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96.夕暮れの後で

 シルフィンがそっと席を外してから、少しだけ時間が経った。

部屋には静寂が戻っていたけど、さっきまでの張り詰めた空気は、どこか和らいでいた。


西側の窓から差し込む夕陽が、カーテン越しに淡い色を落としている。

私とノエルは、並んで座ったまま、まだ手を握っていた。


「・・・ねえ」


 私が少し顔を向けて、ぽつりと訊いた。


「好きな食べ物とか、あったっけ? 前は・・・そういうの、話さなかったよね」


 ノエル──美紗は少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。


「・・・意外かもだけど、私、猫好きだったの。食べ物じゃないけど。甘いものも好きだった。特に、バタークッキー」


「猫・・・なんとなく、わかるかも。気まぐれそうで、でも繊細で、可愛いところとか」


「ふふ・・・それ、褒めてる?」


「もちろん」


 自然と、ふたりの間に笑みがこぼれた。

さっきまで泣きじゃくっていたのが嘘みたいに、穏やかな時間が流れている。


「・・・私はね、前世でケーキ屋さんになりたかったんだ」


「ケーキ屋さん?」


「うん。本気で、制服のデザインまで考えてた。夢ノートも作ってたし。・・・今思えば、現実逃避だったのかもしれないけど、それでも、あの頃はそれが楽しみだった」


ノエルは少し考えるように目を伏せ、それから優しい声で言った。


「・・・そういうの、知らなかったな。知ろうともしなかった」


「私も、そうだったよ」


 言葉が途切れる。でも、不思議と苦しくはなかった。

沈黙のなかで、夕陽がゆっくりと床に長い影を落としていく。


「もし、前の世界で・・・こんなふうに話してたら、少しは違ってたのかな」


私の声は、夕暮れに溶けていくようだった。


「たぶん・・・違ってた。でも、それを言っても遅いのよね。・・・あの頃の私たちには、できなかったことだから」


「でも、今ならまだ、やり直せる気がする」


 ノエルは、私の手を少しだけ強く握り返した。


「私も、そう思う。今なら──きっと」


私たちは、ようやく“親しさ”の端に立っていた。

まだぎこちないけれど、それでももう、魔法も怒りも必要のない場所にいた。




 やがて、ノエルが静かに立ち上がった。


「・・・今日は、ありがとう。長くいすぎちゃったね」


「ううん、来てくれてよかったよ」


そう言って微笑むと、ノエルは少し照れくさそうに頷いた。

玄関へ向かう足取りはまだ少し重かったけれど、背筋は真っ直ぐだった。


 扉が閉まり、再び静けさが戻ってくる。

ふと横を見ると、シルフィンがいつの間にか戻っていた。

紅茶のカップを手に、静かに私の隣に座る。


「・・・話、できたんだね」


その一言が、胸に染みた。

私は頷いて、けれど少しだけ目を伏せた。


「うん・・・ちゃんと話せたよ。でも・・・なんていうか、心の奥が変な感じで。泣いたから、じゃなくて・・・」


 うまく言えない気持ちが、胸の中にまだ渦を巻いていた。


シルフィンはそっと、私の手を取った。

あたたかい手だった。


「アリア・・・あなたたちは、どちらも“傷を抱えてた”だけだよ。誰かを傷つけたこと、見過ごしたこと、その痛みはきっと、誰にでもある。でも、それだけじゃない」


彼女はゆっくり、けれど確かな声で続ける。


「本当の悪人なんていなかった。ただ、誰も手を伸ばせなかっただけ。・・・でも、今のあなたは、手を伸ばした。自分の痛みも、相手の痛みも抱えたうえで。それって、すごいことだと思う」


 私は黙って、その言葉を聞いていた。

胸がきゅっとなる。けれど、それは苦しさじゃなくて、なにかほぐれていくような温かさだった。


「・・・らしくないよ、そんな綺麗事」


小さく笑ってみせると、シルフィンも肩をすくめて笑った。


「いいじゃん。綺麗事でも、言わせてよ。私だって、友達だから」


私は、もう一度目を伏せた。けれど今度は、静かに笑っていた。


「・・・ありがと、シルフィン」


 彼女はうん、と頷いて、それからそっとカップを差し出してきた。


「お茶、飲む? あったかいよ」


「・・・うん、もらう」


夕暮れは、ゆっくりと夜に変わりつつあった。

けれど、この部屋の空気は、どこまでも優しかった。



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