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二〇二七年十一月六日

 二〇二七年十一月六日。

 高知県いの町。

「高知」と聞いてまず思い浮かぶのは、やはり、かつおのたたきや坂本龍馬だろう。

 あの藁焼きの香ばしい風味と、あの目。時代を切り拓いた男のまなざしが、今もこの町のどこかに漂っている気がする。

 それに加えて武市半平太や中岡慎太郎など、幕末の志士たちも挙げられる。……もっとも、そうした名前が自然に出てくるのは、渚の影響が大きい。

 彼女は時々、歴史上の人物と自分とを重ねて考えるような癖がある。

 たとえば、龍馬の「先を見通す力」や、半平太の「まっすぐさ」に、自分の一部を投影しているような――。

「考え事があると、私、よく坂本龍馬や武市半平太と心の中で相談するんだ」

 そんなことを笑いながら言って、教室の窓の外を見つめていた彼女の横顔を、今でも覚えている。冗談のようでいて、どこか本気のようでもあった。

 まあ、確かに彼女には人を惹きつけるカリスマ性があるし、知識もある。意識の高さから、そういう偉人と心の中で相談するのもありかもしれない。

 とはいえ、普通の女子高校生として考えると、なかなかに突飛な発想であるのも事実だ。下手すると中二病。いや、高二病。確実に痛い奴。

 ――と、話を戻そう。

 実はこの高知県という土地は、古くから和紙の産地として知られている。なかでもここ「いの町」は、日本三大和紙の一つに数えられる土佐和紙の本場だ。

「紙」と聞いて、何か味気ないものを想像するかもしれない。けれど、ここで目にした和紙には、どこか呼吸しているような、命が宿っているような感じがあった。

 この地には、雄大な水源がある。

 仁淀川――。青く澄みきったその流れは、ただ“綺麗”という言葉では到底言い尽くせない。どこかしら神秘的で、まるで、時間の底に積もった記憶まで洗い流してくれそうな気さえした。

 都や文化の中心地と一定の距離を保ってきたからこそ、歴史の大波に流されすぎることなく、この地ならではの文化――和紙の技が、しなやかに生き残ってきたのかもしれない。そこには、幕末の志士たちにも通じるような、どこか野武士的な、ハングリーさがある。与えられたものに甘えず、自分の手で掴み取るという精神。けれど、同時に、それを支えてきた職人たちの手には、驚くほど繊細で、純粋な美しさが宿っている。

 光を透かす一枚の紙。その裏には、何代にもわたる手のぬくもりが重なっている。そう思うと、ただの「紙」とは思えなくなってくる。

 ……けれど、こういう感覚も、この地に実際に来てみて初めて抱けたものだった。

 私は今、人生で初めての「一人旅」をしていた。

 きっかけは、渚と「生き返り」の謎について話したあの日のことだった。

 その晩、私は迷うことなく工藤光さんにチャットを送った。簡潔に要点だけをまとめた文面。期待はしていなかった。

 ……というのも、光さんは昔から取材や対面でのインタビューを嫌がるし、そもそも返事すら遅い。未読無視なんて、何度も経験している。最初の頃は落ち込んだものだが、今ではそれにも慣れて、むしろ“通常運転”のように受け取っていた。

 今回も、チャット送信から十二時間が経過しようとしていた。

 既読にならない画面を前に、「まあ、やっぱりね」と、どこか事務的な気持ちで未読無視を受け入れ、他の作業に切り替えようとしていた。

 しかし――今回は違った。

 送信後、十四時間を過ぎたころだった。

 スマートフォンが、静かに震えた。

 その通知に、私は一瞬、目を疑った。

 光さんからの返信だった。

 思わず指が震える。開いてみると、そこには、思いがけない文面があった。

「直接会おう」

 えっ、と声が出た。

 胸の奥が、どくんと跳ねる。

 スマホの画面には、短いが衝撃的なメッセージが表示されていた。

 思っていたよりも、ずっと前向きな反応。

 というか、まさか「会う」という言葉が返ってくるなんて、予想すらしていなかった。

 思わず、椅子から半分浮き上がるようにして、ガッツポーズをしてしまう。

 ……誰にも見られていなくてよかった。

『ありがとうございます! 嬉しいです』

 そう返信すると、すぐに日時の調整のやりとりに入る。

 光さんからは、間をおかずに、現在地の住所が送られてきた。

 私は、スマホの画面をのぞき込みながら、ほぼ無意識にこうつぶやいていた。

「きっと都内……あるいは、関西あたりかな」

 かつて大学で会って以来、直接連絡をとったのはこれが久しぶりだったし、きっと生活圏もそこまで大きくは変わっていないはず――

 そう高をくくっていた私の目に飛び込んできたのは、思いもよらぬ文字列だった。

「……え?」

 固まった。思考が一瞬止まる。

 冗談かと思って、もう一度見直す。

 が、どこからどう見ても、それは冗談ではなかった。

 そうだよね、と思い直す。

 よくよく考えてみれば、信二さんもそうだし、姉もそうだし、何より光さんも、もう新しい道を歩き始めていたんだ。

 光さんは、大学を卒業したあと、和紙職人を目指すことを決めたらしい。

 本人の話によれば、大学時代、たまたま明治神宮近くの伝統工芸品のアンテナショップで見かけた和紙のバッグに、深く感銘を受けたのがきっかけだったという。

「それ、ただの紙じゃなかったんだよね。なんか、呼吸してるみたいで」

 それから一気に和紙の世界にはまり込んで、伝統技術を支援する企業の紹介を受けて、高知県いの町で本格的に修行をしているのだという。

 将来的には地元・山梨に戻って、自分のブランドを立ち上げたいらしい。

 そのためにも、各地の和紙技術を学びたい。いの町はその第一歩だ、と言っていたそうだ。

 ……うん。素敵。

 そういう生き方、嫌いじゃない。むしろ、ちょっと羨ましい。

 けど。

 そうじゃない。

 問題はそこじゃない。

 どうやって高知に行くのか? という話だ。

 即座にスマホを開き、移動手段を調べる。

 羽田発の飛行機は、当然ながら高い。しかも直行便は少ないし、時間帯も限られている。

 次に目をつけたのは、高速バス。新宿駅から夜行便が出ているらしいけれど、所要時間は……うわ、えっぐ。

「……無理でしょ」

 独りごちて、ため息がこぼれる。

 せっかくのチャンスなのに。こんなに、心が踊ったのに。

 一旦落ち着いて考えよう。

 そう思い直して、少し考えた末、私はやむなく光さんにチャットを送った。

 今の状況を率直に話し、もしよければオンラインか電話での対話に変更してもらえないかと提案する。

 けれど――

 既読が、つかない。

 今回はしっかり「未読無視」ゾーンに突入した。

 それが故意なのか、ただ忙しいだけなのか、今の私には分からない。

 でも――。

 既読がつかない画面を、ただじっと見つめながら、私は思う。

 ああ、やっぱり、行くしかないのかもしれない。

「……で、最終的に渚に相談すると、即チャリーン。五万円を渡された。え? なんで?」

 ぽかんと口を開けた私の目の前で、渚は当たり前のように財布を閉じた。

「なにって、旅費よ。行ってこいって話」

「いや、待って待って、展開が早い。私まだ“相談”の途中だったんだけど!?」

「うん、でも行くんでしょ?」

 それはまあ、行きたい気持ちはある。けど、簡単に五万円って、あんた一体どこの財閥令嬢よ。

「あとさ、なんでそんなに即決だったの? 普通、もうちょっと質問とかあるでしょ」

「いや、だって、行くべきだと思ってたし」

 即答である。

「ていうか、そもそもさ」渚は腕を組み、テーブル越しに身を乗り出した。

「今、うちらのプロジェクト、いい感じで回ってきてるじゃん?」

 その通りだった。

 例のクラウドファンディングは、予想を大きく上回る額が集まっていた。目標額の何倍も達成し、コメント欄には「応援してます!」「完成が楽しみ!」なんて温かい言葉が並び、正直ちょっと泣いた。

 それに何より――宮崎君の覚醒である。

 あの、最初はカチンコの打ち方すらおぼつかなかった宮崎君が、今ではカメラを構えた瞬間に人格が変わる。

「次、寄りで入る。バックに逆光入れて、ラスト五秒でパンして抜くから」

 何それどこの映画監督?って感じの口ぶりで、構図から演出意図まで全部が脳内で完結。さらに編集も全て仕切るという、化け物と化していた。

 おかげで、ほぼ渚と宮崎君の二人で撮影が回るようになり、私は念願の“脚本専念モード”に突入していた。

 とはいえ、まさかその結果として私に“高知行ってこい”とは。

 びっくりを通り越して、ちょっと笑えてくる。

「いや……嬉しいけどさ、本当に私一人で大丈夫なの?」

「うん。むしろ一人で行ってきて」

「ひどいな!?」

「だって、今こっちは順調だし、あんた、働きすぎてたでしょ? 宮崎君がどれだけ覚醒しても、事務作業とか全部あんたがやってたじゃん。だから、有給もちゃんと取って休め」

「いや……まあ、それはそうなんだけど……」

 ふと、他のメンバーの顔が浮かぶ。

 みんな、私が高知に行くと聞いて、てっきり何か重要な“業務”があると思ったらしく、「ついに直接取材に動き出すのね……!」なんて神妙な顔で言ってくれた。

 ちがう、違うんだけど、なんか言い出せなくてそのまま頷いてしまった。

 でも、誰も反対しなかった。

 少し拍子抜けするくらい、みんなあっさり送り出してくれた。

 一時期、私がアホみたいに働いてたのを見てたからかもしれない。

 渚に至っては、「私は管理職だから」という謎の理屈で休み不要を宣言し、いまだにずっと働きづめである。

 じゃあ、せめて渚も誘ってみようかと思い、改めて「一緒に行かない?」と声をかけてみた。

「現場責任者が現場を離れたらあかん」

 ばっさり。

 まるでドラマの台詞みたいな返しが返ってきて、私は言葉を失った。

 ということで、結局――

 私は一人で高知へ旅立つことになった。

 飛行機が高知龍馬空港に到着すると、飛行機の出口から出た瞬間、思ったよりも冷たい空気が頬をかすめた。

(あれ……高知って、もっと南国ぽいと思ってたけど?)

 そう呟きながら、私は慌てて上着のファスナーを上まで引き上げる。天気は快晴。でも、その青空に騙された。

 到着ロビーに着いて外に出ると、さらにひんやりとした空気が体を包んだ。南国のようなイメージを抱いていたぶん、その冷たさがなおさら意外に感じられた。

 修学旅行用に買ったキャリーケースをガラガラと引きずりながら、バス停を探し、スマホ片手に乗り継ぎを確認する。目的地は「いの町」。光さんが今、修行している和紙の町だ。

(どうせ高知なんだし、海が見えたりするのかな……)

 そんな淡い期待を胸にバスへ乗り込んだ。

 だが、バスが走り出すと、車窓に広がるのは想像と違った。見えるのは、海ではなく、どこまでも続く山道。しかも、その山々の稜線がなんとなく柔らかくて、山梨のそれよりも低く感じる。けれど、そのぶん空が広かった。視界いっぱいに広がる高知の空には、どこか悠然とした時間が流れていた。

 山と空に見とれていた、そのときだった。

「あ……」

 気がつくと、バスの左手。そこに突然現れたのは、まるで日本画のような川の景色だった。

 川というより、もはや一幅の絵だ。透き通るような青さに、川面を沿うように赤や黄色に染まった木々。まるで誰かが計算して配置したかのような、絶妙な色のバランス。

 心が、すぅ、と軽くなる。

 最近、こんなふうに景色を“美しい”と思うことがあっただろうか。

 それどころか、じっくり空を見上げることすらしていなかった気がする。

 やっぱり、来てよかったかもしれない。

 そう思った瞬間、胸の奥にあった小さな不安が、すこしだけ和らいだ。

 乗客がどんどん少なくなっていき、バスは川沿いの小さな停留所に停まった。

「……着いた」

 バスを降りて歩き出すと、山肌に沿うようにして建っている小さな工場が目に入る。

 外観は、トタン屋根に木材が組み合わされた、なんとも素朴な建物。けれど、入り口の風情がどこか懐かしくて、不思議とわくわくする。まるで昭和の特撮ヒーローが基地にしてそうな――そう、仮面ライダーとかに出てきそうな雰囲気。

 看板には「鹿島製紙工房」の文字。そして、この場所こそが、工藤光さんが働いているという、和紙工房だった。

 ……でも、困った。

(あれ……既読ついてたのに、返事来てない)

 メッセージは確かに見られていた。でも、それっきり。

「いやいやいや……いくら年上でも、いくら大事な人でも、なんやねん……!」

 と、思わず小さく声に出してしまう。

 朝の始発に乗って、羽田まで出て、飛行機乗って、バスに揺られて……。

 ここまで来たんだ。もう引き返せない。

 意を決して、工房の中に足を踏み入れる。

 休憩中なのか、あたりはひっそりと静かだ。和紙の香りなのか、ほんのりと木の匂いがする。紙と水と木――それらが静かに共存しているような空気感に、思わず深呼吸をした。

「すみませ――」

 と、声をかけようとしたそのとき。

 ガタリ、と音がして、目の前に現れたのは、まるで怪人のような大男だった。

 いや、怪人ではない。人間だ。きっと四十代くらいの屈強な男性。鍛えられた腕に、無精髭。そして、黒Tシャツの胸には「黒潮くんLOVE」と共に、不思議な水色のキャラクターが書かれている。

「おや?」

「あ、あの、私……工藤光さんの、知り合いでして……今日伺うってお伝えしていたんですけど」

 緊張しつつ名乗ろうとすると、その熊さんが「はいはい」と笑った。

「あ~、春ちゃんやろ? 聞いちゅう聞いちゅう。光が“映画の人が来るけん、びっくりせんといてよ”って言いよったき」

 その高知なまりの柔らかさと、敵意のない雰囲気に、胸の緊張がすっとほどけていく。

 この人は、浜口さんというらしい。鹿島製紙工房の工場長だ。

「光さんは今日は別の工房に行っててね。井下手すき和紙工房って知っちゅう? いま、あの人、和紙を使った世界初のクレジットカードづくりに本気になっちょって。まあ、いつものことやけど」

 そう言って浜口さんは朗らかに笑った。

 光さんらしい。突然何かに本気になって、突っ走る。でも、だからこそ私はこの人の生き方に惹かれてきたのかもしれない。

「それやったら、光が戻るまで、工場の中、見ていかん? せっかくやき」

「え、でも、忙しくないですか?」

「大丈夫大丈夫。今日はちょうど午後からコウゾの皮むきやるし、見応えあるで」

 こうして私は、浜口さんの案内で工房の中へ入ることになった。

 工場の中は、思っていた以上に静かだった。機械の音も控えめで、どこか呼吸を合わせるような規則正しさがあった。すでに独特の香りが漂っている。少し木の香り、そして何か甘いような、でも自然な匂い。

「これ、何の匂いですか?」

「コウゾやね。楮っちゅう、和紙の原料。蒸したてのコウゾは、ほんのり甘い香りがするんよ。素人の人だと、さつまいもみたいってよう言われる」

 なるほど、それだ。なんか、懐かしい匂いだと思った。

「工場ってもっとガチャガチャしてるイメージでした」

「うちはね、機械も使うけど、半分は手作業。光が行っちゅう井下さんとこは、完全に手すきやけど、うちは“機械と人のハーフの和紙”やね」

「ハーフの和紙……」

「和紙いうても、全部が全部、手すきやない。用途によっちゃ、機械のほうが向いちょったり、コスト的にも続けやすいこともある。伝統を守るゆうても、守り方はひとつやないき」

 その言葉に、私はなぜかハッとした。

 映画も同じだ。全部フィルムで撮ることにこだわる人もいるけど、今はデジタルもあるし、様々な編集技術がある。どちらが「本物」か、という話じゃない。その表現にふさわしい方法を選ぶだけだ。

「ほれ、来た来た」

 午後になると、まるで秘密の合図でもあったかのように、ぞろぞろと人が現れた。作業場の扉が開くたびに、割烹着姿の女性たちが次々に入ってくる。平均年齢は……おそらく七十歳超え。にもかかわらず、みんなやたらと元気で、笑顔で、そして、異様に動きが速い。

「さあ、今日も剥くで~!」

「コウゾ、待ってなさいよ~!」

 どうやら、彼女たちの中でコウゾは“宿敵”というより“友達”扱いらしい。 

 見よう見まねで、私も隅っこで皮むきに挑戦させてもらった。最初は慎重に。でもすぐに悟る。

「……な、なんかこう……逃げるんですけど?」

「コウゾはな、気分屋やき」と隣のおばちゃんが言う。

「優しすぎても逃げるし、厳しすぎても心閉じるき」

「いや、それ完全に人間ですよね?」

 笑いが起きる。作業場が一気に明るくなる。

 私はというと、気分屋どころか、反抗期のコウゾに完敗。手はベタベタ、剥けた皮は中途半端で、しかもそのあと滑って飛んでいった。スローで見たら、たぶん自分の顔が一番面白い。

「職人さんって、すごいですね……」と、思わず漏らす。

 すると浜口さんがニヤッと笑って言った。

「あはは、あれは職人やないよ。近所のおばちゃんたち。みんなボランティアで来てくれよる」

「え? ボランティア?」

「うん。そりゃ職人さんもおるけど、こうして地域の人に支えられて成り立っちゅう。それがうちの和紙のスタイルやね」

 私はしばらく言葉が出なかった。

 たとえば映画を撮るとき、脚本家がいて、カメラマンがいて、監督がいて……それだけで作品ができると思ってた。でも、実際にはもっとたくさんの人がいるのかもしれない。いや、そうだ。支援してくれる人、見守ってくれる人、応援してくれる人。

「……なんか、わかる気がします」

 私の声が少し震えていた。

「ん?」

「私たちも今、映画を作ってるんです。クラウドファンディングで、たくさんの人が支えてくれて。なんか、それがこういう形に見えた気がして」

「そうかえ。ええなぁ。よう似ちゅうね、和紙と映画。人の手で、時間かけて、ようやく形になるもんやき」

 浜口さんはそう言って、大きな手でポンと私の肩を叩いた。

 夕方。作業を終えたスタッフたちと、工房に併設されたショールームで焼き芋を囲んでいると、ようやくその人が現れた。

「春ちゃん、ごめんね」

 その様子は以前とあまり変わっていない。相変わらずスラっとしたモデルのような長身に、端正な顔立ち。でもどこかとても落ち着いた様子をしていた。

「こちらこそです。ご無沙汰しております」

 工藤光さん。輿水大気さんが一時的に、この人の体に入っていた。

 その後、光さんは残りの事務作業を終え、一緒に外に出ると、外はすっかり真っ暗。夜の冷気が肌を刺す。十一月の冷たさは、南国・高知のイメージとは全く別物。そうか、もう今年も終わりが近いんだな。忙しさに追われて、そんな当たり前の感覚が抜けていたことに気づいた。

 浜口さん達に別れを告げ、光さんの車の助手席に乗り、工場を後にした。

 車内はひんやりとしていたが、やがて暖房が効き始め、フロントガラスの曇りが静かに晴れていく。朝からずっと気が張っていたせいか、体の芯がじんわりと緩みはじめ、まぶたが重たくなってくる。

 信号が赤に変わり、車が緩やかに止まった。ヘッドライトに照らされた標識が、ぼんやりと浮かび上がる。

 高知市。

 ああ、そうだった。私は高知市内のホテルを予約していて、そこまで光さんが車で送ってくれることになっていたんだった。光さん自身も高知市内に住んでいて、あの和紙工房までは毎日時間をかけて通っていると聞いていた。あの飄々とした性格からは想像しにくいけれど、きっと思った以上に真面目な人なのだ。

「そういえば、映画作りはどう?」

 光さんは、もともとシャイ。特に異性に対しては、露骨に嫌がる。

 最初の頃のインタビューなど、ATフィールドが全開過ぎて、まともに会話のキャッチボールすらできなかった。

 でも小説を書く際にインタビューを続けることで、大分心を開いてくれた。最後の頃なんて、インタビューに行くと、自分からお茶を出してくれるようになった。それも、嬉しそうに。

「順調だと思いますね、きっと。工藤光さん役の子も頑張ってしますよ」

「本当に? どんな子?」

「んー野球部のキャプテンで」

「へえ。僕とは全然違うね」

「そうですか?」

「どうせしっかり者でしょう?」

「あ~いや、というか、お調子者かもで……」

「あはは。まじか。そういう自分を見てみるのも面白いかもね」

 外を見ると、海沿いの道を走っていた。窓の外は真っ暗で、空と海の境界も分からない。まるで夜そのものの中を走っているようだった。

 車内には暖房のぬくもりが広がっていて、そのせいもあって、またじんわりと眠気が押し寄せてくる。

 けど――。

 ここで何の成果も得られなかったら、まずい。

 せっかく光さんに会えて、車でこうして二人きりになれたのに。

 聞きたいことは、ちゃんとある。……聞かなきゃいけない。そう思っているのに。

 でも――。

 ふいに、あの日の記憶がフラッシュバックする。カフェで信二さんと話した日のこと。

「ごめん、知らない」

 たったそれだけの言葉。でも、拒絶の気配ははっきりとあった。

 私を責めているわけじゃない。それは分かっていた。

 それでも、あの素っ気ない言い方には、ほんの少し傷ついた。

 ……今回も、同じようになったらどうしよう。

 その不安が、ずっと胸の奥に引っかかっていた。

「で、何か聞きたいことがあるんだよね?」

 唐突に、光さんが口を開いた。

 驚いて顔を向けると、信号待ちの車内で、彼は前を見たまま、やわらかく笑っている。

「すみません……そうです。そうなんですが……」

 言葉がつまる。なぜかうまく出てこない。

「ん? 何か言いにくい?」

「いや、まあ……あはは、んー……」

 自分でも笑ってごまかしているのがわかる。

「んー、あててあげようか?」

「え?」

「ずばり、好きな人の話とか?」

「は?」

「いいよ、片思いとか素敵じゃん。うん、いいね、そういうの」

「ちーがーいーまーす! そんな話じゃないです。そもそも、好きな人なんていませんし!」

「ほんとに? ……そうかな?」

「そうでーす」

 そう言いながらも、つい笑ってしまう。光さんはニヤニヤして、まるで年上の余裕を見せつけるようだった。

 そうか、この人も、ちょっと意地悪なところあるんだっけ。

 なんだか、さっきまで張っていた緊張が少しだけゆるむ。

 もういいや。変に気を遣っても仕方ない。素直に、聞こう。

「で、すみません。今日、実はちゃんと聞きたいことがあって来たんです」

「うん、どうぞ」

「……あの、大気さんの日記なんですけど。覚えてます?」

「日記? ああ、輿水大気君の。ノートだよね? 覚えてるよ。キャンバスノート」

「え、ノートのブランドまで覚えてるんですか?」

「いや、うちの母親、キャンバスノートしか買ってこないの。昔から」

「あ、なるほど……」

「何でだろうね。知らないけどさ。でも――その日記がどうかしたの?」

 運転席からの穏やかな声に、私はうなずいた。

「あれって今は、大気君のご両親が持ってるんじゃなかったっけ?」

「ええ、そうだったんですけど……今日、お借りしてきました」

 私はバッグからノートを取り出し、膝の上にそっと広げた。けれど、光さんは前方に視線を向けたまま、運転に集中していて、すぐにはそれを見ない。

 しばらくして、信号が赤に変わる。車が停止すると同時に、彼がちらりと視線を落とした。

「お〜、それそれ。懐かしいね」

 光さんの声は、どこか遠くを見ているようだった。

「ノートを書いてたときって……記憶、あったんですか?」

 私が尋ねると、彼は少し考えるように間をおいてから答えた。

「んー、あったよ。あったけど、何ていうのかな……本当に、夢の中にいるみたいな感覚で」

「夢、ですか?」

「うん。映画を見てるみたいだった。自分が主人公なんだけど、手出しできない映画。そんな感じ」

「映画……いや、すみません。他人に体に入られたことないので、想像が……」

「あはは。そりゃそうだ。僕も、あんな体験は最初で最後だと思うよ」

 光さんは笑いながらも、どこか懐かしむような声だった。

「酔っぱらって泥酔してるのとも違うし、寝てるのとも違う。体の自由は利かないのに、意識はずっとある。だから、大体のことは覚えてるつもり。……まあ、今いきなり言われてすぐに思い出せるかどうかは、別だけどね」

「本当ですか?」

 私は身を乗り出すように言った。空気が、ふっと軽くなるのを感じた。

「なら、ちょっと……ノートの内容で、聞きたいことがありまして」

 よし。大分空気は和らいできた。

 このままいける――そんな感覚に背中を押されて、私は一度、深く息を吸った。そして、恐る恐る切り出した。

「あの……その、あれってありませんでしたか?」

「ん? ごめん。何が?」

 私の言葉は、どこかでつかえてしまった。気づけばまた、自分の声が小さくなっていた。

“また”だ――と思った。

「そ、その……」

「うん、どうぞ」

 光さんは、私の言葉を急かすことなく待っていてくれる。私はもう一度、息を整え、言葉を選んだ。そして、今度こそはっきりと伝える。

「ノートに……消えたページって、ありませんでしたか?」

 その瞬間だった。

 車内の空気が、目に見えるように変わった。

 暖房のぬくもりすら、どこかへ消えてしまったような、あの静けさ。

 光さんは、すぐには何も言わなかった。

 ただ、目の前の信号だけが、赤から青へと変わっていた。

「あの……。ありませんでしたか?」

 私の問いかけに、車内の時間が止まったようだった。

 しばらくの間、沈黙が流れる。

 光さんはハンドルを握ったまま、遠くを見つめるような眼差しで、何かを――いや、自分の中の何かと――葛藤しているように見えた。

「……ごめんね。うーん……キャプテンは、何て言ってた?」

 その声は、先ほどまでの軽やかな調子とはまるで違っていた。

 低く、慎重で、重い。

「信二さんは……言えない、って」

 私の答えに、光さんは小さく笑った。けれど、その笑いには温度がなかった。

「あはは……うん、だよね。確かに、あれはね……なるほど、困ったなあ……」

 信号が点滅を始め、車はゆっくりと減速していく。完全に停止したところで、光さんは静かに口を開いた。

「人に言えないな、あれは」

「そう……ですか。でも」

「でも?」

「それでも、知りたいんです。何があったのかを」

「……なるほど」

 私は、もう一歩踏み込むしかないと思った。

 ここで引き下がれば、また何も掴めずに終わってしまう。高知まで来て、何も得られないなんて。

 信二さんの時のような後悔は、繰り返したくなかった。自然と、声に力が入る。

「正直、私自身……あの小説を書いたこと、後悔してるんです。姉や信二さんが応援してくれていたからこそ、書けたけど――それでも、やっぱり墓を荒らしたような気がしてならないんです」

 光さんは黙ったまま、私の言葉に耳を傾けていた。

「しかも……全部を解き明かせたわけじゃない。結局、事実が何だったのかも分からないまま、まとめてしまった。ただの自己満足なのかもしれません。それでも、せめて真実を知って、物語として……ちゃんと伝えたい」

 私は一呼吸おいて、続けた。

「映画として、世の中に出てしまうからこそ――真実の大気さんたちを、ちゃんと伝えたいんです。そして、何よりも」

 言葉が、喉の奥で少しだけつかえた。それでも、私はしっかりと口にした。

「もし姉が、知らない事実があったとしたら……きっと姉は、すごく悲しみます。それだけは、嫌なんです」

 沈黙の中、信号が赤に変わる。

 車のエンジン音が少しだけ高くなり、静かに車体が前に進み始めた。

 その音にかき消されるようにして、光さんがぽつりとつぶやいた。

「確かに……千紗先輩は、知らない事実だな。あれは……」

「はい、なので――お願いします」

 私は、助手席で深く頭を下げた。

 もう嫌われてもいい。そんな覚悟で、必死だった。

 けれど、車内には再び沈黙が降りてくる。

 光さんは何も言わず、ただ前を見つめたまま、何かを深く考えている様子だった。

 そのまま、しばらく時間が過ぎる。

 車は街へと近づき、窓の外には高知市内の明かりがぽつぽつと浮かび上がり始めた。

 ネオンでもなく、都会の喧騒でもない、けれど確かに人の暮らしの温もりを感じさせる街灯だった。

 ようやく、光さんが口を開いた。

「この通りにね、美味しいかつおのお店があるんだ。……せっかくだし、美味しいもの、食べようか」

 その声は穏やかだった。でも、明らかに話題を変えようとしていた。

 私はうなずくこともできず、ただ視線を落とした。

 ――そのATフィールドを、私は超えることができなかった。


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