ぶわぶわぶわ~っ、と色と音声も地下牢の匂いも。
※※※
あの時、地下牢に投獄された直後、ソレル夫人が蠟燭の火を私の顔に近づけ、馬鹿にしたように言い放ったの。
『エグランティーヌ、私の靴に口づけて詫びなさい。綺麗な顔を焼くのは許してあげるわ』
『奸臣にかける言葉は持ちあわせておりませぬ』
どんな時でも感情を爆発させてはいけない。貴族子女としての基本は心魂に刻まれている。第一、泣いて縋っても助かるとは思えなかった。
『自分の立場がわかっているの?』
『私はダルシアクの娘です。誇りまでは手放しません』
『素っ裸で木から吊るされても誇りを持っていられる? その覚悟はあるの?』
化けの皮が剥がれた女性の浅ましさに背筋が凍りついた。
けれども、顔に出したら負け。
『夫人は哀れな女性だったのですね』
『……このっ……いつまで痩せ我慢が続くか、見物ね。次、会う時を楽しみにしているわ』
ソレル夫人は私の顔にカスタードのタルトを投げてから去っていった。
地面に転がったカスタードタルトを食べるように仕向けたみたい。空腹に耐えね、カスタードタルトに手を伸ばした私を嘲笑うつもりね。
もちろん、私はソレル夫人の思惑には乗らない。
地面に落ちたカスタードタルトはネズミが齧った。
※※※
地下牢を思い出し、身体が強張ったけれど、ばあやが包みこむように抱きしめてくれる。クロエとリアーヌは私のドレスにキスをした。
「エグランティーヌ様を拷問している暇がなかったのでしょう。ロゼ商団は革命ではなく、領民の暴動で処理したかったそうですから」
「当初、領民の暴動で処理されると思っていたわ。革命はどこにどう飛び火して、王国の根底を覆すかもしれないもの」
本来、革命はあってはならない。たとえ、悪政に耐えかねた領民が武器を手にしても、暴動として処理する。ダルシアク革命が周囲の領民を刺激して、第二、第三の革命が起こる危険性を回避するため。……って、家庭教師から教わったのに。
「姫様、ジュー夫人とロゼ商団主の結婚について、どうお聞きになられまし
たか?」
秘書官に改まった顔で尋ねられ、私は記憶の糸を辿った。
「ダルシアクのため、デュクロのため、ってお父様とお母様……ダルシアク公爵と公爵夫人が教えてくれたわ。伯母様はダルシアクの犠牲になったのよね?」
どんな色眼鏡で見ても、王位継承権と帝位継承権を持つ公爵令嬢と平民出身の商人の縁談はありえない。
当時、破竹の勢いで快進撃を続けていたロゼ商団が裏工作に励み、修道院にいたダルシアク公女を拉致した挙げ句、大金を積んだという。その目的はロゼ商団の格を上げるため。
お祖父様はダルシアクのため、デュクロのため、落ちた王室の権威のため、ロゼ商団との縁が欲しかった。
「ダルシアク公爵自身、真実をご存じなかったのでしょう。私も興味がなかったから、噂を鵜呑みにしていた」
「どんな真実?」
「真実の愛です」
「……伯母様と商団主の真実の愛?」
商団主は夫人を逃げ出さないように閉じこめ、誰にも会わせず、籠の鳥にして子供をたくさん産ませたという。愛人がひとりもいないのは、せっかく夫人のおかげで上がったロゼ商団の家格を下げないため。
商団主は控えめに言っても鬼畜男。
「そうです」
「伯母様は哀れな籠の鳥、って評判よ」
「もうひとつ、フレデリク七世の真実の愛も絡んでいます」
「……あぁ、フレデリク七世の……まだ王太子でしたよね」
「ダルシアク家も大変だったと聞いています」
吟遊詩人に歌われ続けている有名な話。
フレデリク七世はセシャン伯爵家養女を第三妃として寵愛しすぎた。
当時はまだ王太子。
王太子妃との間に王子が誕生した後、義務は果たしたとばかり、なんの交流もなくなったという。王太子妃を離宮に幽閉する計画も立てていたみたい。
そんな中、セシャン伯爵家令息のルイゾンが第三妃と無理心中した。第三妃が産んだ第一王子と第二王子も道連れに。
前々から、ルイゾンと第三妃の関係は噂の的。
けれど、王太子殿下や側近たちは全員、ルイゾンと第三妃は『仲が良すぎた兄妹』と口を揃え、 セシャン伯爵側は王太子妃殿下の罠だと主張し、王宮のみならず王国が真っ二つに割れたという。
当時の宰相はダルシアク公爵。つまり、エグランティーヌの祖父。
「伯母様はセシャン伯爵令息の婚約者ですもの」
王太子殿下の願いにより、伯母様は事件の加害者の婚約者だった。連座で罰せられる可能性もあったはず。
「シュタルク帝国の第五皇子との縁談がまとまりかけていたところ、王太子殿下に止められたそうです。第三妃のため、ルイゾンに嫁がせたかったのでしょう」
ダルシアク公女と田舎の貧乏貴族では格が違う。フレデリク七世は真実の愛のため、伯母様の運命も変えたの。
ハタ迷惑な真実の愛。
「伯母様が修道院に入った原因は第三妃の事件でちゅよね?」
……あ、あれ……呂律が回らなくなってきた。
「そうです。フレデリク七世の寵姫が原因で伯母様は自ら修道院に入りました」
結局、無理心中事件とされ、セシャン伯爵夫妻は処刑された。家門は断絶。伯母様はお咎めなしだったのに、自分から修道院に入ったという。亡きお父様は泣いて止めたのに止められなかった、って。
「……それはなんですか?」
イレールが不可解そうな顔で口を挟んだ瞬間、ばあやが素っ頓狂な声を上げた。
「イレール、知らないのかい?」
「知らない」
イレールが真顔で答えると、ばあやは顔を派手に歪めながら溜め息をついた。
「……そういえば、お前は武骨一辺倒……」
ばあやが肩を落としたので、私は慰めるようにキスをしたの。イレールの脳筋ぶりは私も知っている。やっぱ、脳筋に商売は無理ね。
「アロイス卿はご存じですか?」
イレールは同志を求めるように、武骨一辺倒仲間に聞いた。
「……エグランティーヌ様の伯母上が平民に嫁いだことは知っている。婚約者を裏切ってデュクロにいられなくなった、と……」
アロイスの言葉を遮るように、ばあやは怖い顔で止めた。
「アロイス様、違います。いったい誰からそのようなことをお聞きになられましたか?」
「父と母」
「なんて、惨い。ジュヌヴィエーヴ様にはなんの非もありませんでした。セシャン一族の逆恨みですよ」
ばあやが目を吊り上げると、秘書官が躊躇いがちに口を挟んだ。
「ルイゾンは第三妃に夢中で、婚約中でもジュヌヴィエーヴ様を蔑ろにした。そんな噂は聞きました」
私が王宮で聞いた噂と同じ。
絶世の美女でも婚約者に相手にされない。
ジュヌヴィエーヴ様が婚約者と第三妃を恨んでいた説も聞いたの。王太子妃と共闘して第三妃と婚約者を罠にはめた説も。
「私はまだお仕えしていなかったのでよく知りませんが、そのように聞いています。ジュヌヴィエーヴ様にとってルイゾン様は不誠実な婚約者だったそうです」
ジュヌヴィエーヴ様は修道院で修道女見習いになった時、ロゼ商団主に拉致されて結婚したと聞いたの。
ダルシアクや王室に翻弄された人生。
伯母様はダルシアクを恨んでいない?
恨んでいないのならば力を貸してくれる?
「伯母ちゃまに会いたい」
私が真剣な顔で言うと、アロイスやイレール、秘書官たちは息を呑んだ。
ロゼ商団のジュー夫人が深いベールの向こう側にいるから。
「……そうですね。夫人は決して表には出ません。誰にも会おうとはしませんが、姫様ならば会ってくださるかもしれません」
「ひみちゅで会うの。ひみちゅにちて」
ソレルに気づかれないように極秘で会えるように調えて、って言いたいのに言えない。このもどかしさ、わかってくれる?
みんなの顔がだらしなく緩んでいるのも癪に障る。
「畏まりました」
秘書官が笑いを噛み締めながら承諾すると、アロイスは無言で一礼する。
ばあやが優しい笑顔でまとめた。
「商団設立という危ない橋を渡るより、ロゼ商団の力を借りたほうがいいと思います。姫様がお願いしたら、咲かない花も咲きますよ」
通信販売の商売を断念して、闇のカラスを探すような気分になったけど、光明を得た感じ。
ジュー夫人、お会いしたいです。