エグランティーヌ様と婚約してから、目まぐるしい速さで時が過ぎた。
結婚式が近づくにつれて緊張して、家族や周囲に馬鹿にされた。結婚式が延期されるたび落胆しては馬鹿にされた。
ダルシアク公爵が体調を崩し、父上がすべてを取り仕切るようになってから、おかしいとは感じていた。
ソードマスターを目指し、俺は訓練に明け暮れていたから気づかなかった。……否、気づかないふりをしていたのかもしれない。前々から異変はあったのに。
「姉夫婦が逃亡して捕まった。ソレル子爵に頼んでほしい」
若い平民騎士が年嵩の平民騎士に泣きながら縋っている。どちらも直に交流はないが、実直な騎士だと評価していた。
「姉夫婦は税金を納めずに領地から逃げたんだろう?」
「税金が高すぎる。姉が娼婦になってでも税金を納めろというのか? 姉だけじゃなくて、妹や従姉妹もだぞ? 女はみんな娼婦になれ、とでも言うのか?」
「俺に言われても困る」
「身を粉にして働いても、すべて税金で吸い上げられる。暮らしていけないーっ」
「こんなところでやめろ。除隊されたいのかっ」
平民騎士の立ち話を聞き、俺はそばにいたダルシアクの騎士に尋ねた。けれど、馬鹿らしそうに手を振るだけ。
「アロイス卿、税金逃れの平民に情けをかけてはいけません。ご自分の立場を忘れましたか?」
ダルシアク公爵閣下が寝込んでから、税金を払わなくなった領民が増えたという。病弱な領主に対する侮りらしい。父上や税の担当者が思案に暮れていた。
……ようだが。
「今までダルシアク騎士の口から、そういったことを聞いたことがない」
「エグランティーヌ様の婚約者が口にすることではありません。ダルシアク公爵様の娘婿になる自覚をお持ちなさい」
婚約者を出されたら言葉に詰まる。
それでも、聞き流せず、俺は久しぶりに城下町に繰りだした。父上になんでも報告する従者をまいたから、久しぶりにひとりだ。
そうして、衝撃を受けた。
ダルシアクはいつの間に治安が悪化したんだ?
こんなに貧しかったか?
エグランティーヌ様と婚約した頃、城下に浮浪者はひとりも見かけなかった。いつしか、浮浪者のほうが多い。若いというより、幼い娼婦もやたらと目につく。領主や領主一族への恨み言もあちこちから聞こえてきた。
「エグランティーヌ様は年下の婚約者に入れあげて、高価な美術品や魔導具を買い漁って、貢いでいるそうだ。何が絶世の美女だ。色ボケ悪女めっ」
「ソレル子爵や婚約者が辞退しても、悪女は止まらないらしい。王都に新しい屋敷を婚約者にプレゼントするため、税金を取り立てようとしている……ひどい話だ……」
「年下の婚約者には結婚を約束していた女性がいたんだとよ。無理やり、エグランティーヌ様がねじこんだ。気の毒に……」
いったいそれはなんのことだ?
エグランティーヌ様の年下の婚約者って俺のことだよな?
どうして、エグランティーヌ様が罵られる?
領地の貧困の原因はエグランティーヌ様じゃない。
これはいったいどういうことだ?
……っと、兄上?
兄上が領民たちに囲まれている?
俺は兄上たちに気づかれないように背後からそっと近づいた。
「ソレルの坊ちゃん、これ以上、税は収められません。どうか領主様に頼んでください」
「わかっている。私たちソレルも命がけで領主様に頼んでいるんだ。……今朝も父上は領民のために意見をして鞭打ちされて……耐えてくれ」
兄上が辛そうに言った内容に愕然とした。
俺が知る限り、ダルシアク公爵閣下が鞭打ちをしたことはない。それどころか、鞭も手にしたことがない。馬でさえ、鞭は使用しない。優しすぎる貴人だ。
「領主様は悪魔だ……以前は……以前は慈悲深い領主だったのに」
「実は奥様を亡くされた後にだいぶ変わられたんだ。さらに我が儘なエグランティーヌ様に振り回され、心を病んでしまったのだろう」
兄上、今、なんて言った?
俺の空耳じゃないよな?
エグランティーヌ様は我が儘じゃないし、公爵閣下を振り回したりしていない。
「エグランティーヌ様がそんなに我が儘だと知らなかった。施設にも頻繁に通ってくれるお嬢様だったのに……」
「エグランティーヌ様は自分を美しく見せることに執着するようになって……強引に婚約者にさせられた弟も参っている」
兄上は悲痛な面持ちで大嘘をついた。
エグランティーヌ様の婚約者に指名された名誉まで傷つけられたくない。
これ以上、聞いていられない。
「兄上?」
俺が声をかけた途端、兄上は狼狽した。
「アロイス? ……いいところに来た。ダルシアク城に戻るぞ」
「ここで誤解を解いてください」
俺は兄上の襟首を力任せに掴んだ。ダルシアク公爵閣下のお膝元でこんな悪い話が飛び交うなど、決してあってはならない。
「帰るぞ」
兄上は救いを求めるように、周りのソレル騎士たちに視線を流した。
「兄上っ」
「筋肉頭、母上に会いに行くぞっ」
こんなところで騒動を起こすな、と兄上に小声で囁かれ、ソレル騎士たちにも嘆願される。領民たちも聞き耳を立てている。
怒りで魔力が漏れそうだ。
天と地がひっくり返っても、こんなところで魔力を爆発させるわけにはいかない。
俺は兄上やソレル騎士団に囲まれるようにして帰った。
当然、問い質す。
「兄上、どういうことだ?」
バンッ、と威嚇するように壁を叩いたら天井や柱が不気味な音を立てて軋んだ。ソレルの騎士たちが俺を止めるように縋りつく。
「いつの間にか、働きたくない領民が増えた。気にするな」
「エグランティーヌ様は我が儘じゃない」
「お前、馬鹿か?」
ふっ、と兄上は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「エグランティーヌ様を悪く言うな」
「お前がそこまで馬鹿だとは思わなかった」
「兄上、あれではエグランティーヌ様が誤解される」
「お前は俺たちに従うだけ。」
「兄上っ」
「お前は俺たちの言うことを聞いていればいいんだっ」
兄上では話にならない。
所詮、兄上にしても父上の駒だ。
「父上、父上はどこにいる?」
父上を探し、一歩踏み出した途端、母上が焦ったように駆け寄ってきた。
「アロイス、気に留めることはありません」
城下町で何があったのか、母上はすでに聞いているようだ。
「城下町の浮浪者が多すぎる。ダルシアク公爵家への恨みもひどい。エグランティーヌ様も名指しで非難されている」
「アロイス、珍しく口が回ること」
「母上っ」
「あなた、エグランティーヌ様がそんなに好きなの?」
母上に困惑顔で言われ、俺は喉を詰まらせた。
「……っ」
「息子を取られたようで癪に障るわ」
「……そ、そんな話を……」
「アロイスがそんなにエグランティーヌ様をお慕いしているのならば、プレゼントをしたほうがいいわね」
「……そ……それは……」
「ソードマスターになればすべての問題が解決して、エグランティーヌ様と結婚できると思うけれど……臣下の子爵家の次男坊ですからね。力のない親でごめんなさいね」
「そんな話じゃない。いつ領民たちが暴れてもおかしくない」
「ここはダルシアク公爵領ですわ。そんなことは絶対にありません。エグランティーヌ様に認められていないのに随分余裕なのね……困った子」
母上は何か隠している?
母上だけじゃない。
父上も兄上も義姉上も確実に何か隠している。
ソレル騎士団長や副団長、ベテランの騎士たちも一様に口を噤む。
知らないのは俺だけか?
父上、何をする気だ?
……まさか?
まさか、違うな?
違うと思いたかった。
思いこみたかったのかもしれない。