「まさかそんな……うちの息子が貴族様の……しかもそんな勇敢な仕事をお手伝いしていたなんて」
と喜んだのは肉屋の女主人、ジーカの母親だった。
目には涙を貯めてシャンメの言葉に感激している。
集まった他の者達も口々に三人を褒めたたえた。
「へ、へへ……」
と嬉しそうにジーカたちは笑う。今まで生きてきて誰かに褒められたのは初めてだった。
嬉しそうに、誇らしそうにしている母親を見てジーカは胸が熱くなった。
「昨日の様子だとダンも魔物に騙されていたようだ。しかし、魔物の秘密は暴いた。私たちでこの町を守ろうではないか!」
内に秘めた正義感を滾らせてトーマスが叫ぶ。それに呼応するように集まった人々は歓声を上げた。
おかしかった。何もかもが。
そのおかしさに当の本人たちは気づくことができない。
不自然な熱量が屋敷の会議室に籠っていた。その熱に水を差したのは笑い声だった。
「ぷっ……くく」
僅かに聞こえるかくらいの大きさだったが、人々の目は笑い声の方に集まる。
シャンメが俯いて肩を震わせている。
「シャンメ殿?」
何に対する笑いなのかわからず困惑した様子でトーマスが声をかける。
「くはは……。あー、もう無理だ。耐えられない」
シャンメはそう言うと大口を開けて笑い出す。そこには先ほどまでの貴族らしい品性など微塵も残っていない。
「いったい何がおかしいの!」
そう言って突っかかったのは肉屋の女主人だった。息子の勇敢さを馬鹿にされたと思ったのか、相手が貴族であることも忘れてものすごい剣幕で近づいていく。
シャンメの長い腕が伸びた。
その腕は女主人の首を掴み、軽々と持ち上げる。
悲鳴が上がった。シャンメの口が女主人の首に噛り付いた。
ジュルル……と何かを吸い出す音。そしてごくりと飲みこむ音が部屋の中に響く。
シャンメが手を離し、女主人はその場にばたりと倒れた。
「おかあ……?」
一体何が起こったのかわからず、それでも倒れた母親の元へ反射的にジーカの足が動く。
うつ伏せに倒れた母を抱き起す。首筋に手が触れて、ぬめりと嫌な感触がした。
ジーカの手に真っ赤な血が付いている。どこから? 母親の首から流れ出た血だ。
周囲の人間は異常な展開に息を飲んだ。言葉を発することもできなかった。
「おかぁ……おかぁ!」
ジーカの悲痛な叫びだけが響く。
その頭上で長身のシャンメが口に着いた血を袖で拭って薄気味悪く笑いながら言った。
「不味い」
と。
人々は理解した。目の前にいる男が人ではないと。化け物であると。
「うわあぁぁ!」
誰からともなく悲鳴を上げて逃げようとする。しかし、部屋の扉は閉ざされていて大人の男が押しても引いてもビクともしない。
集まった人々は混乱して騒いだ。
「いったいどういうことだ……貴様は何者だ!」
震えつつトーマスがシャンメを睨みつける。トーマスも混乱した。一体なぜ、自分はこの男をあんなに簡単に信用したのだと脳が疑問を投げかけ続ける。「昨日突然屋敷を訪れただけのこの男を」と。
「ずいぶん楽しませてもらった。やっぱり人間が騙された瞬間てのは滑稽でおもしろい。……だが、方針はすでに変わったのさ。お前らにあの男を殺させることから、俺様が直々に手を下す方向になぁ」
シャンメが言う。口調が変わっている。
にたりと笑う口の中に日本の鋭くとがった牙があるのをトーマスは見た。
「貴様……魔物か」
その言葉にシャンメはもう一度不気味に笑った。
「ようやく気付いたか……魔法は解けたな。なら、お前たちに残った役目は『餌になること』だけだ」
シャンメは魔物だった、それを知った今、トーマスの目には長い手足も青白い肌も異形の姿のように映る。つい先ほどまでは確かにシャンメを人間だと認識していたはずなのに、今はその姿が不気味に見えて仕方なかった。
「『餌』だと……私たちを食うつもりか。そのためにこんなに手の込んだことをしたのか!」
トーマスが叫ぶ。足は震え、腰は抜けそうだった。魔物と対峙した経験など貴族のトーマスにはない。それでも心が折れなかったのは貴族故の埃のおかげだった。
「ああ、そうさ。初めは違った。人間を使ってアイツを殺すつもりだった。アイツはきっと人間を傷つけられないだろうからな。だが、使った人間が出来損ないだったせいで失敗した。アイツはもうここにいない。また探さなければならん。そして見つけてもまた作戦を練らなければならない。実に面倒だ」
シャンメはそう言ってジーカやネス、リーの方に目を向けた。
ジーカは母親に覆いかぶさるようにして涙を流し、他の二人は恐怖に腰を抜かして震えている。
「出来損ないの人間」は彼らのことだった。町で見かけ、言葉巧みに惑わせ、その気にさせて刺客にした。まさか寝込みを襲うだけの簡単な仕事をしくじるとは思ってもいなかった。
「だから俺様は考えた。お前たちを一所に集めて餌にしようと、不味い餌だがこれだけ居れば十分だ。お前たちの血があれば俺はアイツを殺せるだけの力を得る」
そう言ってシャンメが一歩ずつトーマスに近づいていく。トーマスは座っていた椅子に手をかける。戦っても無駄だとはわかっていた。
「ふ、ふざけるな!」
そう言ってシャンメに殴りかかったのはトーマスではなくジーカだった。母親の仇を討つために振り上げられた拳はシャンメに届くことなく軽々と身体を持ち上げられて壁に投げつけられた。
「ジッとしていろ。不味そうなやつは後回しだ。できるだけ美味そうなやつから食っていく」
シャンメはそう言ってまた一歩トーマスに近づいた。
トーマスが椅子を持ち上げる。そして命一杯の力でそれを投げつけた。シャンメにではない。窓に向けてだ。
椅子はガラスを突き破る。
部屋の中に外と通じる逃げ道ができた。その前にはシャンメが立ちはだかっているが、唯一シャンメよりも窓に近いものがいた。
つい先ほど投げ飛ばされたジーカである。
「ジーカ、逃げろ! 町の皆に伝えるんだ!」
トーマスが叫ぶ。痛みを堪えながら窓に向かうジーカが最後に見たのは母親と同じように首に噛みつかれているトーマスの姿だった。