二〇二七年十一月二十二日。
いよいよ、一つ目の山場に差し掛かっていた。
「……お願い、帰って……」
ベッドに横たわる涼香が、枕で顔を隠しながら、それでも絞り出すような声で訴える。
彼女は今、私の姉を演じている。
夜。部屋の明かりは落とし、カーテンの隙間からわずかに街灯の光が差し込んでいるだけ。
その薄暗さが、かえって彼女の芝居にリアリティを与えていた。
どこかで猫が鳴いたような音がした。カメラを回していた撮影部隊は、思わず息を殺す。 姉を訪ねてきた三浦信二さん役の久保田は、ベッドの脇に立ったまま、何も言わずに見下ろしていた。
感情を押し殺している――のではなく、何をどう伝えればいいのか分からず、ただその場に立ち尽くしている。
その無言が、逆に姉の「孤独」を浮き彫りにする。そういう意味では、久保田君の“演じなさ”が絶妙だった。
「そんなこと言うなよ……」
ようやく久保田が口を開く。けれど、その声は涼香の拒絶によって、かき消される。
「帰ってって言ってるでしょう! ……こんな私が、学校に行ったって、意味なんて、ない……!」
言いながら、涼香は枕で覆っていた顔をわずかに上げた。
涙が流れてはいない。けれど、目の奥に宿った光が、観る者に痛みを伝える。
まるで心の底から、自分の価値を信じられなくなった人間の、それでも見捨ててほしくないという叫びだった。
カメラ越しのファインダーに映るその姿を、私は思わず手で覆いそうになる。
あまりにも、姉であった。
このシーンは、当初は一日で撮り終える予定だった。
撮影場所は涼香の後輩の家――確かに気を遣う。
毎回、菓子折りを抱えてお邪魔するのも気が引けるし、時間だって限られている。
が、涼香は違った。
「……もっとクオリティを上げたい」
撮影が一区切りつくとすぐ、彼女は自分の映像チェックに目を凝らす。
その上で、自分の中に浮かぶ“別の見せ方”をいくつも想定し、よりベターなものを選び取っては試していく。その繰り返しだった。
ここが物語の見せ場ということもあって、撮影はすでに何度も繰り返されていたが、誰一人「もういい」とは言わなかった。
むしろ、私は、心の底から思っていた。
(すげえな、涼香……)
彼女の演技には、あの時の姉の面影が確かに宿っていた。
──そう、あのとき。
姉は、大気さんの死をきっかけに、しばらく学校へ行けなくなっていた。
生まれてからずっと、真面目で、成績優秀で、何ごとにもきちんと向き合ってきた姉が、突然“消えた”。
布団の中で身を縮めている姿を、今も時々夢に見る。
あの日のデートに姉を誘ったのは、大気さんだった。
もちろん、事故は不可抗力だった。でも人は、自分を責める時、理屈よりも感情を選んでしまう。
「私のせいで死んだんだ」――たぶん、姉の胸の中はその一念で塗りつぶされていたのだろう。
食事もとらず、目も合わさず、ベッドに潜ったまま、ほとんど口を開かなかった。
そんな姉の部屋に、ある晩、ふらりと現れたのが三浦信二さんだった。
大気さんの親友であり、姉ともクラスメイトとして仲が良かった人だ。
「こんばんは、春ちゃん」
あのとき、彼は玄関でそう言った。
口元は笑っていた。でも、その笑顔は明らかにぎこちなかった。
無理をしているのが、幼かった私にも分かった。
夜の八時過ぎ。
部活帰りだというのに、制服のまま、汗のにおいをそのままに、彼は姉の部屋に上がっていった。
私はその後、廊下にしゃがみ込み、姉の部屋の扉越しに、二人の会話をただ聞いていた。
「……学校、行こうよ。皆、心配してるよ」
「うるさい……帰ってってば……」
姉の声が震えていた。
それでも信二さんは、声を荒げることなく、ずっと話し続けていた。
──あの時と、まったく同じ空気が、今この部屋に満ちている。
「もう、大気君は戻ってこないの!」
涼香が、脚本の中で叫んだ。
その声は、脚本以上のなにかを孕んでいた。
演技の枠を超えた、記憶の声。
現場にいた全員が、無言になった。
カメラマンも、音声も、照明も、息をひそめる。
その空気に飲み込まれ、久保田君は一瞬、動きを忘れたようだった。
正直に言えば、キャストについて、当初、私も渚もそこまで期待はしていなかった。
いや、むしろ期待する方がどうかしている。
なにせ、集まったのは演技経験ゼロの、いわば“ずぶの素人”ばかり。
しかもこの企画自体、どこか「思い出作り」の延長線上にあった。
高校生活の一つとして、一生懸命やればそれでいい。そんな雰囲気が、現場全体を緩やかに包んでいた。
……が、面白いことに。
いや、こういうときこそ「才能」の面白さがあるのだと、あとで気づかされる。
事前に分かっていないからこそ、発掘されたとき、その輝きに驚かされるのだ。
「うるさい! もう帰ってよ!」
その一声に、私は思わず視線を上げた。
涼香が、顔を背けながら涙を浮かべ、手元にあったぬいぐるみを久保田君に向かって放り投げる。
それは演技というより、どこか素に近い感情の爆発だった。
その直後、涼香は少し声を落とし、かすれるようなトーンで呟いた。
「ごめん……頼むから帰って……」
私は息を飲んだ。
いや、息を止めていたのかもしれない。
(涼香……)
彼女の演技には、何かがあった。
それは「うまい」という表面的な評価ではなく――「通じる」感情だった。
もともと涼香は、吹奏楽部の出身だった。
その影響か、表現や共感、そして何より「見せ方」に対する感覚を、ある程度、肌で理解していた。
特に台詞においては――どこを強く言うべきか、どこで間を置くべきか、そうした細かな“呼吸”を、直感的に掴んでいるようだった。
だから彼女の演技は、どこか自然で、でも確実に胸に届く。
長谷川君や久保田君が、言葉に振り回されているのに対し、涼香はむしろ、言葉の内側にある感情を先に掴んでから、そっと言葉を置いていく。
演じるというより、“そこに居る”という感じだった。
そして――何より、涼香には「理由」があった。
彼女は、私の姉を尊敬していた。
姉が吹奏楽部の顧問を務めたのは、たった一年だけだった。
それでも、その一年の中で、涼香にとっては忘れられない時間があったらしい。
「音楽だけじゃなくて、生き方を教えてもらった気がします」――そんなふうに話していたことがある。
姉自身も、彼女のことはよく覚えていた。
「熱心だったよ、ほんとに。……まあ、私が現役のときの方が、もっと厳しかったけどね」
そんなふうに、少し照れたように、でもどこか嬉しそうに、部活バカは語っていた。
そんな“憧れの人”を演じるということ。
涼香にとっては、ただの役作りではなかったのだと思う。
一人の人間に敬意を抱き、その心情を少しでも近くで想像し、咀嚼し、受け止めて、
――そしてようやく、演じる。
それゆえに、役の解像度は高かった。
たとえば、何も言わず目を伏せる一瞬にも、そこに“意味”が宿る。
久保田君や長谷川君が台本をなぞる中で、涼香だけは、そこに“魂”を宿そうとしている。
「涼香ちゃんの欠点はね……」
ある日、姉が仕事から帰ってきて、夕飯の後の晩酌中、ふとグラスを見つめながらそう漏らした。
その日は、涼香がソロコンテスト――たった一人で演奏を披露する大会に出場した日だった。結果は芳しくなく、本人もかなり落ち込んでいたと聞く。
「あの子はね、表現力は豊かだし、感受性もある。でも……もしかしたら、表現する“手段”としては、楽器が合っていないのかもね……。器用じゃないからこそ、出したい感情と音が、すれ違っちゃうんだよね。だから、少し苦しそうなんだ」
あの時は、正直ピンと来なかった。ただ姉が、生徒を心配しているのだろうくらいに思っていた。
でも今――あの言葉の意味が、ようやく分かる気がする。
涼香は、今、確実に“覚醒”しつつある。
演技に磨きがかかり、セリフの裏にある感情を見つけては、丁寧にすくい上げて表現する。
その姿は、演者というよりも、まるで誰かの人生を借りて「生きている」ような、そんな感覚さえ覚えるほどだ。
――演技という表現手段が、彼女にぴたりとはまったのだ。
きっと、楽器以上に。
「すごい……」
思わず、隣にいた宮崎君がぽつりと漏らした。目はモニターの先、涼香の芝居に釘付けだった。
その声に私も無言で頷く。たしかに、すごい。文句なしに“届いて”くる。
でも、だからこそ、心配にもなる。
涼香は、あまりにも感情移入しすぎているように見えるのだ。
たしかに姉の演技に対しては、日々の撮影前に必ず私に何かを聞いてくる――「橘先生って、現役のときはどんな感じ?」「好きな色は?」「部屋にあったものって覚えている?」――まるでドキュメンタリーでも撮るかのように。
その熱量は嬉しいけれど、でも、感情の振れ幅があまりにも激しいシーンが、今後まだ何度もある。その度に、彼女の心がどこまで持つのか、正直不安もよぎる。
そんな私の懸念をよそに、芝居はクライマックスを迎えていた。
涼香がセリフを吐き出し、目を伏せ、わずかに震える指先で毛布を掴む。その仕草ひとつにすら、切実さが滲んでいた。
そして、
「はーい、カット。……オッケー、これで今日は終わり!」
渚の声が響いた瞬間、現場に張りつめていた空気が、ふっと緩んだ。
皆が一斉に息を吐き、スタッフもキャストも笑顔に戻っていく。
「お疲れー! マジでよかったよ、今日のシーン」
宮崎君が涼香に駆け寄り、軽くハイタッチする。
涼香は、少しだけ照れたように笑ったが、ほんの一瞬、眉がかすかに寄っていた。
もしかして、自分でも気づいているのかもしれない。
今の自分がどれだけ“入り込みすぎている”かに。
九時過ぎ。
冷たい秋の空気の中、機材を片付ける音と、誰かの笑い声だけが夜に溶けていった。
「ごめん! ちょっと用事ある!」
放課後の帰り道、渚たちとの帰り道の途中で、私はそう言って自転車のハンドルを切った。
授業のノートを、他の子が間違えて持って帰ったとそれらしい理由をつけて、みんなとは反対の方向、第二甲府高校の方へと向かう。
「なら私も」
すぐに、涼香の声が後ろから飛んできた。彼女の家もそっちの方角らしく、しばらく並走する形になった。いや、本当は並走良くないです。はい。
細い道を並んで進みながら、風の切れる音の中、彼女がぽつりと言った。
「今日すごかったね」
「……何が?」
「いや、涼香の演技だよ。なんというか、感情爆発って感じ」
「あはは……」
涼香は照れ笑いを浮かべつつ、視線を前に向けたまま、「少し恥ずかしさはあるけどね」と付け足す。
でも、その声の端には、ほんの少し誇らしさがにじんでいた。嬉しくないはずがないだろう。
「てか、春と話すの、久しぶりだね」
「……何が?」
「ほら! 二人でこうやって話すの」
「ああ、たしかに」
思い返せば、涼香とは一年生の時、同じクラスだった。
私は家が遠かったし、あまりクラスに馴染めていなかったけど、涼香は最初から輪の中心にいて、いつも誰かと笑っていた印象がある。
「あの時の春って、静かだったよね。真面目っていうか、目立たない感じで」
「何言ってんの。そっちがパリピすぎたんでしょ。でも、こっちもビックリしたよ」
「何が?」
「五月くらいだったかな。急に『えっ、あんた、橘先生の妹なの!?』って、詰め寄ってきたじゃん」
「ああー! 言った言った!」
涼香が声を上げて笑い、その横顔が車のヘッドライトで一瞬だけ照らされた。
少し眩しかったけど、彼女は気にせずペダルを漕ぎ続ける。
「涼香さ……」
不意に、私は尋ねた。
「なんでそんなに、うちの姉のこと好きなの?」
「ええっ!? ……そりゃあ、美人だし、ペットの扱いも上手いし、頭もいいし、そしてなにより、部活愛がすごいし!」
「最後のは余計じゃない?」と苦笑いすると、
「そうかな? でもさ、今の時代、あんな熱い先生、そうそういないよ」
涼香は少し真顔でそう言った。
「……そっか」
私は思わず目を細めた。
「千紗姉、喜ぶだろうな。そんなふうに言われたら」
「うん。私は感謝してるよ、ほんとに」
信号に差し掛かり、二人同時にブレーキをかける。
点滅しはじめた黄色信号に、無理して突っ込もうとはせず、ゆっくりと足を止めた。
そのとき、涼香がぽつりと呟くように言った。
「でも、やっぱ一番は、あれかな」
「……あれ?」
「うん。橘先生の現役時代の演奏。群馬でのやつ」
ふっと、時間が巻き戻る。
そういえば、涼香は元々、群馬出身だった。小学校の途中で山梨に引っ越してきたと聞いている。
その母親はピアノ教室の先生で、教え子がよく吹奏楽部に入るため、演奏会などを見に行く機会も多かったらしい。
「私はあの西関東大会が、初めて吹奏楽の演奏を生で聴いたけど、驚いたな」
「そんなに?」
「うん。あの、橘先生たちが演奏したバーンズの『交響曲第三番』。今でもはっきり覚えてる。
演奏の技術とか、上手い下手とか……そういう次元じゃなかった。なんというか、一人で別のレベルの戦いをしている人がいる、って思ったの」
「……違うレベル?」
涼香の眉が少し動く。
「うん、うまく言えないんだけどね。でも確かに感じたの。あれは、ただの“気持ち”以上の、何かが乗った演奏だったって。聴いたことないのに、懐かしいような、悲しいような、嬉しいような……そんな感じ」
「へぇ~」
私はついつい素直に感心したように声を漏らす。
「よく覚えているね」
「……あはは。今、ちょっと疑ったでしょ?」
「まさか~」
と笑いつつ、視線は前を向いたまま。
ちょうど信号が青に変わり、車が数台、音を立てて通り過ぎていく。
私たちも、ペダルにかかとを乗せて、自転車をゆっくり漕ぎ出そうとした、そのときだった。
「……魂の籠ったものは、誰だって忘れられないよ」
涼香がぽろりと呟くように言った。
「……言葉であれ、スポーツであれ、演奏であれ。記憶に残ってるってことは、その人の“何か”が、ちゃんと届いたってことじゃないかな」
その言葉に、私は思わず漕ぐ足をゆるめた。
涼香は前を見たまま、静かに微笑んでいた。
けれど、その表情には、どこか寂しさのようなものが滲んでいた。
「向井さんのお家、あっちでしょう?」
そう言って、涼香は小さく手を振った。
私は一瞬ためらったけれど、笑ってうなずいた。
「うん、気をつけて帰ってね」
気象台前の分かれ道。涼香は住宅街の方へと自転車を走らせた。夜の街灯が滲み、空気はすっかり冷え始めていた。
……もう、九時半は過ぎているだろう。
涼香の姿が完全に見えなくなったとき、私は深く息を吐いた。さっきまでの笑顔を、そっとしまう。
ここからは、私が向き合わなければならない“自分の時間”だ。
私にも――忘れられないものがある。
いや、正確には、「忘れたくても、忘れられないこと」だ。
ペダルを踏み、交差点のざわめきから反対方向に走り出す。目指すのは、何度も来たことのある場所。事故現場、新荒川橋。
特別な期待があるわけじゃない。奇跡を信じているわけでもない。ただ、事実を知りたいだけだ。
それができなければ、私はあの高知旅行から、ずっと――一歩も前に進めないままになってしまうから。
橋に差し掛かる手前で、自転車を止めた。鉄の匂いが微かにする。風が少し強く、川面をなぞるように吹き抜けていく。街の灯が水面に反射して、揺れていた。
この場所で、大気さんが事故に遭ったのは、約十一年前のことだった。
――彼はもう、この世にいない。
そう、誰もが言う。記録も、証言も、何もかもそう語っている。
でも、光さんがくれた一枚のメモは、私のなかの「確信」を揺らした。
『この世とあの世の間で彷徨っている』
もしそれが本当だとしたら――。
その後、色々と調べてみた。すると、そういう未練のある者は、「記憶の強く残る場所に引き寄せられることがある」とのこと。
つまり、大気さんが今もこの橋の近くにいる可能性は、ゼロではない。
実際、他の“ゆかりの場所”は、ことごとく空振りだった。古瀬の球場も、校舎も、清里も……。でも、この橋だけは、まだ確認できていなかった。
帰宅ラッシュも過ぎ、新荒川橋には、もう車もまばらにしか走っていない。
日中に来ても、特に何も手がかりはなかった。
けれど、少し遅い時間に来れば、何か分かるかもしれない──そんな淡い期待を抱いていた。
元々、今日は家族に「友達の家に泊まる」と伝えてある。
しかも明日は二十三日で祝日。だから、朝帰りしても大丈夫だろう。
こんな計算をする自分が、高校生として果たして健全なのかはわからない。もし父がこれを知ったら、きっとがっかりするだろうな。
私は橋の上から周囲を見回した。特に変わった様子はなかった。
「まあ、そんなものか」
橋の西側を見やると、そこには大気さんが最後に見たはずの夕暮れはなく、どす黒い闇が広がっている。
ただ、川の表面だけは暗闇の中でうっすらと輝き、星の反射がゆらゆら揺れていた。
そのとき、ふとあることを思い出した。
「そういえば……大気さんって確か川の下に落ちたはず」
事故当時のニュースが蘇る。
暴走車が橋の歩道に乗り上げ、そこにいた大気さんは、近くにいた男子中学生を庇って事故に巻き込まれた。
そのまま車も大気さんも橋から落ち、最後に水面に落下した──そんな悲しい事故だった。
そういえば、橋の下はまだちゃんと見たことがなかった。
好奇心と覚悟を胸に、橋の下に降りられる場所を探す。やっと坂を見つけ、冷たい空気の中をゆっくりと下りた。
橋の下は、想像以上に冷たく、静かで、不思議な空間だった。
まるでここだけ別世界のように感じる。
街灯の光も届かず、私のスマホの懐中電灯だけが頼りだ。
光の先を照らしてみても、特に異変は見当たらない。
「……あとは、ただ待つしかないのかもしれない」
私は笑った。
高校二年生の冬、たった一人でゴーストハント。
自分でも、その言葉の非現実感に可笑しくなってしまう。
けれど、どこかでこの無謀な行動にすがろうとしている自分がいた。
寒さに備え、今日はホッカイロも防寒具も万全に用意してきた。
とにかく、大気さんに会えるまで、ここで耐えようと思った。
橋の下の冷気は厳しいけれど、なぜか心は少し落ち着いていた。
ここは私だけの世界。
ふと見上げると、真っ暗な夜空に満天の星が輝いている。
星の煌めきを見ていると、人間の悩みなんて本当にちっぽけなものに思えてくる。
私は星座のことは詳しくないけれど、一つだけ、名前を知っている星座を見つけた。
「オリオン座……」
よく姉が言っていた。冬の朝、姉は一番に朝練に行くため、家を出るのはだいたい五時半頃になる。その時間帯はまだ真っ暗で、朝空というよりは早朝の夜の空だ。その暗闇に輝くオリオン座が、とても綺麗で印象的だったと言う。
姉はそれを懐かしむように話していたが、正直、私はそんな生活はしたくないと思った。
さすが大気さんと同じく、台風の日にだって部活に来る、いわゆる“部活バカ”だと感じてしまう。
何となく暇つぶしも兼ねて、スマホでオリオン座について調べてみた。
充電器も持ってきたし、せめて時間をつぶせれば何でもよかった。
すると、オリオン座にまつわる二つの神話があると書かれていた。
――オリオン座の神話には、実は二つの逸話があります。
一つは有名なもので、オリオンが自分の狩猟の腕を誇りすぎたため、怒った神がサソリを送り込み殺した説。
そしてもう一つは、月と狩りの女神アルテミスに殺された説です。
二人は愛し合っていましたが、それを知ったアルテミスの兄、アポロンは二人の仲を認めず、引き離そうとしました。
彼は海から出ているオリオンの頭を黄金の岩と偽り、アルテミスに弓を射らせます。
結果、何も知らないアルテミスの放った矢により、オリオンは死んでしまうのです――。
その話を読んだ瞬間、ぞくりと寒気が走った。
先ほど感じた冷えとは違う、もっと凍りつくような寒さだった。
なんだか大気さんと姉の話に近い気がして、思わず背筋が伸びる。
いや、わかっている。そんな偶然はないし、これは自分に創作のヒントを与えるための思考の遊びなのだと。
だが、それでも思考を優先せざるを得なかった。
姉は大気さんの事故が起きた日、デートに誘われていた。
正確には、誘ったのは大気さんで、姉は自分の行きたがっていたカフェの話を匂わせて、あえて誘ってもらえるよう仕向けていたのだ。
まあ、それ自体は深刻に考えすぎかもしれない。
しかし、結果としてそのデートがきっかけで、大気さんが事故死してしまったのは事実だった。
当日はグラウンド整備のため急遽部活が休みとなり、そもそも事故は男子中学生を庇ったことが原因だ。
もちろん、一番悪いのは暴走した車の運転手だろう。
それでも姉は責任を感じていた。
初めて心から愛した人であり、告白の返事を待ってもらっていた相手だったから。
その返事をあの日のデートで伝えようとしていたという思いが、姉をより深く苦しめていた。
けれど、アルテミスのように、意図せず、そして自分の責任ではないのに愛する人を失った絶望は、本当に悲しいものだったのだろう。
だからこそ姉は部屋に閉じこもり、日々謝罪の言葉を自分にかけ続けたのだ。
今改めて姉に同情しながらも、信二さんのような大切な人に恵まれていることを知り、姉は幸せなのだろうと感じていた。