マルティナは私が居ない間の事を話してくれた。マルティナが私の身代わりでここ北の塔を出る事はほとんど無かったそうだ。
「皇帝陛下は私が皇女様では無い事を知られる事を恐れておいででした。」
もう皇都中に広まっているであろう、消えた皇女の噂。それを封殺してまで、兄はその座にしがみついているのだ。
「私の姿を誰にも見せないように、ここへ幽閉はしましたが、ここでの生活はそれ程、苦しいものではありませんでした。」
そう言って微笑むマルティナ。でもきっと辛かったに違いないのだ。
「本物の皇女様がお戻りになったのでしたら、私はもう用済みかもしれませんね。」
マルティナがそう言う。私の身代わりなのだから、不要になったら処分する……兄らしい残虐な考えだ。
「そうならないように尽力しましょう。」
私がそう言うとマルティナは微笑んで言う。
「ありがとうございます。」
そしてマルティナは少し会釈をすると、自身が使っていたであろう机に行くと、一冊の本を持って来て、私に渡す。
「これは?」
そう聞くとマルティナが言う。
「私がまとめた皇都での動きです。貴族たちの発言や見聞きした事を書き留めてあります。お役に立つと良いのですが。」
それを受け取り、中を見る。私が居なくなり、マルティナが身代わりとしてここへ来てからの事が書かれている。不穏な動きをしている者、従順そうに見えてもその機会を窺っている者、実際に反旗を翻し散った者……。
「ありがとう、助かるわ。」
◇◇◇
俺は皇帝からの命令でとある部屋に来ていた。ここはいわゆる「躾部屋」だ。俺が皇都から逃げ出して、その咎をバシルが一身に受けたにも関わらず、トラヴィスも腕に火傷をしていた。連れ戻された俺にも俺が不在にした事への償いはさせるだろうとは思っていた。だがもう俺は怯えてはいなかった。俺には仲間が居る。それも俺が気付かなかっただけで、俺の周りにはそういう人間がたくさん居たのだ。今、皇帝のすぐ後ろに控えているボゴスもそうだ。
「拘束しろ。」
皇帝がそう命じ、衛兵たちが俺に近付く。
「皇帝陛下。」
ボゴスが下を向いたままそう声を掛ける。
「何だ、ボゴス。」
さすがはボゴスだ。皇帝の気に障らないように振る舞うのが上手い。
「この者は利用価値がまだあります故、お体に傷をつけますと、今後の縁談に支障が出るかと。」
ボゴスがそう言うと、皇帝は笑い、言う。
「そうか、そうだな。」
そして近くに居た侍従が持っていた鞭を奪い取ると、言う。
「じゃあ、目立たない背中にしようじゃないか。」
鞭は何度も振り下ろされ、俺の背中を切り裂いた。鞭についた俺の血が躾部屋の壁にその模様を作る程に。俺は両腕を固定され、身動きが取れなかった。どれくらいの時間が経ったのか、皇帝は鞭を投げ捨て、部屋を出て行った。こんな事ごときを恐れて、俺は今まであの男に従っていたのか? もっと上手く立ち回る方法はあったんじゃないのか? 俺が周囲の人間の心無い言葉に傷付いて自暴自棄になっている間にも、したたかに動き回っている人間は居たというのに。
いや、後悔しても何も変わらない。これから先の事を考えるんだ。
そう思い直したが、不安はあった。ミアはどうしているだろう? ミアもあの男から鞭打ちをされた事を話してくれた。こんなに痛い思いをミアもしているかもしれないと思うと、自分が如何に無力かが分かる。
だからこそ、だ。だからこそ。俺は立ち上がらないといけない。
治療を受け、部屋に帰される。その間も俺は考え続けた。ボゴスは何と言っていた? 利用価値があると、今後の縁談に支障が出ると、そう言っていた。縁談……。
◇◇◇
痛みに耐えながら服を着替えていると、ボゴスが部屋に来た。
「良く耐えたな。」
ボゴスはそう言うと少し微笑む。そして言う。
「さっき私が口にしたように、お前には縁談が持ち上がっている。」
そう言われて俺は苦笑いする。
「駒としての利用価値を高める策か……。」
そう言うとボゴスが頷く。
「そうだ。」
ボゴスは俺に近付き言う。
「相手は隣国であり強国のサイノックスだ。」
ボゴスを見る。
「それにも仕掛けがあるのか?」
そう聞くとボゴスは意味ありげに笑い、言う。
「まぁ今に分かる。」
このボゴスがそう言うのだから、ただの縁談では無いだろう。ボゴスは姿勢を正して言う。
「ただの縁談だ、その先へは進まないから安心しろ。」
その先へは進まないと、ボゴスはそう言った。つまりはその縁談で隣国サイノックスの使者や姫、もしかすると王までもがこの皇国へ入る事、それ自体が目的なのかもしれないと思う。
「その事について、サイノックスの縁談相手は承知しているのか?」
そう聞くとボゴスは笑う。
「サイノックスの姫はちゃんと事態を把握しておられるだろう。だがあの炎帝を騙す必要がある。」
そう言って俺を見る。
「だからお前にも協力はして貰うぞ。」
◇◇◇
カツカツと足音がする。
「皇女様。」
そう言って走って来たのはトリスタンだ。
「どうしたのですか?」
そう聞くとトリスタンが言う。
「炎帝が来られます。なので、こちらの部屋へ。」
トリスタンにそう言われて私は一人、トリスタンの案内する部屋に入る。それぞれが別々の部屋に入れられているという、体裁を整える為だ。牢の鍵をかけて、トリスタンが言う。
「ご辛抱ください。」
私は部屋にあったベッドの上に腰掛け、上部にある小窓を見る。空は青く、雲が流れている。ここに居た時に眺めていた、あの景色だった。
「ミア。」
静寂を破るように聞こえて来たのは兄の声だ。小窓から視線を移す。兄は真っ赤なマントを身に付け、一見、風格のあるような佇まいだ。でも私は知っている。その心の内は誰よりも卑屈で誰よりも怯えている事を。兄は傍に仕えていたトリスタンに目配せして、トリスタンに牢の鍵を開けさせる。兄はゆっくり私に近付いて来て言う。
「今までどこに居たのかと思えば……最果ての地に居たのか。」
そう言って私の前に立つと、私の頬に触れる。
「大事な妹であり、この国の皇女……そしてこの俺の、皇帝としての地位をお前の存在で輝かせる事が出来る……まさに近付いて来る光、だな。」
兄は一体、何の事を言っているのだろう。近付いて来る光……? 兄は私の顎に手を添えて私の顔を上げさせる。
「この俺の大事な妹には、きちんとした躾をしないといけないな……」
そう言ってニヤッと笑う兄。その時、兄の後ろに控えていたボゴスが言う。
「サイノックスより使者が来ております故、お時間はそれ程ありません。」
兄は忌々しそうに舌打ちをし、私から離れ、踵を返す。
「しっかり見張っておけ。」
トリスタンにそう言うと、兄が牢を出て行く。息が詰まる程の嫌悪感だった。この嫌悪感はどこから来るのだろう。躾と言った兄からは、それまで私が受けていたものとは異質の何かを感じた。数人の侍従と共に出て行った兄の足音が遠ざかる。
「ミア様。」
そう言って居残っていたボゴスが片膝を付く。
「少しの辛抱をお願い申し上げます。出来る限りの事は致します故。」
ボゴスはそう言って私を見上げる。
「ご無事で何よりでございました。」