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二〇二七年十月四日

 二〇二七年十月四日。

「はい、準備して!」

 新荒川橋のたもとに声が響く。秋の空気はひんやりとして、早朝の川辺に立ち込めた霧が、まるで映画のワンシーンのような風景をつくっていた。

 野球部の秋大会が終わり、校内の撮影スケジュールはぐっと増えた。出演者に選ばれた吹奏楽部の涼香も、十一月に控えた芸術文化祭までは少し余裕がある。とはいえ、部活動との両立は決して楽ではない。

 九月中に行われた撮影練習の成果もあって、編集部隊や撮影部隊は以前よりもスムーズに動けるようになっていた。機材の扱いにも慣れ、手際も良くなっている。

「それにしても、撮影器具も変わったな……」

 橋の欄干に肘をつきながら、春の隣で、久保田君がぽつりと言った。黒い傘を肩にひっかけ、少し寝癖のついた髪を手ぐしで直す。その視線の先には、三脚に据えられた業務用のカメラ、風よけ付きのガンマイク、そして現場用モニターまで揃った撮影隊の姿。

「ね。なんか、ちょっとした映画のロケみたいじゃない?」

 さらにその隣に立っていた涼香が笑う。彼女は制服の上に黒いウィンドブレーカーを羽織り、朝露で濡れたアスファルトに立っていた。彼女の声も、以前より少し落ち着いた響きを持っている。

「でもさ、お金どうしたの? 結構高いんじゃないの?」

 久保田君の声には、どこか現実的な響きがあった。彼はツボに入るとやたらと笑うが、やはり基本的には物静かで落ち着いた性格だ。今日はその慎重な面が前に出ていた。

「うーん、確かに……。正直、ここまで本格的になるとは思ってなかったよね。渚、本当に大丈夫かな」

 涼香も眉をひそめた。カメラにマイク、照明、現場用の監督椅子まで揃っている。極めつけは、渚が首から提げていたレトロなメガホンだった。

 私としては、正直かなりやばい金額がかかったと知っている。

 当初、撮影器具も、渚の判断で無理やり生徒会予算から捻出しようとした。あまりにも普通に。自然に。さらっと。

 領収書の束。インクジェットのインク、のり、ホチキス針、A4用紙――その中にひっそりと紛れ込んでいたのが、

『業務用カメラ本体(プロ仕様)二十二万円』

 である。もはや文房具というより武器。

「すみません、定期的なものです」

 渚は、まるで「消しゴム補充しました」くらいのテンションで領収書を提出した。

「ありがとう」

 生徒会担当の加藤先生は、いつものように優しく、そして深くうなずきながら、コーヒーを口に運びつつ領収書の束を受け取った。

 その日は火曜日。授業は五限まで、放課後は会議続き。職員室の空気もやや重い。加藤先生はそれらを脳内で処理しながら、

「あとで確認するね」

 と渚に言い、書類トレイに領収書の束をぽんと置いた。渚は一礼して、軽やかにその場を去っていった。まるで何事もなかったかのように。

 だが、その日の夜。

 職員室にひっそり残っていた加藤先生が、コーヒー片手に「領収書チェックすっか」と気軽にペラペラとめくっていたところ、突如、悲劇が起こった。

 ──「プフォォォ!!!」

 伝え聞いたところによると、吹き出したコーヒーは三メートル飛び、正面のプリンターを直撃。濡れた操作パネルは奇跡的に動いたそうだが、印刷ボタンが「超連打状態」になり、職員室が一時、紙まみれになったという。

 それはそれは壮絶だったらしく、名取先生いわく、

「マーライオンかと思った」

 とのこと。第二甲府高校職員室史上初のマーライオン認定である。

 もちろん、その領収書を提出した渚は、翌朝すぐに職員室に呼び出された。

 そして、なぜか私もセットで呼ばれた。もちろん宮崎君付き。

「お、おまえら、何を考えているんだっ!」

 教卓の向こうから、教頭先生の怒声が飛んできた。もはや声ではない。破裂音付きの高圧洗浄機だった。心に直撃。HPゼロ。

 私はうつむいた。目線なんて上げられない。先生たちの視線が、まるでスポットライトのように鋭くて、熱い。完全に「共犯者」の目で見られている。ええ、私はただの巻き添えですとも、はい。

 それなのに、こういうときに限って宮崎君は、

「あ、あぁ……お腹が……あぁ……バルス!」

 と意味不明な悲鳴を残し、カバンを抱えて教室を脱出。風になって走り去った。秒速五センチメートル。

 ああ、それが君のダサいところなんだよ、宮崎君。でもまあ、事故だよね。君も不運だった。合掌。

「は、はあ……」

 私は肩を落としてため息をついた。なのにその隣で、渚はひとり、無風地帯だった。

「はにゃ?」

 いや、なんでだ。なぜ今、そのポカン顔? なぜその余裕? 身内ながら、ちょっと殴りたい。

「なにって言われても……」

 と渚がつぶやいた瞬間、教頭先生の額にピキッと音が走った。明らかに、何かが壊れた。

「これを見ろッ! なんてものを買ったんだ、これはッ!」

 怒声とともに、教頭先生の手が震えていた。握られていたのは、伝説の領収書。撮影用カメラに高性能マイク、照明、三軸ジンバル、録音デッキに謎のメガホン。総額、軽く四十万円超え。やっぱ、メガホンって何に使ったんだ、戦場か?

 私は膝が笑った。いや、笑いごとじゃない。これ、完全にアウトでしょ。職員室の秩序が崩壊するやつ。

 け★ど★ね★。

 そんな空気を物ともせず、むしろ楽しんでいるようなのが――小野寺渚という災害指定人物なのである。

「あー……」

「……あ?」

「うーん……やっぱり、これ……」

「やっぱり何だ!? 言ってみろっ!」

「間違って……領収書に入ってましたね」

 えっ……。

 えっ(困惑)。

 さすがの私も、二度聞きした。

「すみません。私のプライベートのやつです。いやー、間違えちゃったなあ」

 ……おいおいおいおい。

 教頭先生たちの顔が、一斉にクリスマスツリーの点灯式のように赤くなった。まあ、素敵! メリークリスマス!

「バカ言うな。宛名、『第二甲府高校』って書いてあるだろ!」

「ほんとだ。よく見てますね。さすが、老眼でも現役バリバリ」

「褒めてる場合かっ!」

「いやあ、私、プライベートでは『第二甲府高校』っていうペンネームで活動してるんです。愛が重すぎて、すみません」

「待て待て待て。何を活動してるんだ!?」

「心の中で……ポエムを」

「ふざけるなあああああああっ!」

「ふざけてないです。真剣です。私のポエム、『雨と私とあなた』、読んでくださいよ、マジで。泣けます」

「読まねえよっ! ていうか、通用すると思ってるのか!?」

「通用しないんですか?」

「するわけないだろ!」

「そっか、通用しないのか。あぁ、勉強になりました。学びの機会をありがとうございます。まさにアクティブラーニング」

「もうやめてくれえええええ!」

「ちなみに、学校の口座からは一円も引き落としてませんので。領収書だけです。ではでは」

 そう言って渚は、ヒラリと身を翻し、ドアへと向かった。何かを投げたわけでもないのに、教頭先生が一瞬身をかがめたのは、完全に精神的爆撃のせいだと思う。

 ドアの前で振り返り、渚は上機嫌に言い残す。

「ではっ♪」

 ……え?

 その場に残されたのは、沈黙。完全に時が止まった。加藤先生も、教頭先生も、声にならない声を喉に詰まらせたまま、固まっていた。

 そして私は――完全に理解が追いつかないまま、渚を追って廊下に飛び出した。

「待って、どういうこと? 生徒会予算使ったんじゃないの?」

 私は思わず声を上げた。だって、さっきのあの領収書の山を見てしまったら、そりゃそう言うよ。カメラにマイク、照明、録音機材、メガホンに至るまで、完全に倒幕を狙う戦場仕様の装備だったんだから。

「いや~、ワンチャン許されるかもしれないかなって思ったけど、やっぱだめかあ」

 そう言って、渚は制服の襟を直しながら、のんびりとした声で笑った。

 待て待て待て。何が“ワンチャン”だ。ここは倫理の崖っぷちだぞ。

「ちょっと何言ってんの? じゃあ、生徒会のお金は使ってないの? え……もしかして……渚、借金したの?」

 私が思わず顔を覗き込むと、渚はケタケタ笑って言った。

「あはは。高校生で六十万円の借金かあ。ね、笑えるでしょ?」

「笑えないよ! まったく、全然……!」

 私は声を強めたが、渚はどこ吹く風だった。

「じゃ、春。半分の三十万円くらい背負う?」

「い、いや、え、それは……!」

「いいじゃん、だって私達、親友でしょ?」

「NO」

「そっか。じゃあ、ちょっと無理だね。はい、解散~!」

 何そのテンション。さっきまで職員室が戦場だったこと、完全に忘れてるでしょこの人。

「あはは。まあ大丈夫。冗談だから。ほら、春。これ、見てごらん」

 渚はポケットからスマホを取り出すと、画面を私の前に差し出した。画面には、見覚えのないクラウドファンディングのページが表示されていた。

『高校生の挑戦! 甲府からベネチア国際映画祭へ!』

「ま、まさかこれって……」

「ふっふっふ……」

 渚は悪役か何かのように笑いながらも、顔はどこか誇らしげで、自信に満ちていた。あの職員室でのやりとりすら、むしろ楽しんでいたようにすら見える。

 やはり、渚はこうなることを、最初から全部読んでいたのだ。

 ぶっちゃけ、最初の予算申請も、一種のチキンレースだったらしい。教師側が生徒会費から出してくれればラッキー、出してくれなければ予定通りクラファンへ――という算段だったのだ。

 渚の哲学は、一言で言えば「独立独歩」だ。何事も自分の意思で選び、動き、失敗も成功も自分のものにする――そういう人間である。

 つまり彼女は、自由という言葉が大好きだった。

 もっともその“自由”とは、よくある「フリーダム」――好き勝手、無秩序、カオス! みたいな意味ではない。

 渚の言う「自由」は、主体的に取り組むことに価値を見出す、ある種ストイックな自由だった。

 だからこそ、お金の扱い方にも、独特の考えがある。

「どこかひとつに依存したら、足元見られるからね。だから私は、色んなとこからちょっとずつ借りるの」

 そう渚は言っていた。金銭感覚がまともとは到底言いがたいが、その発想には一理ある気がした。

 映画だってそうだ。スポンサーはたいてい複数社つく。私はそれを、「一社じゃ資金が足りないから」とか「リスク分散のため」くらいに思っていたけど――。

 実は、そうすることで作品に対して過剰な口出しをされにくくなる。つまり、より自由に作れる。

 そう考えると、渚のやり方も理屈の上では間違ってないのかもしれない。いや、間違ってるかもしれないけど、筋は通ってる。

 ……いや、でもやっぱり少し怖い。

 私は、画面の中のクラウドファンディングページを眺めながら、ふと思った。

「ねえ、よく先生方が許したね、これ」

 その問いに、渚はきょとんとした顔で首をかしげた。

「何を?」

「このクラウドファンディング。誰から許可もらって立ち上げたの?」

 その瞬間だった。

 渚が、視線を逸らした。

 そっぽを向いて、鼻の頭を指でこすっている。

 ――ああ、これはダメなときのやつだ。

 渚は嘘が下手だ。というか、特に心を許した相手には、とことん嘘がつけないタイプなのだ。

 私の背中に、じわりと冷たい汗がにじんだ。

「……まさか」

「……いーや、別に。だってさ、先生方関係ないし?」

「関係あるでしょ!? 完全にあるでしょ!! お金の話だよ!?」

「うわっ、まっじめ〜〜」

「真面目で結構! っていうか、大人通さないでクラファンって、それ一歩間違えたら炎上案件だよ!? ていうか下手すりゃニュースになるよ!?」

「でもさあ、聞いたってどうせ許してくれないし。絶対、『前例が〜』『責任が〜』って言われるだけだよ? それに、私たちだってもうすぐ十八でしょ。あと一年で成人だよ? 立派な自立した個人です、ってことで」

「話が雑!!」

 私は思わず頭を抱えたくなった。

 渚は軽やかに続けた。

「だいたい許可取ったら、あれこれ検閲入ってさ。文章はこうしてください、写真はこれNGです、って。そんなのもう、落語の『目黒のさんま』状態じゃん」

「……味のしない、さんま」

「そうそう。冷めたさんまに添えられた、味気ない修辞と体裁。クラファンの魂、迷子だよね」

「迷子になる前に始末書が飛んでくるわよ……」

 私は小声でつぶやいたが、渚には聞こえていないようだった。

「てかさ、自由って、誰かに許してもらってから得るものじゃないんだよ。自分で選んで、自分で責任取って、その上で楽しむ。それが私の“自由”」

 渚はそう言って、にっこり笑った。

 その笑顔は、どこまでも無邪気で、どこまでも大胆で、そして……ちょっとだけ、ズルい。

 私は肩をすくめて、ため息をひとつ。

「……渚って、歴代で一番やばい生徒会長かもね」

「高杉晋作だって、狂っていたのよ。新しい時代を作るってことはそういうことよ」

 窓の外に目をやりながら、渚はさらっと言った。その目に映っているのが空なのか未来なのか、私にはわからない。

 ただ、言っている内容は確実に教師に言ったら指導案件だと思う。

「またまたそんなこと言って……内申点、大丈夫なの? てか、そもそもバレてないの?」

「ふふん、そこは計算済み。内申点は一年の頃からの貯金があるしね。“小野寺は素晴らしい”って、まだ言ってくれるマニアの先生方もいるし」

 得意げに鼻を鳴らす渚。その姿は自信満々というより、もはや確信犯の風格があった。

「でも……流石にこれ、クラウドファンディングはやりすぎじゃない? 学校にバレたらヤバくない?」

「何事も、抑えるべきところはちゃんと抑えているのよ。課題、テスト、授業中の態度。教師が評価できるのって、基本そこだけ。もしそこを超えて評価を下げたら、それは越権行為ってやつね。文科省的にもグレーゾーン」

「……なんかその言い回しが一番グレーだと思うんだけど」

「でさ、このクラウドファンディング。先生たち、きっと気づいてると思う。でも、口出しできない。なぜなら――」

 渚は言いながら、スマホの画面を操作し、私に差し出してきた。

 画面にはクラウドファンディングのページ。

『高校生の挑戦! 甲府からベネチア国際映画祭へ!』と大きなタイトル。色とりどりの写真、詳細な企画意図。映画のビジュアル案やロケ地の地図まで添えられていた。

 けれど、私が一番目を見開いたのは、そのページの最後。支援発起人として載っていた人物の名前と写真。

「これって……」

「そう。工藤光さんの野球部時代の同級生、りんさんとはじめさん」

「え、ちょっと待って!? なんでその二人を知ってるの? 私、小説書いてたときだって、インタビューすら無理だったのに……」

「たまたま。野球部の試合に観に来てることがあるって聞いたの。翔太と進が教えてくれてね、紹介してもらったのよ」

 軽く言うが、今話してる内容、結構な偉業である。

「でも、そもそもなんでこの二人なのよ?」

「それはね」

 渚は一拍おいて、満足げに言った。

 事実として、現在進行中のクラウドファンディングの「発起人」になっているのは、りんさんとはじめさん。

 いずれも、あの工藤光さん。そして輿水大気さんの高校時代のチームメイトであり、現在は県内で観光業に従事している。山梨の地酒とソフトクリームをこよなく愛するナイスガイたちである。

 曰く、Webサイト作成も手慣れたもので、ページの構成や写真の配置も小気味よく、まるで地方観光のPR動画みたいな爽やかさだった。

「……で、つまりこのクラウドファンディングは、“りんさんとはじめさんの好意”で立ち上げられたってことになってるのね?」

「そうそう、“なってる”のよ」と渚は即答した。

 なってる、の言い方がもうダメ。真顔で嘘を言うのやめてほしい。

「彼らが“後輩を応援したい(嘘)”とか、“かつての親友が関わる作品だから(嘘)”とか、“山梨の経済効果に貢献する(嘘)”とか、そういう素敵なことを――」

「全部、嘘なのね」

「言い方。正確には、演出」

「脚本:小野寺渚、って感じね……」

「でしょ?」

 本人はうれしそうに笑っているけれど、正直私は脳内で警察庁の特殊詐欺対策室に通報しかけた。

 そして、もっと恐ろしいのは、この“演出”が完璧に機能してしまっているという事実だ。 クラウドファンディングは既にサイトで公開され、一部メディアにも取り上げられ、「高校生の情熱!」などと大見出しで紹介された。

 当然、学校側もこの騒ぎに気づく。

 すぐにりんさんとはじめさんに連絡を取り、「これはどういうことか?」と詰め寄る。

 二人は揃ってこう答えたという。

「小野寺生徒会長殿に話は通してあります」

 学校側は慌てて渚を呼び出す。

 すると渚は、まるで魔法の呪文のようにこう返したという。

「てっきり彼らが既に学校から許可を貰っているかと思ってました」

 ――真顔で、しれっと、堂々と。

 結果的に、学校はこの連携プレイに撃沈することとなった。

 いや、普通に考えて退学案件だろう。でもここで問題なのは、渚が“生徒会長”であることだ。

 そもそも渚の選挙は波乱の連続だった。

 選挙演説では最終的に、謎の二部構成スピーチを披露し(しかも後半は完全に即興ラップ)、先生方と選挙管理委員会により、「出馬停止」が決定された。

 しかし選挙のふたを開けてみれば、投票用紙の約八割に“手書きで”「小野寺渚」と書かれていた。立候補してないのに。前代未聞である。

 その結果、前回の選挙は無効。再選挙へ――となり、再度の選挙でも渚が圧勝。約九割を獲得。結果、渚が“史上初の〇回出馬ながら、二回当選という記録を打ち立て、今に至る。

 だから、今さら渚を解任するわけにもいかない。下手に解任すれば、また暴動が起きかねない。

 そして、もし別の生徒を無理やり生徒会長にした場合、その子は――まあ、いじめられるだろう。完全なる傀儡政権だ。

 さらに問題なのは、このクラウドファンディングが思ったより加熱してしまったことだ。そもそも発起人が、第二甲府高校の卒業生で、県内の観光業で働く大人。彼らの周りには、まさに協力してくれるターゲットが沢山いる。

 今さら止められないし、下手に止めたら、炎上するのは学校側。

 まさに、“泣きっ面にあんかけ焼きそば”である。しかも麺がのびてるタイプ。

「はぁ……」

 私はもう、何が正解かもわからない。ただ、渚は本当に楽しそうだった。

 きらきらと、目を輝かせて。

「でもさ、ちゃんと責任は取るよ?」

 と、彼女は不意に真顔で言った。

「一応、来年の誕生日を迎えたら、クラウドファンディングの名義も全部私たちに変える予定。法的にも、私たちが“責任者”になれる。りんさんたちは、あくまでスタートアップの顔ってことで」

 うん、法的って言葉を軽々しく言う高校生って、どうなんだろう。

 でも、そういう未来までちゃんと考えてるんだな、と思うと……それはそれで腹が立つ。

「まったく、すごいねえ……」

 私は思わず声を漏らした。クラウドファンディングのページを前に、どう反応すればいいか分からない。完成度も、実行力も、ぶっ飛んでる。

「あはは、もっと褒めたまえ諸君!」

 渚は両手を広げて、まるで舞台のセンターで喝采を浴びる主演女優のようにポーズを決める。

「いや、私一人しかいないけど。諸君って」

 ツッコミを入れつつ、私はふと疑問に思ったことを口にした。

「もっと……渚って、こう、清楚系でいい子だと思ってた」

「清楚系? ああ、それ猫かぶりの天才系ってやつね」

 渚はケラケラ笑いながら、何のてらいもなく言い放つ。

「正直、清楚系って腹黒多くない? “あえて目立たない”とか言いながら、実は裏で全部操作してるタイプ」

「自分で言っちゃうんだ、それ……」

「まあ、私を黒くさせた張本人がいるかもね。今回の“既成事実を作って、先生方を動けなくさせる”って作戦も、その人のパクリだし」

「え? なにそれ……まさか師匠いるの?」

「うん。マスターヨーダが」

「え、えぇ……? いや、誰?」

「知らない? スターウォーズ。銀河の師匠よ?」

「普通に知らないよ。女子高生、スターウォーズとか見ないし」

「見た方がいいよ! “やってみる”じゃなくて、“やる”。そのメンタルが何事も大切なんだから」

 何を悟りを開いたみたいに語っているのか。この人、ほんとに高校生だよね?

 渚はいつも以上に上機嫌で、鼻歌まじりにクラウドファンディングのページを操作している。

 私はというと、改めてスマホの画面に目を落とし、ページをスクロールする。写真の数、文章の熱量、レイアウトの美しさ。

 確かに、どう見ても高校生が一から作ったようには見えない。……いや、これ、りんさんやはじめさんが本当に作ったの?

(観光業って、こんなスキルまで身につけるの……?)

 ふと、金額の欄に目が留まった。

「へっ!?」

 思わず変な声が出る。

 その声に、我が艦隊司令官はさらにご満悦な表情を浮かべた。

「結構いってるでしょう」

 ふふーん、と鼻で笑う。やめてほしい、そういう余裕のある態度。

「いやいやいや。もっと、こう、かわいい額だと思ってたんだけど……」

「もちろん、善意でノーリターンで出してくれる人もいるよ。でも、大半はリターン目当て。そこんとこ、ちゃんと工夫してるから」

「リターン?」

「そうそう。一般的にクラファンってのはね、お金出してくれた人に、見返りをちゃんと返すのよ。感謝の手紙とか、限定グッズとか、特典映像とか」

 そう言いながら、渚は私のスマホを器用にすっと奪い取り、ページ下部のメニューをタップする。

「基本的には映画のエンドロールに名前を載せるとかさ。これ個人名も企業名もOKにしてさ」

 渚はスマホの画面を見ながら、まるで経営戦略会議の社長みたいに語り出す。

「さらに、課金してくれたら“あなたの会社の製品使います”って宣伝もやってさ。そうすれば、ちょくちょく増えるんだよね」

「へぇ……そこまで考えてるんだ」

 私は驚きつつも、すぐに気になることを聞いてみた。

「で、他にどんなリターンがあるの?」

「学校探検とか」

 渚はにやりと笑った。

「学校探検?」

 思わず聞き返す。

「そう。同世代ならさ、他校の高校にこっそり潜入してみたいとかあるじゃん? コスプレイヤーとか、動画撮影する人たちも使うみたい。廃校を使った撮影スポットはよく聞くけど、現役の学校ってなかなかないから、そこは結構レアだよ」

「なるほどね……でも、それって本当に価値あるのかな? 卒業生なら、普通にアポ取って来られそうな気もするけど」

「いやいや、それが全然違うのよ」

 渚は得意げに説明を続ける。

「来れる可能性があるのと、来ることが約束されているのとじゃ、まるで違う。たとえば海外旅行も、行けると思っていてもきっかけがなければずるずる先延ばしになったりするでしょ? それと同じ。あと、価値を提供するときは、“プライスレス”なものにしなきゃ」

「プライスレス?」

「うん。例えば映画のエンドロールに名前が載るとか、母校に行ける特別ツアーとか。そういうのって、普通にはなかなか手に入らないし、特別感あるでしょ?」

「うーん、確かにそれは」

「しかも、クラウドファンディングでお金を出す人の多くは、“プロジェクトに関わりたい”って思ってる。社会的本能ってやつね。自分が所属するコミュニティで役に立ってるって証明したいの。だからこそ、母校と結びつけて、そこに“役に立つ”っていうニーズを刺激する仕掛けを作るのがポイントなの」

「うわ……」

「何よ」

「すごいけど……やめてよ」

「何が?」

「そのドヤ顔」

「あはは、うっさいな」

「知らんがな」

 そう言いながらも、渚の顔はニヤリと輝いている。

「でも正直、ここまで集まるとは思わなかったよ」

「あら、謙虚で珍しいね」

「やめて(笑)。私だってまだ高校生で、分からないことだらけだけど。こんなに応援してくれる人がいるって、自信になるよね」

「うん。なんか、自分たちが歩いている道が間違ってないって思える」

 その結果、クラウドファンディングは大成功。想定以上にお金が集まった。

 でもそれ以上に、応援してくれる人がこんなにたくさんいることに、私は胸が軽くなるのを感じていた。

「はーい、そろそろ撮影するよ!春、こっち来て」

 渚の声に意識がぱっと今に戻った。そう、今は早朝の新荒川橋。空気がひんやりと冷たく、まだ街は眠っているようだ。

 スタッフやキャストたちはそれぞれの配置に着き、今までのリハーサルとは違う緊張感を漂わせながら、本番の撮影が始まる。

「春、じゃあ大気さん(長谷川君)と千紗さん(涼香)の出会いのシーンからいくよ」

 渚の声が指揮者のように空気を引き締めた。

 思わずその場面のイメージが頭に浮かぶ。そうだ、ここは大事なシーン。今は撮影に全集中しよう。

「じゃあ皆さん、よーい、アクション!」

 二〇一六年十月。珍しく、台風が山梨を直撃した日。

 十月に台風が来ること自体は珍しくないが、その日の朝は奇跡的に始発の電車が遅延しなかった。

 だからだろうか、姉の記憶にその日が深く刻まれている。いや、そういう環境的な理由だけではない。たとえ晴れていようと雨が降っていようと、アルマゲドン級の嵐だろうと関係ない。

 おそらく姉は、その日を忘れることはないだろう。なぜなら、自分の人生で一番大切な“キャスト”が、目の前に現れたから。

 台風に荒れる空の下、姉は母親の「今日はやめなさい!」という静止を振り切り、始発の電車に乗り込み、甲府駅に着くとカッパを着て自転車に跨り、高校へ向かっていた。

 姉はもともと部活バカで、吹奏楽に命をかけていたが、その夏の大会で悔しい結果に終わった悔しさが、彼女のバカさ加減に燃料を注ぎ込んだのだ。つまり、単なる吹奏楽部の悔しさが、彼女の情熱を爆発させたのだと思う。

 ちょうどそのとき——

 その“姉”と重なるように、涼香が甲府駅の方向から自転車を漕いで現れる。

 演出か、それとも偶然か。彼女の顔はあえてカメラに見せず、小さな体を前傾させ、ぐっと力を込めてペダルを踏む。その姿に、私は思わず胸を締めつけられた。

 きっと、姉も、こんなふうに必死だっただろう。

 練習しても練習しても、思うように成長できた実感はなかった。悔しさ、焦り、自分だけが取り残されていくような感覚。

 涼香はそれを“演じている”のかもしれない。でも、その解釈はまぎれもなく正しい。

「春、いい顔してるよ」

 カメラの後ろから渚がそっと囁く。

 私は何も言わずに頷いた。風の音に混じって、遠くの鳥の声が聞こえた気がした。

 そして——。

 新荒川橋の真ん中で、涼香は自転車を漕ぐのをやめた。

 風が強くなっていた。朝の冷たい空気が橋の上を一気に駆け抜ける。新荒川橋付近は遮蔽物が少なく、風の通り道になるのだ。

 彼女は少しバランスを崩しかけたが、倒れることなく、スッと自転車から降りる。その動作にも、どこか凛とした意志があった。派手さはない。でも、確かな芯がある。

 そしてそのとき——彼女は、誰かの視線に気づいたように、ゆっくりと振り返った。

 そこにいたのは、同じく自転車に乗ってやってきた男子高校生。

 制服の前を少し開け、額に風を受けながら、無言で彼女を見ていた。

 長谷川君が演じる、輿水大気さんだった。

 視線が交差する。

「いい……いいね……!」

 モニター越しに渚が小声でつぶやく。目がキラキラしてる。

 たまに“謎の演出意欲”が暴走することがあるけど、今日はその方向性がちゃんと噛み合っているらしい。

 輿水大気——その名前を聞けば、今でも知っている人は多い。

 甲府市内では有名な投手だった。

 学校の正面玄関のガラスケースには、彼の写真がいまだに飾られている。

 その程度の「レジェンド」なら他にもいるかもしれない。でも、彼の場合は少し違った。

 YouTubeで名前を検索すれば、中学時代の大会の映像がすぐに出てくる。

 左の本格派ピッチャー。スリークォーター気味のフォームから繰り出される速球。スピードもさることながら、その“ノビ”がとにかく凄かったらしい。

「ただ速いだけじゃないんだよ。ボールが最後、ギュンッって浮いてくる感じ」

 そう三浦信二さんは言っていた。

 さらに決め手のカーブ。中学生ながら、ドロップ気味に曲がるそれは「ちょっと反則」とまで言われた。

 左、本格派、そしてカーブ。

 この三つが、輿水大気さんの代名詞だった。

「本人も努力家だったけどさ、それ以上に“天性”だったね。あれはマネできない」

 信二さんがしみじみ言うとき、ちょっとだけ羨望の色がにじんでいた。

 そんな彼に、県内外からのスカウトが殺到したのも当然だった。

 本人が迷ったのは、地元の名門・甲斐学院か、それとも遠く離れた北海道・苫小牧の強豪校か——。

 でも、結果として、彼は一つ上の親友でありキャッチャーの三浦信二さんに誘われて、一緒に甲子園を目指すことになった。

「甲斐学院行ったあの先輩、倒すなら今しかないだろ?」

 信二さんは、そんなふうに言ったらしい。

 誘い方がざっくりしていて笑ってしまう。でも、それに対して「即決だった」と彼は語っている。あの天才投手が、そういうノリで進路を決めるというのも、正直ちょっとよく分からない。

 ただ、結果的にその決断は間違っていなかった。

 彼は一年生の春にベンチ入りし、夏になる頃にはエースナンバーを手に入れ、そして——

 学校創立以来初となる、県大会決勝進出。つまり、あと一歩で甲子園というところまで行ってしまったのだ。

 ——出場は叶わなかった。けれど、それでも。

 本当に、華々しい野球人生だと思う。

 いいなあ、そういうの。なんだか、眩しすぎて直視できないくらいだ。

 でもそんな大気さんでさえ、恋愛に関してはどうも別らしい。

 かなり奥手で、意気地なし——これは私の偏見ではない。ちゃんと証拠がある。

 私が読み込んだ大気さんの日記ノートにも、それらしい描写が何度も出てくるし、同じく奥手と評判の信二さんも、「いや、あいつ、俺よりもよっぽど臆病だよ」なんて笑っていた。

 バッテリーが揃って恋に不器用って、何そのコンビ、ちょっと可愛いじゃないか。

 だからこそ、いや……自分で言うのも変だけど。

 当時マドンナ的存在だった、私の姉を好きになったとしても——それは、声なんてかけられないだろう。うん。私は冷静に、そんなふうに分析してしまう。

 つまり。

 彼にとっても、この新荒川橋での出会いは、人生の中でもきっと劇的な一日だったはずなのだ。

「——はい、カット!」

 渚の声が、現実へと引き戻す。

 その瞬間、現場が一気に緩んだ。カメラマンが肩の力を抜き、録音スタッフが機材をそっと下ろす。キャスト陣も深く息をついて、それぞれの演技から抜け出した。

 渚はいつものように、タブレットとスマホ、複数のモニターを操作しながら、「確認入ります!」と叫んだ。

 撮影隊、編集チーム、そしてキャスト全員でその場で映像のチェックに入る。

 全員のスマホやカメラの映像がリアルタイムでZoomに繋がれ、それぞれの画角からの録画内容を同時に確認できる仕組みだ。

 ……こうやって、皆で確認して、意見を言い合って、ひとつの作品を作っていくというスタイル。

 今ではあまりにも当たり前になってしまったけれど、考えてみれば、なかなかに面白い時代だ。

「みんなどう思う?」

 渚が映像を一時停止しながら尋ねる。

 もはや、誰も、遠慮はしない。

 それぞれが、思ったことをガンガン言っていく。

「翔太、顔、硬いよ」

「うっせえな……進もやってみろよ。お前だってさっき固まってたじゃん」

 長谷川君は少しむくれたように口を尖らせるが、どこか照れ笑いが混じっていた。

「すみません!」

 そんな空気を破るように、撮影隊の一年生の女の子が手を挙げる。声は少し震えていたが、彼女の目は真剣だった。

「あの……雨の中の会話っていう設定ですよね? だったら、もう少し……お互いの声が聞きにくい感じのほうがリアルじゃないですか?」

 その一言に、渚が「おっ」と反応し、腕を組んで頷く。

「確かに……。あの年の台風、今より風強かったはずだしね。声の通りにくさ、意識したほうがリアルになるかも。ねえ、宮崎君。風はBGMで入れるんだっけ?」

「編集部隊としてはそのつもりだけど……でもさ、そもそも涼香の髪、あんまりなびいてないよな。映像で見たとき、不自然かもしれない」

「なびかせた方が自然ってこと?」

「いやいや、そんな西川さんのMVみたいなのは勘弁して。髪型が崩れる」

「大丈夫、涼香。ここは海の上じゃないし、バカでかい扇風機なんか置かないから」

 涼香は苦笑いを浮かべながらも、背筋をすっと伸ばす。どんな現場でも、彼女は真剣だ。

「すみません!」

 先ほどの一年生がまた手を挙げる。

「なら、これどうですか」

 そう言って、彼女が鞄から取り出したのは、小さなハンドタイプの扇風機だった

「……いや、弱いだろ」

 思わず宮崎君が反射的に突っ込む。

「違います、あと二十個あります!」

「えっ」

 その場にいた全員が、絶句——いや、それ以上に驚いていた。

「……なんでそんなに持ってるの?」

「いや、今日風の演出が弱そうだと思って……Amazonでまとめ買いしました」

 渚が目を丸くしてから、破顔した。

「マジか、ありがとう。え、自腹?」

「いえ、小野寺先輩みたいに、ちゃんと経費扱いにしてます! 領収書あります!」

「グレイト! 領収書は節税にも大切だからね。しっかり今のうちから学んどきな!」

「はいっ!」

 高校生が高校生に節税を教えるという奇妙な光景に、思わず私は口元を押さえて笑った。

 いや、今どきの高校生って、起業する子もいるらしいし……。そう思えば、こういうのも「あり」なのかもしれない。

 私がそんなふうに一人納得していると、渚がふっと私を見て、小さく微笑んだ。

「おっけい、じゃあもう一回いこうか」

 渚の声が響く。

「春、進、それから編集部隊のみんな、画面に映らないように、二人を扇風機でお願いね」

 編集部隊のメンバーが一斉に動き出す。扇風機をそれぞれの持ち場に構え、微調整しながら風を送る。

 まるで舞台裏でそっと支える風の妖精たちのように。

 長谷川君と涼香が位置に着き、再びリハーサルの始まりだ。

 カメラが回り、音声のマイクが構えられ、風がふわりと二人に吹く。

 涼香の髪が少しだけ揺れ、頬にかかった雨粒が風に押されて小さく跳ねる。その一瞬が、現場にいた全員の目に「正解」に映った。

 ——映画作りなんて、初めてだった。

 なのに、今この瞬間、たしかに私はその中心にいる。

 誰かの後ろをついていくのではなく、誰かに合わせるのでもなく、自分が責任を持って関わっているという実感があった。

 みんなで一つのものを作る。

 それは、思っていた以上に、感慨深くて、面白くて、そして、難しかった。

 一回一回の撮影に、決定打のような「正解」があるわけじゃない。

 その時々で、最善だと思える瞬間を、選び取っていくしかない。

 だからこそ、この一瞬一瞬の連なりは、もしかすると「アオハル」ってやつにぴったりだって——

 たぶん、大人たちは、そんな風に言うのだろう。

 でもそれって、「終わり」がちゃんとあるから、そう言えるんじゃないかと私は思う。

 終わりがあるから、全力で取り組める。

 終わりがあるから、振り返った時に「美しかった」と思える。

 けれど——終わりが曖昧で、どこにも辿り着かず、ただズルズルと続いていくなら。

 それはもう、気持ちのいいものなんかじゃない。ただただ、疲れるだけだ。

 私は知っていた。

 この現場のどこかに、私の未処理の「終わらせていないこと」が残っているということを。

 それは——脚本のことだ。

 ここ数日、私は意図的に、脚本のデータに触れていない。

 見ない。考えない。直さない。

 渚や宮崎君、他のメンバーたちが気を利かせて、進行に支障が出ないように補ってくれていることも知っていた。

 そのやさしさが、かえって胸に刺さる。

 撮影が進めば進むほど、私の中にある「終わらせてないもの」だけが、輪郭を増して、重たくなっていく。

 私はそれを、自分でちゃんと見つめなければならない。

 でも、まだ——ほんの少し、怖いままだった。

 遠くで渚の声が響いた。

「よっし、今のいい感じ! もう一回だけいこうか。今度は、涼香の表情を、もう一段階“無理してる”感じで出してみて」

 涼香が軽く頷き、小さく息を吐く。

 私は、脚本の入ったタブレットが入ったバッグを、無意識に撫でていた。

 ——いつか、向き合わなければ。

 でも、まだ「今」ではない。

 そう思ってしまった自分に、少しだけ、胸が痛んだ。


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