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第3話

「拝啓 先生、ご無沙汰しております。先生が退職されてから本格的に発表された作品は欠かさず拝読しております。とりわけ『○○文學』の『最良の日』は、行間から先生のお声やお人柄までも浮かび上がってきて昔懐かしい思いも抱きつつ毎回楽しみにしております。ところで、突然ですが、冬季休暇をとりましたので、久々に帰郷し、先生の処へもおうかがい致したく……」

 門の傍らで白い息を吐きながらそこまで読んだときだった。再び道路際から人の気配がして、顔を上げると当の古川靖樹が照れくさそうにそこに立っているではないか。私は驚いたが、慇懃でありながら少々いたずらっ気のあった彼の性質を思い出してつい頬が緩んでしまった。

「久しぶりだね。よく来てくれた。さあ、上がって」

「先生、突然にすみません」

 見かけは社会人が板についているようだったが、はにかんだ笑顔を見せると学生時代に戻った。黒い分厚いコートに身を包んでいる。

 玄関に向かいかけて、鍵をかけてあることに気づき、先ほど外に出た掃き出し窓の方に彼を案内した。彼はおとなしくそこまでついてきたが、いざ靴を脱いで少し戸惑ったようなので、さらに彼を室内を通って玄関のほうへと誘った。様子を感じた真知子さんが顔を出し「あら、お客さんですか。言っていただければ準備しておいたのに」と不満そうな表情をする。私と二人きりのときとは違って急に澄ました気配をまとった真知子さんが少々面白く感じられた。

 私が急いでセーターとスラックスに着替えをして客間に降りると、ほぼ同時に真知子さんがあり合わせの菓子皿と湯飲みをのせた盆を持って入ってきた。日本茶にしたのは先ほどコーヒーを飲んだばかりだったからだろう。ガラステーブルを挟んで私と古川は向かい合って腰かけていた。「どうぞお構いなく」と背筋をぴんと伸ばした古川が声をかける。真知子さん本当はもう少し今日の珍しい客のことを探りたげだったが、彼のてきぱきとした話し方に怯んだのか、しぶしぶ部屋を出て行った。

「本当に久しぶりだね。元気でやっていたのかい」

「ええ、おかげさまで」

 そう言って古川は湯飲みの茶を飲んだ。そしてほっと一つ息を吐いた。

「先生もお変わりないようで、安心しました」

 私は何も言わず自分も茶を口に含んだ。

 もしかしたら、ということがふと頭を過る。

 彼は私の義理の息子になっていたかもしれないのだ。私自身には異議はなかった。しかし、曜子は迷いに迷った末、彼を受け容れることはなかった。お互いに苦しかったであろう。今さらながらに私は思いを馳せる。もし、母親の美奈江が生きていれば、もう少しあの子たちの力になってやれたかもしれないが、不器用な父親の私には黙って見守ってやるしかなかったのだ。

 わが娘ながら、曜子は見事に自分で自分の思いを見極め、彼にはっきりと自分の口で告げた。「あなたの妻になることはできません」と。その後も古川は私の研究室をこれまで通りによく訪ねてきたが、曜子のことについては一切話題にしなかった。心は痛んだが、私には双方の思いが分かる分、やはり何も言うことはできなかった。

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