そうして三日経った、ある夜、彼が不意に目を覚ました。目を開けた彼は辺りを見回し、その視線を彷徨わせている。
「大丈夫ですか? 声、聞こえますか?」
そう聞くと彼の彷徨っていた視線が、私を捉える。その瞳は吸い込まれそうな碧眼だった。漆黒の髪、碧眼、恐ろしく整った顔立ち…。
「…ここ、は…」
彼はそう言葉を発したけれど、喉が渇いているのか、声が掠れている。
「シャネス、お水を。」
そう言うとシャネスが頷いて、部屋を出て行く。私は彼に言う。
「今、お水をお持ちします。少しそのままで。」
シャネスが戻って来る。私は彼の体を起こそうと試みる。
「ミア様、私がやりますので。」
シャネスがそう言って代ろうとしたけれど、私は構わず、彼の上半身を起こす手伝いをする。上半身を起こした彼はクラクラしているのだろう、その手を頭に当てる。
「ゆっくりで構いません、お水を。」
そう言ってお水の入ったコップを差し出す。彼が手を伸ばし、掠れた声で言う。
「すまない…」
そう言って私の手ごと、コップを持ち、そのまま口に運んだ。ゴクゴクと音をさせて水を飲み干した彼は、息を付き、言う。
「もう一杯、頂けるだろうか。」
その声は澄んでいて、淀みが無い。シャネスにコップを渡す。シャネスは少し不安そうに見ていたけれど、私はシャネスに言う。
「お水を。」
私がそう言えば、シャネスは従う外ない。シャネスが部屋を出て行く。部屋の入り口にはハイラムが配置した騎士が二名、控えている。すぐにシャネスが戻って来る。そして同じように水の入ったコップを渡すと、今度はコップだけを持ち、その水を飲み干す。
「どうですか、落ち着きましたか?」
そう聞くと彼の青い瞳が私を見る。
「ここは…?」
そう聞かれて私は言う。
「ここは最果ての地、エンドオブグリーンです。」
そう言うと、彼は私から視線を外し、私の言葉を反芻する。
「最果ての地…エンドオブグリーン…」
部屋の入口の騎士に目配せする。それだけで何を言わんとしているのか伝わったのか、騎士の一人が頷き、その場を辞す。ハイラムに知らせに行ったのだろう。彼を見て言う。
「目を覚ましたばかりで悪いのだけれど、あなたの名前を聞かせて貰える?」
そう聞くと彼が視線を空に彷徨わせて、呟く。
「俺の名…、俺の名は…」
彼は視線を彷徨わせたままだ。…もしかして、覚えていない? そう思った時、彼が頭を抑える。そんな彼を見て言う。
「自分の名を思い出せないのですか?」
そう聞いても、彼は反応せず、俺の名は…と繰り返している。そんな彼に言う。
「無理に思い出さなくても良いですよ。」
そう言いながら彼の肩に触れる。私に触れられて彼は私を見る。
「すまない…」
そう言った彼の表情が寂しそうで、胸が締め付けられるような感覚になる。
◇◇◇
「記憶喪失、ですか…」
今は山小屋にハイラムが数人の騎士と医師を連れて来ていた。彼が横になっている部屋から離れ、話をする。彼が目を覚ました事を聞き及んだハイラムが急いで山小屋に駆けつけてくれた。彼と交わした会話の内容を話すと、ハイラムも彼を
「その者が記憶喪失の振りをしている可能性は?」
ハイラムに聞かれ、私は言う。
「恐らく、その可能性は低いと思うわ。」
そう言いながら彼の居る部屋を見る。彼は今、ハイラムが連れて来た医師の診察を受けている。
「記憶を失っているとすると…その者からは何も聞けないですね…」
ハイラムがそう言う。
「えぇ、そうね。」
そう言いながら彼を介抱していた間に、彼の体にあった無数の傷跡の事を思い出す。
「意識が戻ったのなら、彼をカタフィギアに連れて行くのは?」
シャネスがそう提案する。ハイラムが難しい顔をする。
「身元も分からず、もしかしたら間者の可能性もある今、その者をカタフィギアに連れて行くのは無謀だろう。」
そう言ったハイラムにシャネスが抗議するように声を荒げる。
「ですが! このままあの男をこの山小屋に…」
そう言ったシャネスが言葉を止めたのは、私が手を上げたからだ。
「シャネス、大きな声は控えて。」
そう言うとシャネスが下を向いて、下がる。
「失礼致しました。」
ハイラムの言う事も理解出来る。カタフィギアは私たちの活動拠点だ。いわゆる心臓でもある。そこへ記憶を失っているとは言え、彼が誰なのかも分からない以上は、連れては行けないだろう。
「とにかく、医師の診断を待ちましょう。」
私がそう言うと、皆が頭を下げる。
◇◇◇
医師の診断は記憶喪失だろうというものだった。
「頭をどこかで強く打っているのでしょう。いくつか質問をしてみましたが、彼は自分自身に関する事を覚えていない様子です。」
そして医師は溜息をついて言う。
「生活に関する事や、文字や、時間の感覚などはきちんとありましたし、理解もしています。簡単な計算問題も難なくこなしました。知能に関しては何の問題も無いどころか、非常に優秀です。体の方も診察しましたが、肩の傷や太ももの傷は刀傷で間違いありません。頭の傷はどこかで打ったか、殴られたかしたものだと思われます。」
そう言われて私は聞く。
「命に別状は?」
そう聞くと医師が言う。
「肩と太ももの傷がまだ閉じていない為に、医師としては彼を動かす事はお勧めしません。傷が開けば大量に出血するでしょう。傷が塞がるまでは動かさない方が良いと思います。頭に傷を負っているので、その後遺症によっては急変する事も考えられますが、今のところは大丈夫でしょう。」
そう言われてその場に居た全員が考え込む。それぞれに思惑は違っているだろうなと思う。
「では、彼の傷が塞がるまでは、ここで看病を。」
私がそう言うと、シャネスが私を見て、抗議の視線を送る。
「仰せの通りに、皇女様。」
ハイラムがそう言うと、その場に居た騎士たち全員が頭を下げる。
ハイラムが騎士たちを呼び、配置について指示を出している時、医師が私に近付き、言う。
「少しよろしいでしょうか、皇女様。」
そう言われて私は頷く。
「えぇ。」
医師はハイラムたちに背を向けて小さな声で私に言う。
「彼の体を診察した時に見た傷跡なのですが。」
そう言われてあの傷跡を思い出す。
「えぇ、あれは鞭打ちの痕でしょうね。」
私がそう言うと医師が頷く。
「かなりの量の傷痕でした。あれだけの鞭打ちを受けているのは、拷問にかけられた事がある者か…」
そこまで言って医師が言葉を止める。
「罪を犯した者である可能性があるという事ですね。」
罪を犯した者は罰として鞭打ちの刑に処される事がある。けれど、鞭打ちの刑はもう長い間、行使されていなかった。それは何故か。
鞭打ちにするくらいなら、処刑する。それが兄のやり方だったからだ。
体に痕は無いけれど、私はその痛みを覚えている。肌が切り裂かれていく感覚。血を流していても打たれる鞭。肌が裂かれた箇所に打たれる鞭は気絶してしまう程の痛みだ。その痛みを思い出し、私は背筋がゾクッとした。鳥肌が立ち、寒く無いのに微かに震える。
「いずれにせよ、彼の事はしばらくここでみます。」
私がそう言うと、医師が頷く。
「私も小まめに通う事にします。」