「……あと少しというところで!」
アーノルドは途中までうまくいっていた策が突然暗礁に乗り上げたことを悟って頭を掻きむしった。
あと少しで成功する。
そこで安堵してしまったのが今回の失敗を招いた油断だと己を激しく叱責しながら落ち着きを取り戻した。
今回の失策の原因を探るべく、秘書にコーヒーを持たせた。
また一から計画を立てなければいけない。
そんな焦りだけが表情から読み取れた。
「旦那様」
「いつもすまないね。私の我儘に付き合わせて」
アーノルドは貴族社会の中では地位の低い子爵家の三男坊である。
実家を兄が継ぎ、下の兄がサポートに回ることで完全に家から用済みとなり、男爵家との顔つなぎ役として放逐された。
今は貧乏男爵家を実家のコネなしで建て直さなければならず、妻付きの使用人マーシャと共にとある事業に参加していた。
それが城下町の土地開発だ。
そのためには立ち退きを願い出なければならない店舗が多くあり、なぜかそのほとんどが第一王子派と懇意にしている貴族が経営する店舗であることを後になって知るアーノルドであった。
初め、この話を持ってきたのは実家を継いだ兄だった。
男爵家を継いでから随分と疎遠になっていた兄が『いい話がある』と会いにきた。
昔から馬が合わなかったあの兄が、出来の悪い弟に笑顔を携えて会いにきたのをもっと警戒すればよかったと今になって後悔しても遅いことだ。
「マーシャ。後少しの辛抱だ。ライラの復活、それさえ済ませばこんな悪事からは手を引くと誓おう」
「旦那様。これ以上手を汚す必要ありません。お嬢様は旦那様とご一緒になられて最後の一瞬まで笑顔でいられました。ご病気は悲しいことでしたが、いたずらに死者の体を冒涜する外法になど頼らずとも!」
「すまないが、ここで手を引くことは君も巻き込むことになる。僕がこの事業に参加したことを雇い主はおろか、他の参加者も知ってしまっているからね。逃げられない。これがある限り」
アーノルドは引き出しを開け、禍々しく輝く宝石をはめた指輪を取り出した。
兄が前払いとして渡してきた反魂の指輪。
これだけではなんの効果も得られないが、成功報酬として支払われる賢者の石があれば、亡き妻を復活させられる。
そう言われてこんな悪事に手を貸す経緯があった。
そしてこの指輪を持ってると、まるでこちらの居場所が雇用主に筒抜けになっているような感覚があった。
この指輪は参加者を逃がさないための監視の目にもなっているのだろう。
「まずはこの失敗を指輪の主人はどのように捉えるだろうか」
「罰を受けるでしょうか?」
「わからない。初めから難しい依頼であることは確かだ。たった一つの失策で面目が潰れる計画ではないだろう。だが、この納期の短さを考えるにあまり悠長にしている時間はなさそうだ」
納期は雨季が明けた後。暑苦しい真夏の祝日前までと記されている。
雨季はとうに過ぎ去り、涼やかな夏の気配がすぐそこまできている。
アーノルドはこの失策をどう挽回すべきか考えているところで、マーシャからなんの取り止めのない話題を振られた。
「旦那様、城下町の宿屋に面白い逸話が出回っているのをご存知ですか?」
「逸話?」
少し気分を変えようと気を利かせてくれたのだろう。
アーノルドは昔から気が利くマーシャを妻と同様に好んでいた。
話を聞いて、今の自分の葛藤を解消すべき策があるのかもしれないと予約を入れる。
城下町の、それも裏通りにある寂れた宿屋なのに随分と混み合っていた。
そこにある魔法の水は、飲んだ人物の疲労を軽減してくれる効果があるそうだ。
アーノルドはそれを頼りに足を運び。そしてそれに預かる栄誉を得た。
「不思議と気持ちが落ち着くのを感じるな。これはなんだ? ただの水、というわけではないな」
「だからこそ、魔法の水と言われています」
胸の奥が熱く昂る感覚があった。
久しぶりに女を抱きたくなる感情がアーノルドの一部に血液を送り込む。
マーシャも同様だったのだろう。
ちょうどここは宿屋で、取り置きの部屋がある。
壁の薄さが気になるが、一度始まってしまえば二人を止める者はいなかった。
熱が冷め、冷静な気持ちを取り戻す。
一時の過ちで大切な女性に手をかけてしまった罪を懺悔しながら、それでいて妙にすっきりとした気持ちになっていることにアーノルドは気がついた。
「マーシャ」
「はい、なんでしょう旦那様」
「もっと早く気がつくべきだったのかもしれないな」
マーシャは何を? とは聞き返さない。
この貴族社会の腐敗に、本当はもっと早く気がついていた。
ただ、それに立ち向かう勇気がなかっただけだ。
兄と比べてひどく能力が劣るアーノルド。
しかしそれはただの甘えだということをライラやマーシャを通して教わった。
「僕はこの事業から手を引くよ」
「それは困るかなぁ?」
この場に二人しかいないはずの空間に、見知らぬ声が響いた。
いつの間にか室内には招いていない第三者が混ざり込んでいた。
「お初にお目にかかりまして、かな?」
「貴様は?」
男か女かわからぬ華奢な肉付き。
しかし服の隙間から見え隠れする肉体は引き締まり、鍛え上げられているのがよくわかる。
顔立ちは涼やかで美麗。
しかしこめかみの先から生える捻れた角がその美を台無しにしている。
背中には竜を思わせる鱗を纏った翼を生やし、口角から覗かせる鋭い犬歯がその人物が何者であるかを物語っていた。
魔族!
歴史上多くの表舞台に姿を現し、最も人類を殺してきた最低最悪の存在。
かつての王国はその甘言に唆され契約を結ばれ、魂を永劫の牢獄に囚われ続けているという。
その美麗な顔立ちの悪魔はアーノルドの心境などお構いなしに名乗りをあげた。
「僕の名はグリード。君たち人類からしたら滅ぼすべき適性存在者、だなんて思われてるけど真実は全くの逆だよ?」
「貴様ら魔族の言うことには耳を貸すな、歴史書にはそう紡がれている」
「ひどいなぁ。僕たちはただその場に居ただけなのに」
ただその場に居ただけで、多くの人類が死んだ。
彼らにとって人類は暇つぶしの玩具に過ぎない。
それが今、自分に向けられている恐怖にアーノルドは身震いしてしまう。
「それに、契約はもう成立している。成功報酬は死者の蘇生。失敗したら君の魂をもらう。そう言う契約さ」
契約書!
悪魔は契約の宿命を歩む存在。
相手が誰かわからぬ書類にサインをしたのがアーノルドの運の尽き。
「僕の子供がね、王妃の胎から生まれたんだ」
「お前は一体、何を……」
言っている?
そこまで考えて、アーノルドは意識して言葉が紡げないことに気がついた。
「契約は途中で破棄できないよ、アーノルド。ああ、マーシャ。僕に魔法は通用しない。そして僕の姿も君とそこの旦那様にしか見えてないんだ。だから騒いで人を呼んでも無駄だよ?」
マーシャは行動の全てを見透かされて、動きを止めた。
「いい子だね、マーシャ。そしてアーノルド。君に任せた計画は魔族が王国に進出する礎になる。納期は気にしなくていい。ゆっくりと、でも確実に遂行してほしいんだ。わかるね?」
「あ、ぐが!」
「僕の催眠に抵抗しようとしているのかな? かわいいね、アーノルド。でも無駄だよ、残念だけど僕のレベルは600。成長限界が300で止まる人間には僕の魔術に抗う術は……」
「すんませーん、シーツ替えにきましたー」
そこで、突然扉が開いてグリードは硬直した。
正真正銘、全く予期していない闖入者の乱入に誰もが思考を止めてしまう。
ただ一人、場違いな訪問者を除き。
あれ? ここには人払の結界が張ってあったはずだけど。アレェ?
幾重にも重ねた魔法陣はこの室内を現実世界から切り離す、本当の意味での密室。
レベルが600あるグリードにとって、ここへの闖入者は同じレベル、もしくはそれよりも上位の存在と認めることになる。
しかし入ってきた少年にはそんな気配もオーラもなかった。
ではどうして入って来れたか?
グリードには確かめる術もない。
「窓開けっぱなしで行為はいただけないっすねー。あ、そこのお姉さん、ちょっとどいてくださいね。掃除もしちゃうんで。おいしょお!」
ベリベリベリ!
闖入者、植野耕平はグリードが一ヶ月かけて仕込んだ魔法陣を最も容易く剥がしてゴミのように丸めた。
そしてグリードが一年かけて用意した触媒をゴミ袋にまとめて捨てた。
人払いの結界も、思考を誘導するお香も。全部ゴミ袋の中。
これの準備に1000万ゴールドの資金投入されているなど知らず、室内に放置されたゴミと同様に捨てられていく。
グリードは頭がおかしくなりそうだった。
国家転覆どころの話じゃない。
存在を否定されている気分に殺意がみなぎる。
こいつは今ここで殺す!
ただでは殺さない、一生なぶって魂の一片をすり潰すまで玩具にしてやる。
そんな決意が宿るほどの惨めさがグリードの体内を駆け回る。
「それじゃ、お掃除終わりましたんで、ごゆっくりー」
「待て!」
少年は去る。その後を追跡しようとして、グリードは手を伸ばす。
が、その手が少年を引き止めることは叶わなかった。
「は?」
足に夥しい数のミントが絡まっている。
これのせいでグリードは室内に縫い付けられてしまった。
そしてそれがただのミントではないことにすぐに気がついた。
グリードの足元から伸びたそれは恐ろしい勢いで魔力を吸い上げている。
雑草としての知識しかないグリードは蹴散らしてしまおうと足を振るが、それは消え去るどころか順調にその数を増やしていた。
【繁殖力:極】のなせる技である。
最近急成長した【吸魔力:中】でグリードの内側に張った根からぐんぐん吸い上げる。
それは敗北を認めるほどに恐ろしい勢いで1000年生きた魔族の全てを奪った。
「そんな、僕の計画が! こんなミントなんかにぃいいいい!!」
ミントは気がつけば恐ろしい繁殖力でグリードを覆い尽くす。
最後の一滴まで魔力を吸い上げられたグリードは、その身を血のように燃える赤い宝石に変えた。
世の魔道具技師が賢者の石と称える存在は、なんと魔族が討伐された後に残される魔石だったのだ!
アーノルド達は目の前で起こった現実を脳で理解することができず、その場で呆け続ける。
「僕たちは、助かったのか?」
「わかりません……けど、今は腰が抜けて動けません」
「はは、僕もだ」
二人は今立ち上がれば生まれたての子鹿のように震えてしまうだろうくらい脱力し切っていた。
そして脅威が去った事による安堵によって先程の続きを始めた。
生の実感が欲しかったのだ。マーシャはアーノルドを受け止め、行為のあと宿を引き払った。
「これがあればライラを生き返らせることができるのか」
「旦那様。私のことはお気になさらず」
「いや、しかし」
ライラの没後、アーノルドを支えたのはマーシャであった。
男爵家の政務を支えているのは実質マーシャである。
一線を越えてからは、節度を守ることなく混ざり合い、気分がすっかりマーシャに傾いた頃。
アーノルドは宿屋で拾った賢者の石を眺めて呟いた。
本当にこの石にそんな力があるのか。
躊躇うアーノルドを後押しするのはいつだってマーシャであった。
「私は第二婦人でも構いませんよ?」
「うぐ」
それを言われたら弱い。
アーノルドは意を決し、己の魂が揺るぐ感覚を受け入れた。
『氷結』の宿命を歩むアーノルドだからこそ妻の死を長らえさせることができた。
ずっと観賞用に保存されてきたそれに、今命が芽吹こうとしていた。
「あら、アーノルド? それにマーシャも。二人してどうしたの?」
死者の蘇生は成された。
アーノルドはライラを抱き留め、良心の呵責に耐えきれずに罪の告白をした。
「ずっと、君には申し訳ないと思っていた」
謝罪しながらアーノルドはマーシャとの関係を明かした。
「いいわ。その代わり、第一子を身罷るのは私が最初ですよ?」
「もちろんだ。マーシャもそれで構わないか?」
「私の幸せはお嬢様の幸せでもありますから」
けど、第二子は私に譲ってくださいね? と続けるマーシャにアーノルドは今から体力が持つか心配になっていた。
頑張ろう。父親として、領主として。
アーノルドは新しい命の誕生に備え、もう後ろ向きな考えに囚われない生き方をしようと清廉潔白な道を歩んだ。
その清廉潔白さは過去の贖罪をするかのようだった。