「見える、デイビット。美味そうな獲物がたくさんいるわ。食べがいがあるのではなくて?」
「………」
妖艶な女の声にフードを目深に被った男が頷いた。
名前を呼ばれたのにも関わらず、返事はなく。
ただ、内側から爆発しそうな食欲だけが体を突き動かしている。
「ふふ、いい子ね。体も随分馴染んできたわ。あともう少しで発芽するかしら。あなたは立派に壊れてちょうだいね?」
女の言葉に、男は今にも暴れ出したいとよだれを垂らした。
開いた口からは人間とは思えないほど尖った歯が口いっぱいに広がっている。
瞳は理性を失っているかのように赤く腫れ上がり、腕は服を内側から押し上げるほどにパンパンに膨らんでいた。
これほどまでに力がみなぎった日など生まれてこの方感じたこともないことだった。
「見える、あの街。あなたを追い出した大嫌いな貴族が牛耳っている街よ」
「あ……うぁ……」
まるで思い出したくない過去を聞かされるように、男、デイビットは耳を塞ぐ。
その臆病さに本来の人間性が見え隠れしているようだった。
今から20年も前、デイビットも王国兵の一人だった。
しかし当時の王国も情勢が悪く、魔族に押されていくつもの街から撤退勧告を出すことに。
デイビットはその一部の街を警邏していた王国兵だったのだ。
それからは国にも帰れず、王国兵の肩書きでブイブイ言わせていた反動で街にも入れてもらえずと惨めな思いで日々を暮した。
そんな落ちぶれたデイビットに接触してきたのは、かつての怨敵『魔族』だった。
『グラトニー』と名乗るどこか胡散臭い女は、ひもじい思いをしているデイビットに、盗賊をやってみたらどうかと提案をした。
どうせ国は身の安全を保障してくれない。
ならば自由に生きてみるのも悪くはない。
確かに昔一度やり合ったが、それは水に流そう。
魔王を失って暴走していたのだという言葉やけに鮮明にデイビットの心に入り込んできた。
それから腹が減ったら奪って。
欲望の限りに女を抱いて。
逆らう奴らは皆殺し。
気がつけば大盗賊として国から懸賞金をかけられて。
いい気分だった。
あれほど陳情を出しても取り合ってくれない。
いざとなったら見捨てる
恨みならたくさんあった。
でも国に歯向かうと聞かされた時、少しだけ心が揺らいだ。
国は恨めしいが、そこに住まう人たちにまで恨みは抱いちゃいない。
だが、心の奥底に救った悪意は順調に育って、今では人間を見るだけで興奮する化け物になっていた。
もう心優しいデイビットはおらず、怒りと憎しみに染められた悲しき魔物だけがそこにいた。
濁った瞳で、真実なんて見えないまま、デイビットは欲望を増大させた。
弱い心が、怯えが、より強い怒りを生む。
グラトニーは人間の心を弄ぶのが趣味だった。
今まで多くの人間をこうして壊して、弄んできた。
それが生き甲斐と言って憚らない。
魔族とは生まれながらに人間の上位種として君臨し、暇つぶしみたいに人類を間引きしてきた。
そこに悪意など何一つない。
子供がアリの巣に水を流し込むようなものだ。
そこにあるのは純粋な興味。
反応が見たいだけ。
それを数百年続けてる、いつまでも大人になれない存在なのである。
昔もこうして人類を弄んで暮らしていた。
毎日が楽しかった。
しかし楽しいと思える大半の存在が消えてしまった。
かつての勇者に封印されたきり、魔王はずっと寝たきりだ。
グラトニーは魔王に褒めてもらえることが嬉しくて、ずっとそればかりしていた。
もう褒めてくれる相手がいないのにも関わらず、それに固執するのは、それ以外に褒めてもらう方法を知らないからでもあった。
グラトニーは魔王が大好きだった。
だからそれを封じた勇者の家系であるローズガーデン王国は許さないし、人類はただでは殺さないと決めている。
先行して姉のグリードが王国に忍び込んでいる。
もはや王国の命運は風前の灯だ。
王族の中に潜り込み、内側から魔王復活の贄を剪定する。
そう言う仕組みを作っていると聞かされた。
なんて滑稽な末路だろうと笑ったものだ。
狡猾で、用意周到な偉大なる姉は、グラトニーの憧れの対象だった。
ここ数ヶ月連絡は一切ないが、知らせがいらないくらいことがうまく運んでいるのだろう。
レベル600の姉を倒せる人類なんていないのだから。
人類に特攻の『契約』はレベルによって成功率が変わる。
レベルが100以上離れていれば100%かかるのだ。
だが、勇者と聖女はその限りじゃない。
グラトニーはそいつを見つけ次第殺すと決めている。
『
「何?」
『勇者と聖女が攻め込む街に滞在していると』
「こんな偶然があるかい? これも魔王様の思し召しだよ。そいつらはここで仕留める。抜かるんじゃないよ?」
『グリード様にお知らせしなくても?』
「逆にいい機会じゃないか。ここで足止めして、姉様の作戦の成功率を上げる。それくらいは命令されずともやってみせな」
『ではその通りに。魔獣軍団を預かります』
「抜かるんじゃないよ。これは魔王様の弔い合戦だ」
魔族の一人であるレティシアは、グラトニーの言葉にやる気をみなぎらせる。
かつて魔王軍の一員として魔獣軍団を使役していた隊長だった。
現在の獣人は随分と腑抜けている。
魔王が眠る前は、よく獣人を強化させて遊んでいたものだが、魔王が封印されてから、
今回グラトニーの下に付いたのは、人の心を弄ぶのが大好きで、キメラ研究の権威だったから。
研究結果の使役に任命させてもらえれば、またあの頃のように弄ぶことができる。
ここで結果を出して、試したい遊びを実行するために、この戦いは負けられないでいた。
レティシアは気を逸らせる。
「獣人部隊、突撃」
「「グゥオオオオオ!!」」
イケイケ、豚共をやっつけろ!
この地を哀れな豚共の血で染め上げ、魔王様に献上するのよ!
「あんた、どこかでみたことある顔だな」
ヒュカッ
突風が砂埃を巻き上げる。
ひ弱な豚共の先兵か?
レティシアが意識をその微風に逸らした時。
部下は一人残らず縛り上げられていた。
覚えがある。
魔王が封印された後、勇者の末裔とその一味にコテンパンにされた記憶がある。
その頃は地方に追いやられ、豚の悲鳴を聞くだけの仕事が割り振られていたレティシア。
その地方勤務に終止符を打った男の顔がチラついた。
「『舜滅』!』
「『絶望』のレティ、久しいな」
「あの頃の続きをしにきたか?」
「いや、俺はとある人物の下についている。今は護衛だよ。まぁ、旦那にゃ護衛も必要なさそうだが」
視線を切り結び、言葉を交わせどそこには殺意と憎しみがみなぎっている。
カインズはバラバラと書類の束を撒き散らす。
目眩しの役割が大きな意味合いを持つが、それはフェイク。
ばら撒いた神の一つ一つがマジックスクロールだったからだ。
「あとは頼むぜ、旦那」
言うが早いか、マジックスクロールが発動する。
それは周囲にミントを撒き散らすだけのハッタリみたいな力。
だがそれだけで耕平には無限の力に発展する。
一瞬にしてミントが攻撃的にキメラたちを襲い始めたのだ。
もがき苦しむ獣人兵。
だが一番解せないのは、その姿が人間だった頃に戻されていることだろう。
「ありえない!」
グラトニーの人体改造は芸術的な域に達している。
契約による二重の縛り。人心をそそのかし、人間をやめて魔族に中世をし誓う奴隷契約。
その契約紋すら塗り替えられている。
そんなこと、レベルを圧倒しなければできないことなのに。
まさか人類は魔族に匹敵するレベルを持ち合わせていると言うのか?
「あんたをこの場で見逃すことになることは癪だが、俺にも仕事があるんでね。私怨じゃ動けないんだわ」
続いて球のような魔道具を展開。
それは馬車の積荷のような形をとった。列車などレティシアは見たこともない。
カインズはその中に人に戻った獣人兵を乗せてその場から撤退する。
「逃すか! 追え!」
「ワハハ、追いつけるものなら追いついてみろ」
結構な積荷を載せているはずなのに、差は縮まるどころか広まる一方だった。
「逃げるな、戦え! 卑怯者!」
「卑怯で結構! 俺ぁ、もう冒険者でも勇者でもないからな。あばよ!」
カインズはあっという間にレティシアから預かった獣人兵を奪った。
その上でまんまと逃げ仰せたのである。
これには流石のレティシアも怒り心頭であった。
「くそっ、豚共め!」
吠えるだけで部下を操るしか脳のないレティシアは、カインズに向けて罵詈雑言の嵐を浴びせた。
兵はやられ、身一つになったレティシア。
そこに、その一帯にだけ生えたミントから、先ほどの積荷が出来上がる。
そこに乗り込めば、先ほど逃げ仰せた人間共を追えるのではないか?
レティシアは誘いにのり、列車に乗り込んだ。
「ヨシ、これなら追いつける」
並走する列車は、しかしレティシアの乗る列車だけ別のルートに入り。
「おい、待て! あっちだぞ! どうして言うことを聞かない! この、この!」
言うことを聞かなければ殴って言うことを聞かせてきたレティシア。
獣人にも同じ対応をしてきたのだろう。
しかし殴っても蹴ってもうんともすんとも言わず、ついに列車は砂漠を超えて断崖絶壁の崖に向かう。
「きゃーーー」
同時に、屋根が吹っ飛んだ。
立っていることもままならないほどの壁走りを見せる。
捕まっていなければ振り落とされてしまいそうだ。
それほどのスピードが出ている。
道を別れてから、あからさまに速度が乗っていた。
「どうしてこうなるの!」
ただ、獣人や人間を弄んで楽しんでただけなのに!
自分が何か悪いことをした覚えなはい。
こんなのあんまりだ!
レティシアは迫り来るトンネルを前に、自分は一体どこまで運ばれるんだろうという不安を拭いきれずにいた。