夜になって、ノエルが帰ったあと。
私は、迷うような足取りで家の奥へ向かっていた。
母の部屋の扉の前で、私は一度立ち止まる。
赤く深い木材の扉。その向こうにいる母は、かつて世界を支配した存在を焼き尽くした、世界最強の炎の魔女。
でも私は、ただの娘として、訊きたかった。
覚悟を決めて、ノックする。
「・・・母さん。話、いい?」
「入りなさい」
短く、でもいつもより柔らかい声だった。
中は静かだった。壁一面の本棚に囲まれた空間。
机の上には、魔法理論の書物や古びた地図が並べられ、ロウソクの火が淡く揺れている。
母は椅子に腰かけたまま、私の方を見た。
その赤い瞳に、嘘も飾りもない、ただの“真実”がある。
私は、まっすぐにその目を見て、問いかけた。
「母さん・・・私って、なんのために生まれてきたの?」
母の眉が、少しだけ動いた。
「復讐だけのため?それとも、誰かを傷つけるため?」
沈黙が、数秒だけ落ちた。
けれどそのあとで、母は立ち上がり、私の前まで歩いてきた。
「違うわ」
それだけを、まず言った。
「アリア。あなたが生まれてきた理由は、“それを知るため”よ」
「・・・え?」
「怒りも、悲しみも、愛しさも──どれが自分の中にあるのか、何を選びたいのか。あなたは、それを知るために生きている」
母の声は、まるで炉の奥に潜む火のように静かで、それでいて揺るぎなかった。
「私は“炎の大魔女”として、世界を支配する邪悪な神を焼いた。でも、それは私が選んだ生き方。誰にも決められなかった。だから、あなたも選びなさい」
私の頬に、そっと手が触れた。
「私の娘としてでなく、アリア・ベルナードとして、生きる道を見つけなさい。あなたの生き方は、あなたのものよ」
その言葉が、私の胸に静かに沁みていく。
これまで、何度もこの人の背を追ってきた。
その強さを、ただの“呪い”だと思っていた。
けれど今、母はそれを私に「手渡してくれた」のだとわかる。
選びなさい、と。
自分の生き方を、自分で。
私はゆっくりと頷いた。
「・・・うん。わかった。私、自分の答えを見つけるよ。もう、“誰かのせい”にはしない」
母は微笑まなかった。ただ、静かに──満足げに、頷いた。
そして私はその背を見ていた。かつて世界を変えた魔女の姿を。
でもそれ以上に、“一人の母”の姿を。
部屋を出ると、空は澄んでいて、星が瞬いていた。
私は初めて、自分の足で夜を歩いていける気がした。
それからまたしばらくの月日が経ち、風が冷たくなってきた。
けれど、まだ冬の冷たさじゃない。
紅葉が始まった並木道を抜け、私たちは学院の裏にある、坂の上の小さなベンチに座っていた。
「ふぅー・・・やっぱり、訓練終わりにここ来るのは定番だよなぁ」
最初に声を上げたのは、ライド。雷の魔法を操る彼は、いつも通り制服の上着を脱いで、シャツの袖を無造作にまくっていた。
「そのまま風邪ひくわよ、ライド」
シルフィンが呆れたように言う。赤い瞳が、どこか優しげに揺れている。
「はいはい。お姉さん、今日も厳しいねー」
「別にお姉さんじゃないし」
「いや、包容力的な意味で」
「・・・それは否定しないけど」
二人のやり取りに、思わず笑ってしまう。
その横で、マシュルが静かに水筒のふたを開けていた。
「ほら、ハーブティー。冷えてきたから、温かいのを淹れてきた」
「ありがとう、マシュル。あなた、ほんと気が利くよね」
「気が利くっていうか・・・アリア、最近すぐ疲れてる気がするからさ」
言われて、少しだけ苦笑する。
確かに、あれこれ考えることが多くて、心がフル回転だった。でも、それに気づいてるのがマシュルらしい。
「・・・うん。でも、少しずつ整理はついてきたよ。いろいろね」
「そっか」
温かいハーブティーの香りが、風にふわりと混ざっていく。
その静かな時間が、なんだかとても愛おしく思えた。
「そういえばさ、秋っていいよね」
ふと、シルフィンが呟いた。
「空気が澄んでて、葉っぱが色づいて、風も穏やかで・・・ちょっと切ないけど、落ち着くというか」
「シルフィンらしいな、それ」
「えっ、なにが?」
「“詩人かよ”って言いたいのさ」
「詩的で何が悪いのよ」
シルフィンがちょっと膨れて、ライドが笑い、マシュルがそのやり取りを眺めて小さく笑う。
私もまた、ふっと頬を緩める。
こんな時間が、好きだった。
何かを争うでもなく、憎しみ合うでもなく、ただ一緒に過ごすだけの時間。
少し前までは、そういう“普通”が、私には遠いものだった。
でも、今は違う。
私は、ここにいていい。
そう思える自分が、ようやく胸の中に芽生えてきていた。
「・・・ねえ、また四人でどっか出かけようよ。今度は、学院の外に」
私がそう言うと、シルフィンが目を輝かせた。
「それ、いい! 秋の森とか、見に行きたいな。焼き栗とか食べながら」
「食べ物が目的なのかよ・・・いや、いいけど」
ライドが呆れたように言いながらも、どこか楽しげだ。
「外に出るなら、事前に魔力検査の申請通す必要があるな。魔物も増える時期だし」
マシュルが現実的なことを挟むのも、いつも通りだった。
「そっか。じゃあ、明日先生に聞いてみるよ」
「じゃ、任せた。おれたちは栗を楽しみにしてる」
「もう、それ完全に遠足じゃん」
「遠足だよ。青春ってやつ」
冗談を言い合いながら、夕陽が沈んでいく。
ひんやりした秋風が、赤く染まった葉をゆっくりと舞い上げた。
そのとき、石段の方から軽い足音が聞こえた。
「──あ、やっぱりここにいた」
振り返ると、ノエルが小さく手を振っていた。肩からバッグを提げ、少し息を弾ませている。
「ノエル?」
「うん。ちょっと用事が長引いちゃって。でも、まだ間に合うかなって思って」
「全然間に合ったよ。・・・ちょうどよかったまである」
ライドが栗の入った袋を振って見せると、ノエルがふっと笑う。
「それは良かった。・・・秋の森と焼き栗、なんて、ちょっと絵本みたい」
「詩人が増えたな」
ライドの軽口に、ノエルが肩をすくめる。
「そういう空気だったから、つい」
彼女はベンチの端に腰を下ろすと、アリアの隣に少しだけ寄り添うように座った。
それは自然な距離で、けれどどこか、あたたかいものを含んでいた。
「・・・遅れてごめん。みんなの輪に、入っていい?」
「なに言ってんの。もう入ってるよ、ずっと前から」
私がそう返すと、ノエルは小さく息を吐いて、笑った。
そして、また話し声が重なっていく。
静かな風に、落ち葉が揺れ、笑い声が溶けていく。
過去も未来も、まだ全部が片づいたわけじゃない。
でも、それでも──私は、今ここにいられる。
この小さな安心が、いつか大きな希望に変わっていくと、私は信じていた。