目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第5話 どこでも書斎

 やばい!やばい!やばい!

 ラジオをメインに活動している放送作家、牧原隆一は焦りに焦っていた。つい昨日の夜、やらかしたばかりである。まさか翌日の朝に再びやらかすわけにはいかないのだ。

 “やらかす”とはラジオ業界で遅刻や、原稿を飛ばしてしまうことを言う。飛ばすとは本番までに間に合わないことであり「落とす」とも言われる。

 牧原は、ゆうべの若者向け番組「情ジャン」の生放送に、台本が間に合わなかったのだ。厳密に言うと、生放送中に順次1ページずつメールで送ったので、間に合ったと言えなくもないのだが。

 地下鉄の扉がゆっくりと開く。まだ始発からあまり時間がたっていないため、乗客はあまり多くない。彼は急いで座席に座ると、ノートパソコンをヒザの上に広げた。

『玉木弘行の笑顔でおはようさん』

 東京でも聴取率トップを走るAM局「ヒビヤ放送」の朝の生ワイドだ。

 月曜から金曜までの週に5日、通勤通学前のひと時に楽しい話題と音楽を!

 そんなキャッチフレーズで有名な、ヒビヤ放送の名物番組である。

 牧原は、略して『笑顔さん』の、今日火曜日担当の作家だ。つまり、今から約一時間後に放送がスタートする生番組の台本を、まさに“今”書いているのだ。

 仕事をサボっていたわけではない。いわゆる“遅筆”というやつだ。牧原はとにかく台本を書くのが遅いのである。

 地下鉄が動き出す。

 ガタンと揺れた拍子に、隣のキーを叩いてしまう。

 ああ効率が悪い!

 とは思うものの、遅筆の彼にとって地下鉄の車内は書斎のようなものだった。いや、地下鉄だけではない。タクシーや都バスの中も同様だ。自宅で台本を書き上げるのが苦手な彼にとって、移動中の執筆は日常茶飯事と言えよう。

 目的の駅に到着するやいなや、ノートPCを小脇に抱えて飛び出す。さすがの彼でも、地下道を走りながら台本を書くことはできない。

 地上への階段を、体操選手のように二段飛ばしで駆け上がる。

「おはようございます!」

 そう叫ぶと、ヒビヤ放送の裏口から建物内へ飛び込んだ。

 まぁいつものことなので、警備員たちも大して驚いてはいない。

「ああ、牧原さんですな」

「今日もギリギリですねぇ」

 通用口を風のように通り過ぎていった彼に、笑顔で視線を向けただけである。

 そして牧原は、扉が開いていたエレベーターに飛び込んだ。

 生放送用のスタジオがある5階のボタンを押す。

 その瞬間に再びノートPCを開いた彼は、最後の数行を猛スピードで打ち込んでいく。

 リンとベルが鳴り5階に到着、エレベーターの扉がゆっくりと開く。

 その一瞬前、エンディングの最後、お別れの言葉を台本に打ち切った牧原はパタンとノートPCを閉じた。

 息を整え、生放送の準備に勤しんでいるデスクのバイト君にひと声かける。

「おはよう」

「牧原さん、おはようございます!」

 何事もなかったかのように軽く右手を上げると、牧原はディレクターと出演者が待つスタジオのサブコントロールルームへとゆっくりと歩いた。

 ふぅ……今日もなんとか間に合った。

「牧原くん、おはよう」

 サブの椅子に座り、生放送の進行を確認していたらしいディレクターの金井が顔を上げた。

「おはようございます」

「で、今日の台本は?」

「ちゃんとここにありますよ!」

 ニッコリと笑うと、牧原は小脇に抱えたノートPCをトントンと叩いた。

「すぐにメールで送りますね」

「よろしくね。でも牧原くん、家を出る前にメールした方が楽じゃない?」

 いぶかしげに首をかしげる金井に、苦笑を向ける牧原。

「いえ、ここに着くまでに何か面白いことを思いついたら、すぐに書き込みたいですから」

 まさか、地下鉄どころかエレベーターの中でまで書き続けていたとは言えない。

「君はお手本みたいな作家だねぇ」

 そう言って、パーソナリティの玉木弘行が優しげな笑顔を向けた。

 リスナーさんたちはこの笑顔を待っているんだ。

 自分の遅筆がいやで作家をやめようと考えたこともある彼だったが、こんなことがあるたびに、また続けようと決心する。そんな毎日の繰り返しだ。

 でも、昨日の「情ジャン」はまずかったよなぁ。

 牧原の脳裏に、デスクバイトの伊織美鈴の顔が浮かんだ。

 きっと怒ってるよなぁ……今度お土産にケーキでも買って行くか?

 牧原の大変な日常も、こうして続いていくのである。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?