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第60話 啓蟄

 その後のアルの行動は早かった。


 まず化粧品や衣服に使われている染料、石鹼や洗剤、香油まで成分を調べあげ、妊婦に良くない物を排除していく。特に香油は薬としても使われるし、料理に使われる香辛料も薬草としての側面があるから神経を尖らせていた。その食事も栄養豊富で、それでいてあっさりとした物に変え、果てには離宮を彩る植物まで徹底して堕胎に繋がる物を植え替えてしまう。


 乳母はもちろん乳児に必要な品々まで、全て揃うのに一週間とかからなかった。私は何度も『まだ確定ではない』と言ったのだけれど、どちらにせよ必要な物だからとアルは譲らない。


 私はネフィと打ち明けるのは早まったかと溜息を吐いたものだ。嬉しくない訳では決してない。アルは喜んでくれているし、陛下や王妃様も気遣ってくれる。だからこそ、余計にもし勘違いだったらと不安が募っていく。


 そして王城の空気も、次第に緊張感が増してきた。


 王太子の子供なのだ。男児であれば次期王太子、女児であれば他国との国交に繋がる可能性がある。


 つまり、命を狙われるという事。


 カイザークの人々は温厚だと言われているけれど、中には腰抜けだと侮る国も存在しているのは事実だ。この国は森を有し、海洋国家ルーベンダークとも近く、平時であればアックティカから豊富な農作物が手に入り、一年を通して飢えに苦しむ事が無い。気候も温暖で、立地に恵まれたこの国を狙う者も多いのだ。


 そんな者達にとって、王位継承者の誕生は邪魔でしかない。


 アックティカもそのひとつ。未だ交戦状態は続き、大きな戦にはなっていないけれど、国境では小競り合いが頻発していた。昼夜を問わず奇襲をかけ、兵の疲弊を誘っているのだろう。


 そこに王太子妃懐妊の報が流れれば、暗殺も危惧された。アックティカに対する警戒は怠らないけれど、憂いは他にもある。それはアックティカの北方、雪の国トスカリャだ。


 トスカリャは、アックティカと山脈で隔てられた陸の孤島。比較的温暖なアックティカと違い、山脈で遮られた寒気が停滞する極寒の地として知られる。


 広大な国土は万年雪に覆われ、夏でも気温は上がらず農作物が育ちにくい。主な作物は寒さに強い芋や葉菜類、酪農は野生を飼い慣らした鹿だ。家畜は財産で、血や骨、皮に至るで余す事なく使われる。


 大洋に面するも荒波は静まる事がなく、船を出すのは難しい。沿岸部で採れる貝や海藻が貴重な食料となるそうだ。


 そのトスカリャが、アックティカと合同で進めるのが山間トンネルの開通。これはもう数十年に及ぶ大事業となっている。このトンネルが完成すれば、トスカリャは農作物を安価に仕入れられるし、アックティカも塩が手に入る。幾度も落盤や、ガス溜まりの噴出で死人を出している工事は、既に執念と化していた。


 そして更なる問題は、トスカリャが武力主義の国家だという事。


 家畜の数が権力に直結し、それを決めるのが短い春に行われる奉納祭だ。この祭りの目玉は、男達によるガジュ・ガードの大会。腰布一枚だけを身につけ、素手で殴り合い、先に地へ手をついた者が敗者となる。


 優勝者には家畜が贈られ、徐々に格差は開いていく。


 元は豊穣や無病息災を願う祭りだったものが、次第に優勝者へと富が集まり現在の武術主義へと移っていった。その思想は、アックティカの雇う傭兵達と変わらない。


 そして山間トンネル締結以来の友好国であるトスカリャは、当然アックティカにつく事が予想される。武力主義とは言え、純粋な軍と呼べるものではないけれど、傭兵と共にどんな策を講じるかが読めなかった。


 トスカリャは立地も相まって、情報が少ないのだ。山越えは危険が多く、更に雪や大型の肉食獣などの障害もある。現在ではアックティカによる鎖国で難易度も上がっていた。


 自国に引き籠り、黙するアックティカ。


 季節はもうすぐ夏。


 様々な思惑が動き出す。


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