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二〇二七年十一月二十三日

 二〇二七年十一月二十三日。

「あら、今日は社長出勤で?」

 午後の柔らかい日差しが差し込む生徒会室。扉を開けると、渚が編集ソフトの画面からちらりと視線をよこしてきた。

「ごめん、脚本の調整がいろいろあって」

 軽く手を挙げながら言い訳すると、彼女は小さくため息をついた。

「ふ~ん、まあいいけどさ。こっちはこっちで昨日の素材、確認してるし」

 そう言って、彼女は再び宮崎君たちと画面をのぞき込んだ。モニターには、昨日撮影した映像が流れ、セリフや音のタイミングを巡って短いやり取りが飛び交っている。

 私は少しだけ立ち尽くしたまま、その雰囲気を眺める。すでにこの輪の中に、私の出番はなさそうだった。むしろ、手を出す方が水を差すかもしれない。

 私は入口近くの椅子に腰を下ろし、静かにノートパソコンを開く。カーソルを脚本の一文に合わせて、昨日の夜を思い出しながら修正に取り掛かる。

 ――結局、昨日はあのままうたた寝してしまい、気がつけば朝になっていた。周囲はほんのりと暗く、朝とも夜ともつかない薄明の色に染まっていた。

 特に何かが起きた様子はなかった。大気さんには、やはり会えなかった。……やっぱり、あのメモの内容は嘘だったのだろうか。そもそもあれは、光さんの記憶の断片に過ぎない。いや、そうじゃない。私はどうして「そこに大気さんがいれば見える」と信じたのだろう?

 思慮の浅さに、自分で苦笑する。

 視線を上げると、窓の外の空が蒼と薄紫の間で揺れていた。東の空がわずかに朱を帯び、空気がゆっくりと変わっていく。

 ……ああ、そろそろ始発電車が動き出す時間だ。

 私はゆっくりと立ち上がる。冬の朝の空気が頬を刺す。少しだけ背伸びをすると、遠くの山々の隙間から、静かに太陽が昇ってくるのが見えた。

 その瞬間、何とも言えない感覚が胸を満たす。

 ――初日の出じゃなくても、やっぱり朝陽って特別だ。

 夕暮れと朝陽。どちらも美しいけれど、夕暮れが「終わり」を告げるものだとすれば、朝陽は「始まり」を告げるものだ。光の力が内側から滲み出るような気がして、私はじっとその光を見つめた。

 あたりはますます明るくなり、夜と朝の境目は、まるで夢と現実の境界のように曖昧だった。

 ――朝なのか、夜なのか。どっちともつかないこの空の色が、なぜかいちばん美しい気がする。

 私はそんな時間を、何よりも「青春」だと思うことにした。

「……くしゅんっ!」

 大きなくしゃみを一つすると、我に返る。寒さで鼻がむずむずしてきた。立ち上がって、コートについた砂埃を軽く払いながら、周囲に目をやった。

 その時――

 ふと、空気に微かな違和感を感じた。

 音もなく、しかし確実に、何かがずれている。目には見えないけれど、風の流れがさっきまでと違う。鳥の声も、足音も、人の気配もない。ただ、どこかからこちらをじっと見つめているような……そんな、肌の奥にざわつく感覚。

 いや、正確に言うと、それは違和感じゃなかった。

 ――見えてしまった。

 ずっと「見たい」と願っていたものが、そこに「在る」と分かってしまったからこそ。

 私は逆に、目の前の情報を一つ残らず拾おうとしていた。

 集中していた。必死に。

「……まさか」

 喉の奥から漏れたその言葉に、全身が動き出す。

 私はほとんど反射のように、橋へ駆け出していた。

 橋を渡る。走る。全速力で、対岸へ――

 影が見える。確かにそこに誰かが立っている。

 私の視線は、ただその一点に吸い寄せられていた。

「まさか……まさか……まさか……!」

 ローファーがアスファルトを蹴る音、鼓動、呼吸、風の音――

 すべてが混ざり合って、私の中に渦巻いていた。

 対岸に降りると、その人影は動かず、ただ東の空を、じっと見上げていた。

 胸が、痛いくらいに高鳴っていた。

 ドクン、ドクンと、心臓が脈打つ。

 写真で見た。動画で見た。だからこそ、分かる。

 それは、間違いなく、彼であった。

 制服は、私たちと同じ学校の学ラン。

 でも、全体から漂う雰囲気には、どこか懐かしさと古さがあった。

 今の時代のものとは、微妙に違う……そんな空気。

「あ、あ……」

 声にならない音が漏れる。

 言葉が、舌の上で崩れていく。

 これは感激なのか、それとも恐怖か。

 信じたくない、でも信じたい――

 そんな相反する感情がぐるぐると渦を巻いていた。

 彼は、背を向けたまま動かない。

 身長は私と大差ない。

 でも、制服越しに見ても分かる――鍛えられた身体つき。

 ……間違いない。

 この人は、大気さんだ。

 約十年前、亡くなった高校一年生。

 年上であるはずの彼は、しかしその姿のまま、まるで時間に置き去りにされたように、そこにいた。

「あ……あ、あの……」

 その瞬間だった。

 彼が、くるりとこちらを振り返った。

 光の加減ではない。

 彼は、まるで生きている人のようだった。

 でも、どこか淡く、輪郭の奥に、薄い哀しみがにじんでいる気がした。

「俺が見えるの……?」

 穏やかな声だった。

 けれど、どこか遠くで響くような、不思議な感触。

 私は口元を手で押さえた。

 溢れてきそうな感情を、どうにか押しとどめる。

 胸の奥で、何かがこわれそうだった。

「あの……あなたは……大気……さん、ですか?」

 彼の瞳が、ぴくりと動いた。

 まるで、長い間忘れていた名前を呼ばれたように。

 そして――彼は、ゆっくりと微笑んだ。

 どこか照れくさそうに。

 どこか、嬉しそうに。

「……俺のこと、知ってるんだ」

 たったそれだけの言葉に、私は全身を貫かれた気がした。

 声は穏やかで、静かだった。

 でも、その中には――十年という時間の重みと、ずっと誰にも届かなかった孤独があった。その笑顔は、あまりにやさしくて、あまりに哀しかった。

 そうか。

 彼は――ずっと、彷徨っていたのだ。

 約束を破ったことへの罪なのか。

 誰にも見つけられず、忘れられた存在として。

 時間に置き去りにされたまま、約十年間、この場所に。

 私はただ、立ち尽くすことしかできなかった。

 言葉はもう、どこにも見つからなかった。

「おはよう」

 唐突に、背後から声がかかった。

 河岸の小道を、軽快に自転車を漕いでいく中年の男性だった。

 挨拶は短く、何気ないものだったはずなのに――私の胸に、針のように刺さった。

 彼は――私にだけ挨拶した。

 大気さんのほうは、まるで見えていないかのように。

 私は呆けたように彼の後ろ姿を見送った。

 日常の中に投げ込まれた、異物のような「非日常」。

 その違和感に思考が追いつかない。

 そんな私の顔を見てか、大気さん――いや、そうとしか呼べない彼が、静かに言葉を紡いだ。

「……君は、誰だい?」

 その声は穏やかだったが、背筋にひやりと冷たい風が吹き抜けたように感じた。

 彼が“人間”ではないという事実。

 それは視覚や理屈ではなく、もっと深い部分で、確かに私の心を震わせていた。

 でも、恐怖の正体は、それだけではなかった。

 自分でも分からない何かが、心の底で疼いている。

「……わ、私は……春、と言います」

 言葉が震えないように必死だった。

 それでも、なんとか名乗ることはできた。

「春……か。君、その制服……第二甲府高校、だよね?」

「は、はい。二年生です」

「へえ……先輩か。すみません、なんか」

 彼は目を細め、申し訳なさそうに笑った。

「い、いえ、そんな……。むしろ、大気さんの方が……その、大先輩ですし」

 取り繕うような返事しかできなかった。

 頭の中はぐるぐるしていて、沈黙がひどく息苦しい。

 すると、大気さんはふっと口元を緩めた。

 その笑みは、人間らしくて、どこか無垢で――だからこそ、余計に心がざわついた。

「な、何で、笑うんですか?」

「いや……ごめん。君のこと、見てたよ」

「見てた……?」

「うん。全部」

 空気が、少し和らいだ気がした。

「全部って……それは……」

 彼は、少し首をかしげながら、まるで確認するように言った。

「――千紗先輩の妹さん、だよね?」

 胸の奥で何かが、ぎゅっと締め付けられた。

「……目元が、そっくりだよ。千紗先輩に似て、優しい目をしてる」

「そんな……」

 つぶやくように返すと、大気さんはほんの少し、申し訳なさそうに目を細めた。

「映画、作ってるんだろ。……俺の話を題材にして」

「……はい」

「面白いことをするね」

 淡々と言ったその声には、皮肉も怒りもなかった。ただ、少しの驚きと、どこか遠くを見つめるような寂しさが滲んでいた。

「……怒ってますか?」

「ん?」

「……ご自身を題材にしていることに。そもそも小説自体もですが……私は、ずっと罪悪感を感じていて……」

 私の問いに、大気さんは少し眉を上げたあと、ゆっくりと首を横に振った。

「怒ってる、か。どうだろうな。そもそも、自分が誰かの題材になるなんて思ってなかったし……想像もできないよ。でも、あれでしょ? どうせ信二の差し金なんだろ」

「それは……」

 言葉に詰まる。

 否定できなかった。

 でも、それだけじゃない。私は自分の意思でここに立っている。

「まあ、俺も十年間、いや、十一年か? ここにいるからね。おおよその事情は……見えてるよ」

 淡々と語る彼の声に、静かな苦味が混じった。

 十年。

 それは彼が彷徨い続けている年月。

 生と死のはざまで、誰にも気づかれず、何も成せず、ただそこに存在するだけの時間。

 私は胸の奥が痛くてたまらなかった。

「でもさ――」

 彼はぽつりと続けた。

「正直、関心はしないな」

「……え?」

「いくら千紗先輩の妹でも……俺と信二の“男の約束”に、割り込んでくるのは。あれは、聞かないでほしかった」

 その一言が、胸に鋭く刺さった。

「……それは……」

 何も言い返せなかった。

 確かに、私は覗いてしまった。

 彼らの記憶、友情、そして秘密――本来なら踏み込むべきでない領域に。

「……でも、大丈夫だよ」

 そう言って、大気さんはふっと笑った。

 どこか達観したような、いや、諦めのような……けれど温かい微笑だった。

「ある意味、光のせいだし。……あの野郎、散々色々と野球について教えてやったのに、恩義忘れやがってさ」

 苦笑まじりにそう言った大気さんの言葉に、思わず私も笑ってしまった。けれど、その笑いはすぐに胸の奥で溶け、やがて喉の奥に重く沈んでいった。

「……大気さん」

「ん?」

「その、あの約束……いろいろ、本当なんですか? さっきの言い方だと……」

 私の問いに、大気さんはふっと目を細めた。風が静かに流れ、彼の表情を揺らす。

「……ああ。全部、本当だよ」

「じゃあ……それって、もう……大気さんの存在って……」

 口にするのが怖かった。彼の存在が、段々と消えていってしまう。そのことの証明になってしまいそうで。

「……それはいいんだ。約束を破った方が悪い」

 大気さんの声は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。

「でも……!」

「いいんだってば」

 その口調は優しいのに、どこか決意がこもっていて、私はそれ以上言葉を重ねることができなかった。

 彼は静かに続けた。

「それより、君はどうする?」

「どうするって……」

「この秘密、千紗先輩に話すの?」

 唐突な問いに、私は視線を泳がせた。どう答えるべきか、正解がわからない。

「それは……」

「……それは?」

「その……」

「……その?」

「あ……」

「……ぷは」

 突然、彼の笑い声が漏れた。どこか懐かしいような、切ないような音色だった。

「な、何で笑うんですか……」

「いや、君なら言わないだろうなって。君も千紗先輩とそっくりだ」

「そ、そんな……そんなことないです。私は……」

「いいよ、それは。それより……もう、時間だ」

 その言葉に、胸が締めつけられた。

「待ってください、大気さん。姉に……千紗に会わないんですか? 一言だけでも……!」

 私は思わず踏み出し、彼に詰め寄った。けれど、大気さんはほんの少しだけ首を横に振る。

「それは、ダメだよ」

「どうして? 姉は、この事実を知らないことを、絶対に怒りますよ。本当に。それでいいんですか? 何よりこのままだと……大気さんの存在自体を……」

 私の声が震える。感情があふれ出そうになるのを、必死にこらえた。

 大気さんは黙って、空を見上げていた。

 薄明の空。少しずつ朝焼けが水面に滲んでいる。

 そう告げた瞬間、風がひとつ、私の髪を揺らした。

「……大気さん!」

 私がもう一度呼びかけたとき、彼は静かに振り返った。

 その顔には、もう迷いはなかった。まるで、やっと心が定まったような、透き通った微笑み。

「……時間だ」

 次の瞬間、視界が真っ白にかすんでいった。

 ――ワン、ワン。

 どこか遠くで、犬の鳴き声が響いた。夢の中の残響のように思えたその音が、やがて現実の音としてはっきりと耳に届く。

 ……目を覚ますと、私は橋の下にいた。

 夜明け前の河原。空は淡く青く染まり始めている。吐く息がほんのり白い。

 首元にかかる制服の感触が生々しく、頬に冷えた草の感触が伝わってくる。

「君、大丈夫かい?」

 ふと声がして見上げると、犬のリードを引くおじさんが心配そうに私をのぞきこんでいた。その隣には、自転車を押した若い警察官も立っている。

「……あ、えっと……私……」

 慌てて身体を起こしながら答えた。けれど自分がなぜここにいるのか、どうして寝ていたのか、すぐには思い出せなかった。

 警察官が眉をひそめた。

「こんな時間に高校生が……。しかも制服のままで……」

 私はあたりを見回した。

 ――大気さんは?

「待って、大気さんはどこに……?」

 思わず声に出してしまった私に、おじさんと警察官は顔を見合わせた。

「……彼氏のことかい?」

「いや、そうじゃなくて……。あの、ついさっきまで、ここに……確かに……」

 私は視線を橋の上へ、河原の方へと忙しなく動かした。さっきまで確かに、彼はそこにいた。風の匂いも、言葉の温度も、まだ肌に残っている気がするのに。

「君、何してたの?」

 問いかけられたその瞬間、頭がぐるぐると混乱する。どう答えていいか分からず、私は衝動的に叫んだ。

「あ、あああっ! 流れ星っ!!」

 指を空に向け、大げさに声を張る。

「……え?」

 当然ながら警察官もおじさんもぽかんとした顔になる。私はその隙にすくっと立ち上がり、制服のスカートを払うと、草むらを駆け抜けて逃げ出した。

 けれど――

 逃げられるわけもなく、数分後にはあっさり追いつかれてしまった。

 事情を聞かれ、私はしどろもどろに説明した。天体観測をしていたことにしたら、なんとか納得してもらえたようで、警察官も「気をつけて帰るように」とだけ言ってくれた。

 それでも、連絡はしっかり入ったらしく、家では両親にしこたま怒られた。

 先ほど担任に呼び出され、厳重注意。

 私は何度も頭を下げ、ただただ「すみません」としか言えなかった。

「春!」

 名前を呼ばれて、ハッとする。

 渚が数メートル先で手をひらひらと振っていた。渚の白いリボンが揺れて、ようやく現実が色を取り戻していく。

「な、何?」

 私は思わず間の抜けた声を返してしまった。

「なにって、あんた顔色ヤバいってば。死人でも会った?」

 一瞬、喉の奥がひゅっと詰まった。

「あ、いや……で……」

「うわ、なんか図星?」

 渚が目を丸くする。私は慌てて首を横に振った。

「ち、違うってば! ただの、寝不足!」

「ふーん……ま、いっか。ほら見て。宮崎君の編集、今回もガチ変態的でやばいよ」

 話題を切り替えるように、渚がモニターの前に私を連れて行く。そこには、宮崎君が誇らしげな顔で椅子にふんぞり返っていた。

「自分の才能にこわくなる」

 自信満々の宮崎君の声に、私は思わず笑ってしまう。

 モニターには、涼香と久保田くんのシーンが映し出されていた。部屋の静かな空気、交差する視線、沈黙。そして無言のまま挿入されるぬいぐるみのロングショット。

 セリフをほとんど使わずに、空気の重さを伝えてくる編集。なるほど、緊迫感がある。

「……これ、すごいね。無音が逆に、怖いくらい」

「でしょ? 宮崎君曰く、ホラー映画のカットを参考にしたとさ」

 渚は腕を組みながら満足げに頷いた。宮崎君は鼻を高くして「もっと言っていいよ」と冗談を飛ばしていたけれど、それすら心地よくて、少しだけ胸が楽になった気がした。

「で、春。今後のスケジュールだけど」

 渚が話を戻すと、私の腕を軽く引いて、生徒会長専用の大きなデスクへと向かった。

「渚的にはどう思ってる? 一月、二月はあまり撮影できなさそう?」

「うん……」と、渚は椅子にどさっと腰を下ろし、腕を組んだ。

「テスト期間もあるし、高校入試の関係で学校立ち入り禁止の日もあるし。あと、三年の教室は受験組がピリピリしてるから、撮影は難しいわね。実質、二ヶ月は小休止ってとこ」

 渚の言葉には、生徒会長としての冷静な分析がにじんでいた。

「じゃあ、撮影再開は三月の後半から、って感じ?」

「そのつもり。で、残ってるのは――三年生の教室パート、学園祭パート、それから野球部の夏の大会、そして……吹奏楽部の演奏パート」

 私は指折り数えながら復唱した。

「目白押しよ。本当に。それぞれの撮影場所や段取りも、もう考えてるの?」

「まぁ、だいたいはね。特に野球部の大会と吹奏楽の演奏シーンは、本物の会場で撮りたい。臨場感、大事だから」

 そう言って渚は椅子の背にもたれながら、視線を天井に投げた。

「小瀬の野球場と、県民ホールね?」

「ビンゴ。小瀬は翔太が野球部顧問に交渉中。ダメならクラファンの資金で半日レンタルかな。県民ホールの方は――四月に定期演奏会あるでしょ? そのリハーサルの日、舞台使わせてもらえるよう、涼香が顧問と掛け合ってくれてる」

「二人とも、そういうとこ頼りになるよね」

「うん。こういうとき所属部員がいると、本当に心強い。あ、そうそう、渉外班の二人も、かなり動いてくれてるから、スケジュールだけは着実に組めてるのよ」

「なるほど。じゃあもう、準備満タンだね」

「……じゃ、ないでしょうが!!」

 机をバン! と軽く叩きながら、渚は詰め寄ってきた。怒ってるというより――焦れている感じ。

「後半パートの、きゃ・く・ほ・ん。どうなのよ?」

「あ、うん……実は、もう大体固まってる」

「は? なにそれ、先に言いなさいよ!」

 渚の目がパッと輝いた。まるでお菓子をねだる子どものように、私のノートパソコンを覗き込もうとする。

「ほらほら、見せて! 何? 光さんと橘先生の関係、どう描いたの?」

「そこは……ちょっと脚色も入ってるけど、基本は実話ベースで」

「おおー……で?」

 私は深呼吸してから、そっと言葉を継いだ。

「三年になった姉が、夏のコンクールに向けて走り出して。野球部の予選と重なりながら、少しずつ……工藤光さん――じゃない、生まれ変わった輿水大気さんと距離を縮めていく。そういう流れにした」

 私がそう説明すると、渚は画面をスクロールしながら、うんうんと頷いた。

「なるほど。大枠は当初通りね。で、終わりは県大会決勝に変更か」

「うん。甲子園まではさすがに無理だろうってことで。まあ、一応ハッピーエンドにして終わらせるつもり」

 渚の指が滑るたび、脚本の細かい部分が映し出されていく。

「そして、生き返りについては……ほう、そういう解釈にしたんだね。だから曲も変えたのか」

「そう。涼香とも相談したけど、吹奏楽部の演奏で、もちろん原作通りジェイムズ・バーンズの『交響曲三番』が聴けたら最高だよね。でも、さすがにそこまで吹奏楽部に負担はかけられないし。あっちはあっちで、定期演奏会やコンクールに向けて、練習すべき曲はもう決まってるし」

「そっか……でも、この曲、『たなばた』って、あの七月七日の七夕のこと?」

「うん。日本の作曲家が高校生のときに作った曲で、人気も高いんだ。涼香によると、来年四月の定期演奏会でも演奏する予定だし、これはちょっとラッキーかなって」

「ほう……確かに織姫と彦星みたいに、一度離れ離れになった二人がまた結ばれる、って感じか。まあありきたりだけど、このくらいのまとまりがいいね」

「そう。織姫と彦星みたいに、二人は神様の意思で離れ離れにされた。でもその悲しむ二人を見て、神様が心を痛めてチャンスを与えた――そんなニュアンスを活かして、生き返りの部分は修正を加えたんだ」

「ほうほう、それはきれいにまとめたね」

 渚は納得したように頷きながら、ほんの少しだけ微笑んだ。

「ありがとう。一旦はこれで行こう。このデータ、あとでちょうだいね。それと、春……受験勉強もしっかりやっときな?」

 渚はそう言って、にこりと微笑んだ。

「それはお互い様ですよね」

 私は軽く笑い返すと、渚もケラケラと笑い声をあげた。その明るさに、どこか肩の荷が下りたような、少しだけ重みが消えた様子が見て取れた。大きく伸びをして、また少し元気を取り戻したみたいだった。

 けれど、私はその笑顔の向こう側に隠したままのことがあった。まだ渚には言えない、秘密。

 胸の奥で、もやもやとした気持ちがくすぶり続けている。朝に見た、大気さんの姿も、あの言葉も――。

 いつか、ちゃんと話さなくては。そう思いながらも、今はまだ言葉にできなかった。


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