シルフィンがそっと席を外してから、少しだけ時間が経った。
部屋には静寂が戻っていたけど、さっきまでの張り詰めた空気は、どこか和らいでいた。
西側の窓から差し込む夕陽が、カーテン越しに淡い色を落としている。
私とノエルは、並んで座ったまま、まだ手を握っていた。
「・・・ねえ」
私が少し顔を向けて、ぽつりと訊いた。
「好きな食べ物とか、あったっけ? 前は・・・そういうの、話さなかったよね」
ノエル──美紗は少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「・・・意外かもだけど、私、猫好きだったの。食べ物じゃないけど。甘いものも好きだった。特に、バタークッキー」
「猫・・・なんとなく、わかるかも。気まぐれそうで、でも繊細で、可愛いところとか」
「ふふ・・・それ、褒めてる?」
「もちろん」
自然と、ふたりの間に笑みがこぼれた。
さっきまで泣きじゃくっていたのが嘘みたいに、穏やかな時間が流れている。
「・・・私はね、前世でケーキ屋さんになりたかったんだ」
「ケーキ屋さん?」
「うん。本気で、制服のデザインまで考えてた。夢ノートも作ってたし。・・・今思えば、現実逃避だったのかもしれないけど、それでも、あの頃はそれが楽しみだった」
ノエルは少し考えるように目を伏せ、それから優しい声で言った。
「・・・そういうの、知らなかったな。知ろうともしなかった」
「私も、そうだったよ」
言葉が途切れる。でも、不思議と苦しくはなかった。
沈黙のなかで、夕陽がゆっくりと床に長い影を落としていく。
「もし、前の世界で・・・こんなふうに話してたら、少しは違ってたのかな」
私の声は、夕暮れに溶けていくようだった。
「たぶん・・・違ってた。でも、それを言っても遅いのよね。・・・あの頃の私たちには、できなかったことだから」
「でも、今ならまだ、やり直せる気がする」
ノエルは、私の手を少しだけ強く握り返した。
「私も、そう思う。今なら──きっと」
私たちは、ようやく“親しさ”の端に立っていた。
まだぎこちないけれど、それでももう、魔法も怒りも必要のない場所にいた。
やがて、ノエルが静かに立ち上がった。
「・・・今日は、ありがとう。長くいすぎちゃったね」
「ううん、来てくれてよかったよ」
そう言って微笑むと、ノエルは少し照れくさそうに頷いた。
玄関へ向かう足取りはまだ少し重かったけれど、背筋は真っ直ぐだった。
扉が閉まり、再び静けさが戻ってくる。
ふと横を見ると、シルフィンがいつの間にか戻っていた。
紅茶のカップを手に、静かに私の隣に座る。
「・・・話、できたんだね」
その一言が、胸に染みた。
私は頷いて、けれど少しだけ目を伏せた。
「うん・・・ちゃんと話せたよ。でも・・・なんていうか、心の奥が変な感じで。泣いたから、じゃなくて・・・」
うまく言えない気持ちが、胸の中にまだ渦を巻いていた。
シルフィンはそっと、私の手を取った。
あたたかい手だった。
「アリア・・・あなたたちは、どちらも“傷を抱えてた”だけだよ。誰かを傷つけたこと、見過ごしたこと、その痛みはきっと、誰にでもある。でも、それだけじゃない」
彼女はゆっくり、けれど確かな声で続ける。
「本当の悪人なんていなかった。ただ、誰も手を伸ばせなかっただけ。・・・でも、今のあなたは、手を伸ばした。自分の痛みも、相手の痛みも抱えたうえで。それって、すごいことだと思う」
私は黙って、その言葉を聞いていた。
胸がきゅっとなる。けれど、それは苦しさじゃなくて、なにかほぐれていくような温かさだった。
「・・・らしくないよ、そんな綺麗事」
小さく笑ってみせると、シルフィンも肩をすくめて笑った。
「いいじゃん。綺麗事でも、言わせてよ。私だって、友達だから」
私は、もう一度目を伏せた。けれど今度は、静かに笑っていた。
「・・・ありがと、シルフィン」
彼女はうん、と頷いて、それからそっとカップを差し出してきた。
「お茶、飲む? あったかいよ」
「・・・うん、もらう」
夕暮れは、ゆっくりと夜に変わりつつあった。
けれど、この部屋の空気は、どこまでも優しかった。