「え、じゃあ何か? 兄上は、大衆小説に影響されて駆け落ちした……と?」
小さく呟いた殿下は、頷くエノハ様を見て大きく肩を落とした。溜息を吐きつつも、小さく笑って王太子殿下の気持ちに寄り添う。
「そうか……うん。やっぱり好きな人と一緒になれる方がいいよ。俺達は王族で、結婚も国を思えば兄上は残るべきだった。何も持たずに出たって言うから、生活も苦しくなると思う。それでもさ、好きな気持ちは抑えられないよ」
その時、殿下がちらりと私を見たような……でもすぐに目線を外したから、気のせいかもしれない。心做しか、頬がうっすらと色づいている。
「そうですね……私が言えたことではありませんが、王太子になるということは、国民全ての命を背負うということです。それは愛する人が傍にいてこそ、耐えられるのではないでしょうか。国益のための婚姻だとしても、そこに愛があればいいのです。しかし、現状ではそれも難しい」
重い空気に、炎の爆ぜる音が沁み混んでいく。
エノハ様の言う『難しい』こととは、王太子妃のことだろう。王太子妃は、現王権以外の2家から選ばれる。現在、その立場にいるのがモルドワの分家筋であるシュテム公爵家のエーデマリア様だ。
ここの肝は、王太子妃はあくまで王太子の妃だということ。例え王太子が変わったとしても、エーデマリア様が王太子妃であることに変わりはない。
つまりは王太子が失踪した今、サイオン殿下の婚約者になっているのだ。あのまま王宮に留まっていれば、遠くない未来に国を上げての結婚式が執り行われるはずだった。
私は、それも対岸の出来事だと思っていた。王太子殿下にお会いするのは祭事の時くらいで、サイオン殿下の後ろに控える私からは見えない。お姿は絵画で知っていても、まるでテレビで観る芸能人のように遠い存在だったから。
でも、こうして殿下が役目を負うことになると、焦燥感に身を焼かれるようだ。想っても叶わないことは分かっている。それでも、見知らぬ女性が殿下の横に立つ姿は見たくない。しかも、反目するモルドワの血統を持つ姫だ。王妃としての責務を果たしてくれるならまだいい。もしかしたらモルドワ再興のために、殿下の命を狙ってくる可能性もあった。
「兄上のことは、エノハに感謝すべきなのかな? そのせいで俺にお鉢が回ってきたが、計画実行には都合がいい。俺達で動きを調整できるのは重要だ」
殿下がそう言うと、エノハ様は当然とばかりに胸を張る。
「そのために、王太子殿下にはご退場いただいたのです。現状では、王女であるアデルリーネ様を女王に立てるのは不可能。現国王の長女といえど、法を覆すのは容易ではありません。故に、殿下に王太子が回ってくるのは必定でした。計画を実行に移すには最善でございましょう?」
その言葉には殿下も苦笑いを浮かべていた。ただ王都を出るより、明確な理由があると周囲にも伝わるだろう。
継承者が揃って出奔となれば、国民にはしばらく苦境を強いるかもしれない。殿下も同じように感じているのか、表情が曇る。
「今以上に民達が苦しむことがないといいが……穏健派の勢力が縮小すれば、王権派が勢いづくはずだ。エノハ、後は……」
そこまで言うと、エノハ様も頷く。
「承知しております。王宮は私にお任せ下さい。その代わり、例の件はしっかりと調査願いますよ?」
例の件、多分さっき殿下が言っていた確信というものだろう。殿下も力強く頷き、その瞳は私に向けられた。
「ファルス、お前は俺と来い。東の国境にある村落に身を潜める。その間、エノハは王宮で動いてもらう手筈だ。表向きは宰相派に与し、内部崩壊を狙う」
つまり、スパイとして潜り込むということか……でも、たったひとりでは危険なのでは。この2年、エノハ様は親身に私を教育してくれた。殿下の傍にはいつもエノハ様がいて、兄のように慕っていたのだ。
それが一時的とはいえ、離れてしまう心細さは計り知れない。身を隠す私達とは比べ物にならないほど、命の危機もある。
もし、二度と会えなくなってしまったら。
迷惑をかけるだけだと分かっているから、ぐっと涙をこらえた。そんな私に、エノハ様は優しく頭を撫でてくれる。
「ご安心なさい。実を言うと、私は今までも宰相派と殿下の間を行き来していたのです。密偵、というものですね。宰相の信頼も得つつ、殿下の有利なように動かす。これが中々に刺激的で面白い」
暗い声で笑いながら、その瞳は危険な光を宿していた。
(う、エノハ様、すごくいい顔してる……)
内心、本当に楽しんでいそうで、ちょっと怖い。だけど、逆にそれで安心するから不思議。今までも、それを裏付けるだけの実力は見てきた。事務官の戦闘訓練では一度も勝ったことがないし、私が何かミスをしても、先回りしてサポートしてくれていたんだ。
私が心配するのも烏滸がましい感じがして、笑顔で頷く。
「そうですよね。ガインをからかっている時なんて、本当に活き活きしていましたから。エノハ様って、いたずらっ子みたいですよね」
殿下に同意を促すけど、何故かまた口が尖っている。
(何がスイッチなの……)
私は訳が分からなくて、エノハ様に助けを求めた。なんだか同じことを繰り返している気がしなくもない。
エノハ様は察してくれて、殿下を叱る。
「殿下、貴方本当に面倒くさいですね。そういう顔をするなら、ビシッと仰いと何度も申しているでしょう。確信を持てるまでは、なんて格好つけても台無しですよ。ファルスに愛想をつかされるのも、時間の問題では?」
やっぱり、さっきの話はまだ尾を引いていたみたいで、少し気恥しい。
でも、そうか。殿下と2人で村落に……。
そこまで考えて、ある重大な問題を思い出した。
「あの……私、これからお風呂とか、その、お手洗いとか、どうしたらよいのでしょう……」