秋の夕暮れは早く、図書室の高い窓から差し込む光は、すでに赤みを帯びていた。
私とマシュルは、ある場所に来ていた。
ゼスメリア学院の地下にある“封印区画”──普段の生徒は立ち入れないが、推薦と申請が通れば特別閲覧が可能となる。
マシュルがいつもの几帳面さで書類を整えてくれたおかげで、私はここに入れている。
「それにしても、“八大魔女の非公開資料”なんて、どれだけ眠ってるか分からないな」
隣で本棚をめくるマシュルの手は早い。青い髪がほんの少し揺れて、落ちた紙埃を気にしたように肩を払っていた。
「それでも、知りたいの。・・・“闇の大魔女”マティアのこと」
「やっぱり、昨日の講義で何か引っかかった?」
「うん。像が、変だった。何かを“見せない”ようにしてる感じがして・・・母さんの時と、全然違った」
私は棚から引き出した重い魔導書を抱えて、近くの閲覧机に広げた。
マシュルも別の書物を手に持って隣に座る。
古びた羊皮紙の匂いが、ふわりと鼻に届いた。
ページを繰るたびに、知らなかった世界が顔を覗かせる。
「これは・・・“魔女間の符号通信”についての記録か」
「通信記録?」
「ああ。神魔戦役の期間中、八人の魔女同士で交わされた、符号化された魔力通信の一部が残されてる。ただし・・・内容の大半は黒塗りだな」
マシュルが見せてくれたページには、確かに魔力で焼き消された箇所が多く、ところどころに残る単語があるだけだった。
だが──
「・・・ここ。“第五層の断裂”って、書いてある」
「第五層? 魔素分解界層のことか・・・いや、それは物理空間の話。これは・・・多分、異界との接続点を指してる」
「“第五層でマティアが一時的に消失”。“回収不能”。“戻ってきたが、反応なし”・・・?」
二人で顔を見合わせる。
それは、ただの作戦中の事故とは思えなかった。
「戻ってきたのに、反応なし。って、それ・・・ 」
「おれも、まずい予感がしてきた。マティアは・・・何か変なものを“持ち帰って”きたんじゃないか?」
ページを繰る手が、自然と早くなった。
マシュルの指が止まった先、もうひとつの書類がはさまれていた。
──《補遺報告:封印術式“黒環(こくかん)”について》
「これ・・・たぶん、“封印”そのものに関わる記録だ。しかも、“黒環”っていうのは・・・マティアの魔法名かもしれない」
「黒環・・・“輪”か」
ページには、円環状に広がる魔法陣の図が描かれていた。
中央には、不自然なほど黒く塗りつぶされた“目”のようなものがある。
私の指先が、その“目”に触れたとき。
──ゴゥッ・・・!
一瞬、風のない空間で、ページが強く揺れた。
「・・・!」
何かが、“見られている”──そう感じた。
でも、それは恐怖ではなかった。もっと近い、もっとずっと深い場所からの視線。
マシュルが私の肩をそっと押さえた。
「アリア。・・・もう今日は、ここまでにしよう」
「・・・うん。ありがとう、マシュル」
本を閉じても、その目の感覚だけが、ずっと胸の中に残っていた。
地下の図書室を出たときには、夜の帳が学院を包みはじめていた。
灯りが灯る廊下を歩きながら、私はマシュルに小さく呟いた。
「ねぇ。もし・・・もし、私が“その何か”に触れてしまってたら」
「そのときは──おれが止めるよ」
その言葉は、重くて、優しかった。
私はただ、頷いた。
──“闇”の魔女は、何を封じ、何を残したのか。
それを知るために、私は歩き続ける。
夜、私は静かに目を閉じたはずだった。
けれど目を開けた時、そこはもう“夢の中”だった。
見渡す限り、灰色の空。地面もまた灰色で、影と光の境界が曖昧な世界。
音も匂いも、すべてが曖昧で、現実と虚構の区別さえも溶けていく。
私はそこに、ひとりで立っていた。
──足音。
誰かが、こちらに近づいてくる。
けれど、その姿はすぐには見えなかった。
ただ、重く冷たい気配だけが、肌にじっとりとまとわりついてくる。
そして霧が割れ、その“影”が現れた。
人の姿をしている。けれど、輪郭が曖昧で、目だけがはっきりと“在る”。
まるで虚空に浮かぶ二つの深淵。その瞳だけが、まっすぐに私を見つめていた。
「・・・あなたが、“アリア”?」
声が、空気を震わせずに届いた。
それは音ではない。感覚に直接染み込んでくる、意識の侵入のようだった。
「あなたは・・・“マティア”・・・?」
私がそう問いかけると、影は微かに首をかしげた。
「その名はもう、忘れた。けれど、あなたが知りたいものは・・・“わたし”の中にある」
「あなたは・・・何?」
「境目。始まりと終わりの間に、置き去りにされたもの──“闇”と呼ばれ、恐れられ、そして・・・選ばれなかったもの」
その言葉に、私の胸がずしりと重くなる。
「アリア。あなたは選ばれる?」
「・・・選ぶ。私は、選ぶ側になりたい」
そう答えると、影は初めて形を変えた。
長い髪を揺らす女の姿。瞳だけが、真っ黒な虚無のように、何も映さなかった。
「ならば、贈りましょう。記憶の扉を──でも覚えておいて。“知る”ということは、戻れないということ」
影が手を伸ばす。その指が、私の額に触れた瞬間。
──黒い炎。崩れゆく塔。魔女たちの嘆き。誰かの声で叫ぶ、“戻ってきて”という言葉。
「・・・!」
息が詰まる。視界が白に反転し、世界が一度、音を立てて砕けた。
──そして、目が覚めた。
夜明け前の薄闇の中、私は息を荒くしてベッドの上で身を起こしていた。
額には汗が浮き、手は冷たく震えていた。
夢。でも、ただの夢じゃなかった。
あれは確かに、何かが私に“何か”を伝えようとしていた。
「“選ばれなかったもの”・・・」
私はつぶやいた。
その言葉の意味が、何を指すのかまだ分からない。
けれど、マティアと呼ばれた魔女が、ただの記号ではなかったことだけは、もう確かだった。
──そして私は、知りたくなっていた。
彼女が何を見て、何を失って、何を封じたのかを。