両断されたワイバーンの首から濃い色の血液が流れ出てくる。アレンは剣に付いた血を布で拭ってからリサの方を振り返る。
膝を抱えた姿勢のままうなだれた彼女は肩を小刻みに震わせている。
泣いているのか、怯えているのか。
アレンはそっとリサに近づいて震える肩に手を伸ばした。
びくりとリサが緊張するのがわかる。しかし今度はその手を引っ込めなかった。
左手で強くリサの身体を引き寄せて、右手で優しく頭を撫でる。
「ごめん……怖がらせて」
リサの身体はやけに冷たかった。反対にアレンの体温は高い。
アレンからリサに熱が伝わっているように彼女の身体が温まっていく。それと同時に震えも治まっていく。
リサが顔を上げた。その表情にはかすかに困惑の色が見える。
「どうして……」
リサが呟くように言った。
「どうして怒らないのか」という意味だった。
「当然姿を消したのは自分なのに。勝手にいなくなったのは私の方なのに」という思いがこみ上げてくるがそれを上手く言語化できるほど彼女はまだ人に慣れていなかった。
姿を消したのには理由がある。それが良くなかったと後悔したのは動き出してすぐだった。
戻ろうと思ったがその時にはもう帰り道がわからなかった。
「怒られるかもしれない」そう思った。
少し期待した。
怒られたいわけではなかったが、彼女にはその経験がなかったからだ。
リサは獣人の子として生まれた。
覚えている最初の記憶は暗い穴ぐらの中だ。
父親であるはずの魔物は彼女のことを「餌」と呼んだ。
「自分のための」ではない。「人間をおびき寄せるため」の「餌」だった。
父親は彼女をよく森に放置した。
彼女が逃げないことを知っていた。「逃げる」という概念を知らないから。
森を訪れた人間は彼女を見て声をかける。初めは何と言っているのかわからなかったが次第にリサは言葉を学んだ。
出会った人間は「大丈夫?」とか「どうしたの?」と言っていた。
それは優しい声色だったけどリサはあまりい言葉だとは思わなかった。それを言った人間は大抵その後すぐに父親に食われていたからだ。
役目が終わると父親はリサを穴ぐらに戻した。
与えられるのは最低限の食事だけ。
それ以外父親はリサに興味を示さなかった。温かい言葉をかけられたことも叱られたこともない。
まるで道具のように扱われてきた。
そこに自分がいるのかどうかわからなくなるくらい孤独だった。
「大丈夫」と言う言葉の正しい意味を知ったのはある人に出会ってからだ。
その人はリサの父親を殺した。目の前で。しかしリサは何とも思わなかった。
父親がリサに関心がなかったようにリサもまたそうだったからだ。
父親を殺した人はリサを抱きしめて「大丈夫」と言った。
なぜだかわからないけれどその時初めてリサは安心した。
その人に連れられて訪れたヘキリア高地でヨナ婆に出会った。
短い期間だったヨナ婆はリサにいろいろなことを教えてくれた。
親は子供が良くないことをすると「叱る」のだということを知った。
「それはね。子供が嫌いだからじゃない。その子に正しい道を歩んでほしいからそうするんだよ」
ヨナ婆はそう言っていた。リサにはよくわからなかった。
しかし、アレンとはぐれて初めてそのことを思い出した。
「もしかしたら叱られるかも」と少し期待した。
アレンは叱らなかった。力強く抱きしめて、優しく頭を撫でた。
怒られると思っていたからリサは困惑した。
不満はなかった。身体の中がじんわりと温かくなって。それからすごく心地が良くて。
怒られるよりも何倍も嬉しかったからだ。
「アレン……これ」
リサは握りしめていた手をアレンに差し出す。根が付いた状態のトウリンが握られていた。
「リサ……どこでこれを」
アレンが驚いて尋ねるとリサは自分の後ろの岩を指さした。
アレンは立ち上がり、それからリサにも手を差し伸べて二人で岩の裏に回った。
岩の裏にトウリンが群生している。
「こんなところにも咲いてたのか。……あのワイバーンはこれを食べに来ていたんだな」
納得したようにアレンが言う。しかし何か腑に落ちなかったのか不思議そうにリサを見る。
「どうしてここに咲いているってわかったの?」
アレンが尋ねるとリサは
「匂い」
と答えた。
山頂から戻る途中。リサはトウリンの花の匂いを嗅いだ。
頂上で舞っていた花弁と同じ匂いだったからすぐに分かった。
「私のせいで失敗した」そう思っていたリサは気づけば花を探しに走り出していたのだ。
「そうか……リサ、君は鼻の効く種族なんだね。ありがとう、おかげで依頼は達成できそうだ」
アレンはそう言ってもう一度優しくリサの頭を撫でた。
「あっ」とリサはヨナ婆の話をもう一度思い出した。
「悪いことをしたら確かに叱るけどね、その代わり良いことをした時は褒めるのさ。親にとって子がした良いことは自分のことのように嬉しいものだからね」
ヨナ婆は確かにそう言っていた。
嬉しそうに笑うアレンを見て、リサも少し嬉しくなった。