その日の晩、彼は意識を取り戻す事は無く、時折、何かに怯えるようにうなされていた。傷のせいなのか、高熱が出て、カタフィギオから医師を呼んだ。彼を診た医師が言う。
「おそらくは肩と足の傷のせいで、熱が出ています。薬を飲ませ、熱を下げないといけません。」
そう言われて私は頷く。
「放って置いても良いのでは?」
そう言ったのはシャネスだ。確かに、彼が何者なのか分からない今は、彼がこのまま死んでくれれば厄介事は無くなる。
でも。
私には何故か彼を放ってはおけなかった。ずっと熱にうなされ続ける事。その辛さを私は身をもって知っている。シャネスはこの者を疑ってかかっている為に、彼の世話をしたがらない。けれど私がやろうとすると、私にやらせる訳にいかないと思っているのか、嫌々だが彼の世話をする。
「ミア様、この者の傍に居なくても良いのですよ、世話なら私が…」
シャネスはそう言うけれど、彼の正体が知りたかった。私が皇都を追われた後、皇都はどうなったのだろうか。彼ならそれを知っている筈だった。兄の圧政はこの最果ての地にまで轟いている。
その日、彼が目を覚ます事は無かった。熱によってうなされ、苦しそうに顔を歪めている彼を見ながら私はシャネスが席を外した時に、彼の汗を拭った。不意に彼の手が私の手を握る。驚いて彼を見る。けれど彼は熱にうなされているのか、瞳を閉じたままだった。シャネスが戻って来て、その様子を見て驚き、私の手を彼の手の中から離そうとしたけれど、上手くいかず、結局、そのまま私は彼に手を握られて過ごす事になった。
「切ってしまえば良いのですよ、そんな無礼な手は。」
シャネスはそう言っているけれど、私はそんなシャネスに笑って言う。
「倒れて意識が無い時に、誰かに手を握っていて貰う事、それがどれだけその人の支えになるか、私は知っているの…だからシャネス、そんな事を言ってはダメよ。」
シャネスは私にそう言われて、溜息をつく。
「ミア様は優し過ぎます。どこの馬の骨かも分からない男なんて…」
ブツブツ言うシャネスに笑って、私は彼に視線を移す。幾分、落ち着いただろうか。彼に手を握られているせいで、私は身動きが取れなかったけれど、彼の呼吸が幾分、落ち着き、寝息が整って来たように思う。
その日はそのまま、私は彼の横になっているベッドに突っ伏して眠ってしまった。気付けば傍にはシャネスが居て、私の肩には上着が掛けられている。彼の手は私の手を握っていたけれど、力が抜けていて私は彼の手の中から自分の手を抜く事が出来た。手を離してみて、ふと彼の手は大きく温かいのだと気付く。
私は皇女だ。だからこそ、こんなふうに私の手を握って来る者など、居なかった。父上が亡くなってからは兄が即位した事で、私は北の塔へ幽閉されていて、人との接触はほとんど無く、そこから脱してからは、常に周囲の人間は私を皇女として扱う人ばかりで、いつも私との一定の距離感を持って接して来る人ばかりだった。それが悪い訳では無いけれど、彼に手を握られて、私は初めて自分がとても寂しかったのだと気付いた。眠っている彼を見ながら少し微笑む。シャネスは彼を疑っているようだけれど、私にはどうしても彼が悪い人には思えなかった。
夜が明けようとしている。シャネスは私の傍で寝息を立てていて、私はそんなシャネスに自分に掛かっていた上着をそっと掛ける。
シャネスは茫然自失としていた私を北の塔から連れ出し守りながら、ここ最果ての地、エンドオブグリーンまで連れて来てくれた。腕が立ち、皇女である私に、今では私自身に忠誠心が高い。ここへ来てすぐの頃、私は本当に自分自身の事も出来ない状態だったのを、良く面倒を見てくれたと感謝している。少しずつ立ち直り、更に私をカタフィギオに連れて行ってくれて、ハイラムやそこで活動している人々と出会い、私は自我を取り戻した。
けれどいまだに私は皇都へ戻る事が怖いのだ。あの兄といつかは対峙しなくてはいけなくなる事も分かっている。でも本当にそんな日が来るだろうか。眠っている彼の顔を見る。整った顔立ち、体も大きく、着ている衣服も上等なものだ。ジャノヴェール皇国の紋章が入ったマント。彼が身に付けていたものだけを見ても、彼は皇室と、兄と何らかの関係があるのは分かる。
でも。
彼は逃げて来たのでは無いだろうか。そんな気がしていた。皇都で、この国の各地で反乱を起こしている反皇帝派の人たちと同じように。もし逃げて来ていたとするなら、彼を受け入れる事も出来るだろう。何にせよ、彼が意識を取り戻し、彼に事情を聞けるようにならなければ、何も分からない。
◇◇◇
それから三日間、シャネスと共に私は小さな山小屋で彼の面倒を見た。その間中、彼はずっと熱を出してうなされていた。こんなに熱が続くと死んでしまうのではと不安になる程だった。
熱を出してうなされている彼の体を水で浸した布で拭き、いつ目を覚ましても良いように食事の準備を怠らず、昼夜問わずに彼の看病をしていた。シャネスはそんな私にいつも、そこまでする必要性は無い、放って置いても大丈夫だと言った。けれど私は彼の看病をした。
その理由は彼の体にある傷のせいだ。汗をかいた彼の体を拭く時、彼の体には無数の傷跡がある事に気付いた。もう治っているその傷たちは、明らかに誰かに意図的に付けられたものだ。そして私はそのいくつもの傷の中に見覚えのあるものがあった。
兄からの虐待…躾と称して行われるその行為の中に、兄の気に入っている躾があった。それは無限に打たれる鞭打ちだ。兄は私の足に、腕に、時には背中に、鞭を打った。鞭が打たれ、酷いと肌が裂け、更にその上に鞭を打たれる。鞭で打たれた傷は真っ直ぐに伸びていて、まるで肌に線を書いたように残る。
そんな傷が彼の体のあちこちにあった。一番酷いものは彼の背中と、胸元だ。いくつもの白い線が彼の体には走っていた。それを見て、私はある種の確信を持っていた。彼は兄が差し向けた者では無く、兄から逃げて来た者だと。