けれど、その涙はもう、あの頃の絶望だけじゃなかった。



 シルフィンがそっと戻ってきた時、私たちはもう何も言わずに、手を取り合っていた。


窓の外では、夏の夕暮れが、すこしだけ優しい色をしていた。



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