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第4話

 古川は就職活動がせわしくなると、以前より足は遠のいたが、それでも暇を見つけてはよく私の研究室に来てくれた。律義な彼のことだから、曜子のことで私が気に病んでいると慮り、かえって気を使わせてしまっていたのかもしれない。それでも、彼と話をするのは楽しいものだった。私の専門である言語学という学問に、ゼミ生の中でもいちばん熱心なのは彼だった。そして、彼は専攻とはまったく異なる分野である大手スーパーの本社に就職し、その関係で卒業後東京に出て行ったのであった。私はそれで少し安堵を感じたことをここに告白しなければならない。新天地で彼の本当の人生が始まることを願ってやまなかった。


 久しぶりの邂逅でそんな当時の感慨にふけりつつ、互いに穏やかな沈黙の中で茶を飲んでいると、ふいに家の電話が鳴った。私はもうやめようと思いながらも、今日の日まで固定電話を外さずにいた。たまに彼のような教え子からの連絡がくることを配慮してのことだった。携帯ではなくそちらに連絡をくれるのは、多くが元教え子たちだったのだ。

「ちょっと失礼」

 私は言って席をたち、電話のある玄関口に向かった。真知子さんが隣室の掃除をしているようだ。おそらく聞き耳を立てているに違いない。

「はい、松峰……」

「お父さん。曜子です」

 まったく思いがけない電話だった。曜子の高い声が向こうの電話口で弾んでいる。

「あの、突然で悪いけど、今F駅にいるの。これから行くから。会わせたい人がいるの」

 急な話で私はすぐには声が出せなかった。

 客間に戻ると古川が懸念の表情を浮かべていた。電話の声はこの部屋にも多少聞こえる。急な来客があるらしいということは察したに違いない。私は彼に何と告げるべきかと迷った。曜子がこれからこの家に来る。会わせたい人間というのは、当然予想がついた。曜子も大学卒業後、東京の小さな園芸会社に就職し、この街を出て行った。月に一度くらいの頻度で電話連絡をよこすが、仕事もなかなかに忙しいらしく帰省するのは春の連休と盆休みに限られていた。盆休みは、美奈江のこともあって必ず墓参りにくるが、正月はほとんど帰省はしなかった。私も元気でやっていてくれる限りはとくに不満はなかった。

 曜子は美奈江に似ている、だから大丈夫だという、妙な確信があった。


「何かお客さんがあるのですか。出版関係の方とか。でしたらそちらを優先してください。僕はお暇しますから」

 古川が切りだすのを聞きながら、いっそ、そういうことにしてしまえばいいかと私は考えた。そのほうが必ず双方にとって良いに決まっている。しかし私は古川をこのまま帰すのはさびしいと感じていた。なぜなら、今日はそういう日だからだ。

 いい知恵も浮かばずにいるうちに、玄関のベルがまたけたたましく鳴り響いた。曜子たちはバスではなくタクシーを使ったに違いない。早すぎると思ったが、すぐに、煮え切らなかった自分のほうに嫌気がさした。

「はーい」

 すぐに返事をして玄関口に向かう真知子さんの後を追って、私も再び部屋を出た。

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