二〇二七年十一月八日。
生徒会室のドアを開けた瞬間、渚は私の顔を見て、すべてを察したようだった。
何も聞かず、ただ軽く目を伏せるようにして視線をそらした。
――ああ、私、今どんな顔してるんだろう。
自分では分からないけれど、たぶん、相当ひどい顔なんだと思う。
私はただ黙って、お土産の袋を鞄から取り出した。
あれこれ言葉を探すより、その方が気が紛れる気がして、各部隊の机の上にぽんぽんと配っていく。
そこで、ようやく渚が声をかけてきた。
「光……さんは、お元気そうだった?」
私は手を止め、うなずいた。
「うん」
「何してた?」
「土佐和紙で、いいもの作るんだって。夢、語ってくれたよ」
「……そっか。元気そうで何より、だね」
「まあね……」
口ではそう言ったけれど、あの車内の、どうしようもない空気がまた胸によみがえる。
微妙な沈黙。かすかにずれる気持ち。手応えのなかった問い。
「――うん。あ、そういえば夕食のとき、渚の話してたよ?」
「え?」
思わず素っ頓狂な声を出す渚に、ちょっと笑ってしまう。普段の彼女からは考えられない反応だった。
「え? 気になるの?」
「……ん、まあ……そりゃ、人からどう思われてるかっていうのは……」
「……」
「なに?」
「前からちょっと思ってたんだけど……渚って、光さんと――」
言い終える前に、生徒会室のドアがガチャリと勢いよく開いた。
長谷川君たち、キャスト組がどやどやと入ってくる。
空気が一気に切り替わり、私と渚の間に残っていた“会話の続きを交わすチャンス”は、音もなくすり抜けていった。
「渚! 撮影場所決まったぞ!」
「え? あのシーン」
「そうそう、お、春もお帰りじゃん。高知楽しかった?」
「ま、まあね」
「あ、芋けんぴじゃん、ラッキー」
そのまま長谷川君は一つかみすると断りもなく食べ始めた、まあ別に、もともとそのために買ってきたものではあるが。
「で、場所ってどこ?」
渚が尋ねると、芋けんぴが詰まったのか、長谷川君は言葉にならないまま口を押さえていた。
代わりに、そばにいた涼香が説明を引き継ぐ。
「一年生の吹部の子でね、部屋貸してもいいって子がいてね」
「お! めちゃくちゃラッキー。近い?」
「うん。第二中学の近くだってさ」
その言葉に、胸の奥がわずかにざわついた。
――あそこか。
千紗姉が、自室で泣き崩れる、あのシーン。
頭の中に、ぼやけたフィルムのように浮かんでくる。
あの部屋の空気。
あの涙の音。
あまりにも酷だったあの瞬間を、私たちはもう一度なぞろうとしている。
その声に反応するように、撮影部隊と編集部隊がそそくさと準備を始めた。
誰かがコードをまとめ、誰かが衣装ケースを抱え、談笑しながらも、次のシーンをどう撮ればより効果的かを巡って、活発に意見を交わしている。
現場の空気は悪くなかった。むしろ、日を追うごとに良くなっているように思えた。
以前は、撮影は「一部の人のもの」だった。けれど、今では全校生徒たちが、ちょっとした脇役や背景として参加することも増えた。
最初は、誰もが遠巻きだった。
「恥ずかしい」「部活があるし」と口々に言っていた。
だけど、その空気を変えたのは、やっぱり――あのクラウドファンディングだった。
一応、生徒会長・渚の主導で始まったプロジェクト。
「映画で世界を目指す」というその言葉に、最初はピンと来なかったはずの生徒たちも、画面越しの支援者のコメントや、集まる金額の桁を見て、次第に本気になっていった。
それに、クラウドファンディングの成功はwebメディアだけでなく、新聞社も動かした。
地元新聞の文芸欄に連載記事が掲載されはじめたのだ。記者は田口さんという三十代前半の女性で、どこか信頼できる眼差しをしている人だった。渚とは以前からの知り合いらしく――いや、どうやら渚の“お師匠さん”と知り合いらしい。てか、その師匠とは、誰なんだろうか。
ともかく、田口さんの筆は温かく、正確だった。
それが生徒たちにも届いたのか、校内の空気は目に見えて変わった。
“映画制作”は一部の有志の活動ではなく、学校全体の「歴史的プロジェクト」として認識され始めていた。
――けれど、それでも。
賑やかな声。動き出す足音。交わされる希望。
それらが私の周りを通り過ぎていく中で、どうしても心は浮き上がらなかった。
私は――渚に、嘘をついた。
おそらく、人生で初めて。
意図的に。
そして渚は、あの様子から察するに、その嘘を見抜けなかった。
それがかえって、胸に鈍い罪悪感を残した。
自分が人を騙せる人間だということに。
そして、渚が私を信じてくれているということに。
高知で光さんと別れた翌日。
私はバスに揺られ、一人、高知龍馬空港へと向かっていた。
街を走り抜けていく車窓の景色は、来たときと何ひとつ変わらないはずなのに、どうしてこんなにも無表情で過ぎていくのだろう。
同じ風景が、まるで誰かの記憶をなぞるように、ただ淡々と流れていく。
昨晩、光さんと夕食を共にし、別れた後、ホテルに戻った私は眠れないまま朝を迎えた。
次の日の午前中、一人で観光に出た。
といっても目的もなく、なんとなく坂本龍馬の生家跡などを歩いてみただけだった。
歴史が好きなわけではない。
けれど渚の影響で、龍馬について多少の知識はあった。
ただ、それでもやはり、歴史を変えた革命家と言われても、「へえ、そうなんだ」と思うだけの自分がいた。
そういうところが、自分は普通なんだなと思う。
日曜市で少し早めの昼ごはんをとり、午後の便に乗るため空港へ向かう。
保安検査場のある二階へ向かおうとしたそのときだった。
「春ちゃん!」
聞き慣れた声に振り向くと、そこに光さんがいた。
「ど、どうしたんですか?」
彼は少し息を切らしながらも、どこか照れくさそうに笑い、ポケットから小さな紙を取り出した。
「これ……」
「うん。春ちゃんが、知りたがってたやつ」
それは、ずっと探していた手がかりだった。
でも、それ以上に、彼がそのメモを手渡してくれたこと――その意味が胸に重くのしかかった。
「昨日の夕食、春ちゃん……ずっと上の空だったでしょ?」
光さんは、ぽつりと呟くように言った。
そして、ゆっくりと視線を私に向けた。
「一晩考えたんだ。どうするのがいいのか。でも、正直、答えは出なかった。……けどね、このページの内容は、大気君とキャプテン――三浦先輩と、内緒にしようって約束したものなんだ」
光さんの言葉は、どこか頼りなく、でも真剣だった。
言い訳に聞こえなくもなかったけれど、その奥にある迷いと決意の両方が、伝わってきた。
「でも、それってつまり――俺が“他の誰か”に渡すっていう約束はしてない、ってことにもなるんだよね。屁理屈だけどさ」
苦笑いしながら、けれど、最後には真っ直ぐな瞳でこちらを見つめてきた。
「僕は、大気君と一番長く過ごした。彼にも励まされたし、逆に彼の苦しみも知っている。もし彼が僕の立場だったら、たぶん、同じことをすると思う。……それに」
そこで少し言葉を切ってから、まっすぐに言った。
「春ちゃんなら、きっと、上手くしてくれる気がしたんだ」
そう言って、光さんはメモを私の手に押し付けるように渡し、「ほら、時間だよ」とだけ言って、そこで別れた。
私はドキドキしていた。こんなことがあるのかと。そして何より、「上手くしてくれる気がする」という光さんの言葉の意味が妙に引っかかった。
「上手くするって、何を…?」
機内の指定席に着くと、周りの客は外の風景や客席のタブレットのコンテンツを楽しみ始めていた。旅行の思い出だろうか。満足した表情で談笑している人もいる。
しかしそんなことより、私はまるで初めてのラブレターをもらったかのように、恐る恐るそのメモを開いた。
全て手書きで書かれている。
初めに光さんの文字でこうあった。
『断片的にしか覚えていない。けど、これで合っているはず。そして、ごめんなさい』
私は機内アナウンスなど気にせず、その続き、大気さんの真実を読み始めた。
『二〇一六年十二月十五日。
俺、輿水大気は病院のベッドの上で、意識が徐々に遠のいていった。
元々、新荒川橋で車に轢かれ、その勢いで橋から落ちた。おそらくそのまま川に落ちたはずだ。普通なら大怪我どころか命の危険もある。しかも、あの川は普段水深が浅い。もっとひどいことになってもおかしくなかった。だが、偶然にもその前の週の大雨で水位が上がっていたおかげで、致命傷を免れたのかもしれない。
後から知ったが、事故を目撃した人が多く、すぐに周囲の人たちが救助してくれた。速やかに甲府中央病院へ搬送され、そこで意識を失った。
悔いがある。特に千紗先輩に最後に会えなかったことが悔やまれる。
だが、信二はずっとベッドの近くにいてくれた。それだけは少し嬉しかったが、やっぱり千紗先輩に会いたかった。返事をもらいたかった。それだけが本当に望んでいたことだった。
その後、目を覚ますと、見知らぬ不思議な空間にいた。
周囲は濃い霧、いや、靄に包まれていて何も見えない。だが真っ暗というわけではない。煙が立ちこめる温泉地のような温かさ、心地よさがあった。
地面には薄く水が張っていて、それも嫌な感じはしなかった。むしろ、水の流れのように心は澄み渡っていた。
すると、目の前の霧が徐々に晴れ、大きな巨木が現れた。樹齢何千年かというような迫力のある木だ。俺はただ圧倒されて近づいた。
触れた瞬間、驚いた。
その木は冷たかった。
感情がない、そんな言葉が頭をよぎった。植物に感情はないのは分かっている。だけど、この木は生き物としての温もりが感じられなかった。
冷気は俺の体温を奪い、恐怖が瞬間的に走った。今まで感じていた温かさが一気に消え失せた。
そして直感で感じた。
「これはダメな奴だ」と。
事故のときも、あの殺気立った暴走車には驚いた。だが、今感じているのは、それとは比べものにならない。言葉では表せない、無気力とも言うべき何かだ。
そのせいか、体がまるで動かず、目の前に広がる言葉にできない恐怖に飲まれた。
その瞬間、頭の中に声が響いた。人の声ではなかった。悪い気配はないが、どこか恐怖を感じさせる声だ。言葉にしようとしても、まるで知らない外国語のようで、いや、それ以上に何とも言えない音の断片だった。
ふと隣を見ると、一艘の木造船が近づいてきた。先端には提灯が灯り、そこには見たことのない墨文字が書かれていた。
手は動かなかったが、俺はその船の中を覗き込んだ。すると、白装束の人が横たわっていた。いや、今ならわかる。工藤光が、眠っているのではなく、死んでいたのだ。
その瞬間、俺の頭の中に、なぜかはっきりと二つの約束が浮かんだ。自分でもどうしてそう理解したのかはわからない。
一つ目は、この体に入らなきゃいけないってことだ。俺は不遇な死を遂げた誰かの体を借りて、彼を元の状態に戻さなきゃいけない。で、その見返りに、俺自身がまた現世に戻るチャンスをもらえるってわけだ。
二つ目は、自分から本当の正体を明かしてはいけないってこと。もし俺が望めば、かつて自分が生きていた場所の近くに住まわせてもらえるし、会いたかった人にも会わせてもらえる。望むなら野球の力だって与えてもらえる。だけど、絶対に“自分”として生きちゃいけない。これがすごく大事なことらしい。
そして、もしこの約束のどちらかを破ったらどうなるか。
ペナルティとして、俺の存在があの世でもこの世でも徐々に消されていくんだ。まるで記憶から消えていくみたいに。そうなると、俺はどこにも居場所がなくて、彷徨い続けることになる。知り合いが俺のことを忘れていくのを、ただ見ているしかなくなる。
正直、この大事なルールを忘れていたことに驚いた。でも、同時に「ラッキー」だとも思った。こんなチャンス、なかなかないだろう。昇仙峡の「ふうふぎじんじゃ」に来て思い出せて、本当に良かった。
確かに、自分の正体を明かせないのは寂しい。でも、生き返ることが何より嬉しいんだ。もしかしたら千紗先輩にも会えるかもしれないし、彼女たちは俺が正体を言わなくてもきっと分かってくれるはずだ。
ありがとう、神様。俺は絶対にもう一度、前向きに生きてみせる。大切な人たちを二度と悲しませたりしない。絶対に』
「お客様、ご気分が悪いのですか?」
突然の声に驚き、私ははっと我に返った。スタッフの青いスカーフを見て、ようやく自分が何をしていたのか思い出す。重力の感覚から、飛行機は既に離陸していたのだ。
「あ、その、だ、大丈夫です」
慌ててそう答えるが、声が震えていることに気づく。
「……そうですか。飲み物でも飲まれますか?」
スタッフの女性は優しく微笑みながら聞いてくる。
「あ……リンゴジュースを……お願いします」
咄嗟に答えると、彼女はにっこりと頷き、手早く飲み物を準備しに席を離れた。
彼女の背中が見えなくなると、私はまたメモを開く。メモを持つ手が震えて止まらない。
「え?」
思わず声が漏れた。
「待って……」
メモの内容を何度も読み返す。
「え? 本当にこれ……?」
頭の中がぐるぐると混乱し、現実を受け入れられない。
「ちょっと、いや、まじで、これ本当に?」
いや、間違っていてほしい。そう願う気持ちと裏腹に、確信がじわじわと心を蝕んでいく。
「でも……あれ? これがインタビューや日記の話と一致するとしたら……まさか……」
震える指でメモを握りしめながら、事実の重みに押しつぶされそうになる。
その時、「お客様、お待たせしました」と声がして、スタッフの女性がリンゴジュースを持ってきてくれた。
その蓋には、アンパンマンのようなかわいらしいイラストが描かれている。
「あ……ありがとう」
言葉を絞り出しながら、私はコップを受け取る。
そのまま手に持ったまま硬直してしまうと、彼女は心配そうに私を見つめていた。
「大丈夫ですよ」と、何とか安心させたい気持ちで一気にリンゴジュースを飲み干す。
まるでエナジードリンクを飲み干すかのように、いや、酒を煽るかのように。
けれど、かえってその挙動不審な態度が、スタッフのお姉さんを余計に心配させてしまったかもしれない。
ちらりと横目で見ると、彼女は少し安心したのか、静かに距離を取って席を離れていった。
その様子に、わずかながらもほっとした。
しかし、今向き合わなければならないのはお姉さんのことではない。
私は再びメモに視線を戻し、手にしたペンで書き留めていた頃の記憶が胸の奥から蘇ってきた。
確かに、考えてみれば不思議だった。
あの小説を書くために何度もインタビューを読み返し、輿水大気さんの日記を精査した。その中でどうしても解けなかった疑問があった。
なぜ、工藤光という体に生まれ変わった輿水大気さんは、自らの正体を姉に伝えなかったのか。
もし早く気づいてもらえれば――姉の問題はひとまず置いておいても――野球部の仲間たちにもっと早く馴染めただろう。
五月に転校してきたのだから、できるだけ早くチームに溶け込んだ方が、皆にとって良いはずだった。特に、甲子園予選が迫っていたし。
それなのに、姉も親友の三浦信二さんにも、そしてチームメイトたちに対しても、彼は基本的に「気づいてほしい」というスタンスでしか接していなかった。
直接は明かさず、匂わせるだけの曖昧な態度。
それがおそらく、輿水大気さんの性格――シャイで、野球以外のことには気後れしてしまう彼の性分なのだろうと考えていた。
だが、それだけではない。
そんな単純な話ではなかった。
伝えたかった。だけど伝えられなかったのだ。
なぜなら、自分の存在そのものが――吹っ飛んでしまうかもしれないという恐怖があったから。
死者にとって、すべてを失うことほど耐え難いものはない。
それが何よりも怖かったのだ。
昔、ディズニーの『リメンバーミー』という映画を見たことがある。
確か、生きている人に忘れられた死者は、あの世からも存在が消えてしまう――そんな話だった。
それが本当に正しいかどうかは置いておいて、輿水大気さんは、きっと似たような状況に置かれていたのだろう。
だからこそ、深い恐怖を抱いていたに違いない。
しかし――大気さんは、約束を破ってしまった。
我慢できずに、自ら正体を明かしてしまったのだ。
あのペナルティのことを思えば――。
おそらく、今も大気さんの存在は薄れつつあるのではないか。
でも、みんなまだ覚えているような気もする。
いや、そう思いたいだけかもしれないけど……。
「大気君が生きていたことを、絶対に忘れたくない」
執筆から逃げようとした私に、姉も言った。信二さんも同じことを言ってくれた。
姉は事情を知らないけれど、信二さんはすべてを理解している。
つまり、少しでも記憶が薄れてしまうことを防ぐために、わざと私にあの小説を書かせたのかもしれない。
そうか……それであんなに協力的だったんだ。
その下心に少しだけ残念な気持ちを抱きながら、再びメモを見返す。
でも違う。もっと重要なことが書かれていた。
文の最後に――
大気さんの知り合いたちが、大気さんの存在を忘れていくのを、あの世でもこの世でもない場所で見せ続ける。
それはつまり――。
「ま、まさか……大気さんは……まだ、十年も……成仏できずに、ずっと……彷徨っている……の……?」
叫びたいのに、声にならない。
その時、誰かの声で我に返った。
「お客様!」
嗚咽が込み上げて、どうしようもなかった。
私はただ、涙をこらえながら、震える手でメモを握りしめていた。