秋の風は、どこか懐かしい匂いがする。
紅く染まった葉を踏みしめながら、私たちは森の奥へと歩いていた。
「ね、ここでいいんじゃない? 陽が差してるし、ベンチもあるし」
シルフィンが声を上げて、草むらの奥の小さな広場を指差した。
あたりは木々に囲まれながらも、ぽっかりと陽だまりができていて、落ち葉の地面も柔らかい。
私たちは荷物を下ろして、即席のピクニックの準備を始める。
「へっへっへ・・・これを見てくれ!」
ライドが得意げに袋を広げると、中にはつやつやした栗がたっぷりと詰まっていた。
「ちゃんと下処理してあるんだ・・・えらいじゃん」
ノエルが感心したように言うと、ライドはにやりと笑った。
「うん、父さんがさ。『女の子たちに食べさせてやれ』って。だから僕も張り切ったわけ!」
「じゃあ、私が焼く。火は任せて」
シルフィンが指を鳴らして、小さな焚き火を作り出す。魔法で空気を整えて、煙が流れすぎないように調整しているあたり、見事という他ない。
その横で、マシュルが水筒を開けた。
「ハーブティーも、冷めないうちに」
「うわぁ・・・ほんとに旅人気質よね、マシュルって」
「おれは“備え”がないと落ち着かないんだよ」
みんなが自然に笑い合って、手を動かして、焼き栗の匂いがあたりに広がっていく。
──そんな穏やかな空気の中で、私は、ふと顔を上げた。
森の奥にある、一本の大きな木。その向こうで、風が妙に揺れた気がした。
(・・・今の、なに?)
一瞬、煙の流れが逆巻いた。まるで、風が後ろから引き戻されたような感覚。
私は立ち上がり、足音を立てないように、その木に近づいていく。
木の幹に触れると、なぜだか熱を感じた。
だけど、それは炎の熱ではなく──もっと、重くて、沈んだ感覚。
まるで何かが、“ここで眠っている”ような──
「アリア?」
背後からノエルの声がして、私は振り返った。
「・・・あ、うん。ちょっと変な風だったなって思って」
「また、感じたの?」
ノエルの目が揺れた。あの日、私と向き合ったときと同じ、真剣な目。
「・・・わかんない。ただ、ここに何か“いる”感じがしただけ」
ノエルは黙って、私の隣に立った。
足元の落ち葉が風で揺れ、ひとひらが私の肩に触れた。
それだけのことなのに、鼓動が少し早くなる。
焚き火の香り、栗の甘い匂い、みんなの笑い声が遠くなる。
でも、確かにそこにある。
私は深く息を吸った。
「・・・怖くないよ。だって、みんながいるから」
そう呟くと、ノエルが小さく笑った。
「なら、私もいる理由があるって思える」
私はその言葉を胸に抱きながら、もう一度、木の向こうを見つめた。
森は静かだった。何も起こらない。
でも、きっとそれは──“まだ”なだけ。
風の向こうで、何かが目を覚まそうとしている。
そんな予感が、私の中で静かに揺れていた。
午後の講義は、大講堂で行われた。
高い天井には魔石灯が等間隔に灯り、教壇の上には古びたスクロールと、魔力投影用の結晶球が据えられている。
「本日は“神魔戦役”と、それに関わった“八大魔女”について学ぶ」
そう語るのは、古代魔導史担当のレムラス先生。
静かで落ち着いた声が、広い講堂に響いた。
「33年前、この世界に“異界の神”──邪神ガラネルが現れた。出現は突如として、大陸中央のレフェ王国に起きた。王都に現れた“それ”は、初日にして王を屠り、国の支配構造を破壊した」
もはや聞き慣れた物語の出だしだが、生徒たちの間はざわめきが広がる。けれど、先生はそれを制するように、淡々と続けた。
「その後、20年にわたってガラネルはこの世界を覆い続けた。人々の心と体を蝕み、国家という概念すら意味を失わせた。“神の沈黙の時代”──歴史はそう記録している」
教壇の前、先生が結晶球に手をかざす。
すると空間に、八つの光の像が浮かび上がった。
「そして13年前。世界各地に現れた“八人の魔女”が立ち上がり、連携して邪神を封じるべく戦いを挑んだ。この戦いを、歴史上“神魔戦役”と呼ぶ」
その中で、最初に映し出されたのは、赤き炎を纏う女性。
燃えさかる髪に、鋼のような瞳。
──見覚えがあるどころではない。この世界に転生してから、ずっと見てきたものだ。
「炎の大魔女──セリエナ・ベルナード。心に宿す炎で邪神すらも焼き払った、世界最強の炎魔法の使い手」
母の名が、当たり前のように歴史として語られる。
私は無意識に息を詰めて、その像を見つめていた。
「雷の大魔女──リゼ・ファルグレイン。空間跳躍術、雷撃陣形、戦術転移・・・魔法戦における全ての近代理論を築いた、空の戦女」
「氷の大魔女──ヴァルナ・クリストフ。広域凍結結界を初めて成立させた魔女であり、“沈黙の盾”と呼ばれた冷静沈着な守護者」
「水の大魔女──シェル・ミルディーナ。治癒と浄化を極め、毒に犯された大地を浄め続けた。神魔戦役後も、各地の再生に尽力したとされる」
「風の大魔女──エスリィ・ヴァレット。探知、索敵、空間操作の第一人者。“神の気配を見通した者”とも記されている」
「地の大魔女──オルガ・グラウセリス。大陸の亀裂を塞ぎ、瓦礫の上に都市を再建した、建築魔導の母。神魔戦役後も“希望の石柱”として、各地に記念碑を残した」
「光の大魔女──セファラ・ルミナス。その魔力は祝福と呼ばれ、戦乱の中でさえ癒しをもたらした。彼女の遺した“聖環の儀式”は、重要な宗教儀式に今も用いられている」
七人の像が空に並び、最後の一人の姿が、遅れて現れた。
「そして──闇の大魔女。マティア・クローディア」
黒い霧のような影が、結晶球の中に滲む。
像は曖昧で、他の魔女のようなはっきりとした姿を持たない。
「意外かもしれないが、彼女の魔法の本質は不明とされている。ただ一つ確かなのは、“封印の鍵”としての役割を担ったこと。最終決戦において、ガラネルを異界の彼方へと繋ぎ止めた“決定的な力”が、彼女だった・・・もちろん、他の七人の力もあってだったが」
その瞬間、空気が少しだけ冷たくなった気がした。
私はその黒い影を見つめながら、昨日の森で感じた“気配”が脳裏に蘇る。
──あの風の揺れ。
──沈んだ熱。
──“何かが眠っている”ような感覚。
それは、きっと無関係ではない。
「この八人の魔女は、誰かに命じられたのではない。それぞれが、自らの意思で立ち上がった。だからこそ、彼女たちはこうして今に至るまで語り継がれ、今の世界の礎となったのだ」
そう締めくくられて、講義は終わった。
講堂を出た後も、私はずっと考えていた。
母の名が刻まれた“歴史”。
でもその隣には、“闇”の魔女がいる。
その姿はあまりに曖昧で、だからこそ、何かを隠している気がする。
「アリア」
背後からノエルの声がして、私は振り返る。
「・・・やっぱり、あの“闇の大魔女”の像、変だったよね?」
「・・・ うん。なんか、あれだけ違った。あの風の感じも」
私とノエルだけが、きっとあの異変に気づいていた。
──世界を救った八人の大魔女。
でもその“封印”は、永遠じゃないかもしれない。
私は、胸の奥に小さな不安を覚えていた。
それは、昨日の森で感じた気配と同じ。
何かが、またこの世界に──。