目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

98.赤く染まる季節に

 夜になって、ノエルが帰ったあと。

私は、迷うような足取りで家の奥へ向かっていた。


母の部屋の扉の前で、私は一度立ち止まる。


赤く深い木材の扉。その向こうにいる母は、かつて世界を支配した存在を焼き尽くした、世界最強の炎の魔女。

でも私は、ただの娘として、訊きたかった。


 覚悟を決めて、ノックする。


「・・・母さん。話、いい?」


「入りなさい」


短く、でもいつもより柔らかい声だった。


 中は静かだった。壁一面の本棚に囲まれた空間。

机の上には、魔法理論の書物や古びた地図が並べられ、ロウソクの火が淡く揺れている。


母は椅子に腰かけたまま、私の方を見た。

その赤い瞳に、嘘も飾りもない、ただの“真実”がある。


 私は、まっすぐにその目を見て、問いかけた。


「母さん・・・私って、なんのために生まれてきたの?」


母の眉が、少しだけ動いた。


「復讐だけのため?それとも、誰かを傷つけるため?」


 沈黙が、数秒だけ落ちた。

けれどそのあとで、母は立ち上がり、私の前まで歩いてきた。


「違うわ」


それだけを、まず言った。


「アリア。あなたが生まれてきた理由は、“それを知るため”よ」


「・・・え?」


「怒りも、悲しみも、愛しさも──どれが自分の中にあるのか、何を選びたいのか。あなたは、それを知るために生きている」


 母の声は、まるで炉の奥に潜む火のように静かで、それでいて揺るぎなかった。


「私は“炎の大魔女”として、世界を支配する邪悪な神を焼いた。でも、それは私が選んだ生き方。誰にも決められなかった。だから、あなたも選びなさい」


私の頬に、そっと手が触れた。


「私の娘としてでなく、アリア・ベルナードとして、生きる道を見つけなさい。あなたの生き方は、あなたのものよ」


 その言葉が、私の胸に静かに沁みていく。


これまで、何度もこの人の背を追ってきた。

その強さを、ただの“呪い”だと思っていた。

けれど今、母はそれを私に「手渡してくれた」のだとわかる。


 選びなさい、と。

自分の生き方を、自分で。


私はゆっくりと頷いた。


「・・・うん。わかった。私、自分の答えを見つけるよ。もう、“誰かのせい”にはしない」


母は微笑まなかった。ただ、静かに──満足げに、頷いた。


そして私はその背を見ていた。かつて世界を変えた魔女の姿を。

でもそれ以上に、“一人の母”の姿を。


 部屋を出ると、空は澄んでいて、星が瞬いていた。


私は初めて、自分の足で夜を歩いていける気がした。






 それからまたしばらくの月日が経ち、風が冷たくなってきた。

けれど、まだ冬の冷たさじゃない。


紅葉が始まった並木道を抜け、私たちは学院の裏にある、坂の上の小さなベンチに座っていた。


「ふぅー・・・やっぱり、訓練終わりにここ来るのは定番だよなぁ」


 最初に声を上げたのは、ライド。雷の魔法を操る彼は、いつも通り制服の上着を脱いで、シャツの袖を無造作にまくっていた。


「そのまま風邪ひくわよ、ライド」


シルフィンが呆れたように言う。赤い瞳が、どこか優しげに揺れている。


「はいはい。お姉さん、今日も厳しいねー」


「別にお姉さんじゃないし」


「いや、包容力的な意味で」


「・・・それは否定しないけど」


 二人のやり取りに、思わず笑ってしまう。


その横で、マシュルが静かに水筒のふたを開けていた。


「ほら、ハーブティー。冷えてきたから、温かいのを淹れてきた」


「ありがとう、マシュル。あなた、ほんと気が利くよね」


「気が利くっていうか・・・アリア、最近すぐ疲れてる気がするからさ」


言われて、少しだけ苦笑する。

確かに、あれこれ考えることが多くて、心がフル回転だった。でも、それに気づいてるのがマシュルらしい。


「・・・うん。でも、少しずつ整理はついてきたよ。いろいろね」


「そっか」


 温かいハーブティーの香りが、風にふわりと混ざっていく。

その静かな時間が、なんだかとても愛おしく思えた。


「そういえばさ、秋っていいよね」


ふと、シルフィンが呟いた。


「空気が澄んでて、葉っぱが色づいて、風も穏やかで・・・ちょっと切ないけど、落ち着くというか」


「シルフィンらしいな、それ」


「えっ、なにが?」


「“詩人かよ”って言いたいのさ」


「詩的で何が悪いのよ」


シルフィンがちょっと膨れて、ライドが笑い、マシュルがそのやり取りを眺めて小さく笑う。

私もまた、ふっと頬を緩める。


 こんな時間が、好きだった。

何かを争うでもなく、憎しみ合うでもなく、ただ一緒に過ごすだけの時間。


少し前までは、そういう“普通”が、私には遠いものだった。

でも、今は違う。


 私は、ここにいていい。

そう思える自分が、ようやく胸の中に芽生えてきていた。


「・・・ねえ、また四人でどっか出かけようよ。今度は、学院の外に」


私がそう言うと、シルフィンが目を輝かせた。


「それ、いい! 秋の森とか、見に行きたいな。焼き栗とか食べながら」


「食べ物が目的なのかよ・・・いや、いいけど」


 ライドが呆れたように言いながらも、どこか楽しげだ。


「外に出るなら、事前に魔力検査の申請通す必要があるな。魔物も増える時期だし」


マシュルが現実的なことを挟むのも、いつも通りだった。


「そっか。じゃあ、明日先生に聞いてみるよ」


「じゃ、任せた。おれたちは栗を楽しみにしてる」


「もう、それ完全に遠足じゃん」


「遠足だよ。青春ってやつ」


冗談を言い合いながら、夕陽が沈んでいく。

ひんやりした秋風が、赤く染まった葉をゆっくりと舞い上げた。


 そのとき、石段の方から軽い足音が聞こえた。


「──あ、やっぱりここにいた」


振り返ると、ノエルが小さく手を振っていた。肩からバッグを提げ、少し息を弾ませている。


「ノエル?」


「うん。ちょっと用事が長引いちゃって。でも、まだ間に合うかなって思って」


「全然間に合ったよ。・・・ちょうどよかったまである」


 ライドが栗の入った袋を振って見せると、ノエルがふっと笑う。


「それは良かった。・・・秋の森と焼き栗、なんて、ちょっと絵本みたい」


「詩人が増えたな」


ライドの軽口に、ノエルが肩をすくめる。


「そういう空気だったから、つい」


 彼女はベンチの端に腰を下ろすと、アリアの隣に少しだけ寄り添うように座った。

それは自然な距離で、けれどどこか、あたたかいものを含んでいた。


「・・・遅れてごめん。みんなの輪に、入っていい?」


「なに言ってんの。もう入ってるよ、ずっと前から」


私がそう返すと、ノエルは小さく息を吐いて、笑った。


 そして、また話し声が重なっていく。

静かな風に、落ち葉が揺れ、笑い声が溶けていく。


過去も未来も、まだ全部が片づいたわけじゃない。

でも、それでも──私は、今ここにいられる。


 この小さな安心が、いつか大きな希望に変わっていくと、私は信じていた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?