パタンとドアが閉まると、ジゼルは扇子を閉じてマルティンを振り向き、憎々しい顔つきで言う。
「穢れた血が流れているだけでおぞましいというのに、あの髪色……本当に忌々しい娘だわ」
ブリリア人の髪色は黒、茶、金、銀。しかしごく稀に、青、緑、赤などに近い髪色が生まれる。
ティアナは実母の『
「だからこそ今回の話は悪くないだろう、厄介払いできる上に奴らを欺くこともできる」
「そうですわね、あれをここから追い出せるだけでも清々いたします」
クスッと笑うジゼルに、ニヤリと口角を上げるマルティン。
「さて、あれを餌に、あの野蛮人どもをどう料理すべきか……イザークめ……このままで済むと思うなよ」
マルティンがそう言った頃、部屋を出たティアナは、廊下を歩いていた。
すると、前方にとある人物を見つけて足を止める。
真紅のドレスを纏った、栗色の長い巻き毛の貴婦人。
内廊下の手すりそばに立ち止まった彼女は、ティアナに気づいて振り向いた。
「……お姉様」
そう呼ばれた彼女は、巻き髪と同色の瞳にティアナを映して微笑む。
アネッタ・ソフィー・ロッキンベル。マルティンとジゼルの娘であり、ロッキンベル家の長女。つまりティアナとは、腹違いの姉妹である。
そしてその一歩下がったところには、メイドのリリーが立っている。リリーはアネッタの侍女であり、なんでも言うことを聞く召使いのような存在だった。
「ごきげんようティアナ、お父様のお話は終わったのかしら?」
アネッタは美しい姿勢でティアナに歩み寄ると、彼女の目の前で足を止める。
しかし、ティアナは少し俯いた状態で、アネッタの顔を見ようとしない。
「……はい」
「おめでとうティアナ、まさかあなたがお嫁に行ける日が来るだなんて、姉としても嬉しいわ」
アネッタはそう言って、胸の前で手のひらを合わせてニコッと笑う。
ここまではまだ、妹思いの姉の発言とも取れなくはない。
しかしアネッタの言葉には続きがあった。むしろ、ここからが本題だったのだ。
「お相手はあのシルベリオス卿なのでしょう? お父様に刃を向けた……ふっ、ふふふふふ、あはははっ!」
アネッタは堪えきれないといった感じで、片手を口にあてながら大きな笑い声を上げた。
静かな宮殿に響き渡るほどのボリュームだが、誰に聞こえたところで問題はない。ここには、ティアナの味方はいないのだから。
アネッタは一頻り笑い終えると、少し背を屈めて、ティアナの耳元に顔を近づけた。
「ごめんあそばせ、下賤な野蛮人同士、あまりにもお似合いでしたので、つい笑ってしまいましたわ……あなたのような不気味な女、貰い受けてくれるだけでも感謝しなくてはね」
クスクスと嘲る微笑がティアナの耳に響く。
ティアナの結婚を知ったアネッタは、彼女をバカにするため、マルティンの部屋から出てくるのを待ち構えていたのだ。
――わざわざそんなことをするなんて、暇な人。そんな時間があるなら、部屋を綺麗にしたり、お菓子作りでもすればいいのに。その方がよほど建設的だわ。
冷静な顔のまま、心の中でそんなことを考えるティアナ。
しかし口には出さず、アネッタを横切ろうとした、その時――。
「キャッ!」
なにかが足に引っかかり、思いきり転んでしまった。その勢いで持っていた帽子が手から離れる。
「あら、失礼、わたくしの足が長くて躓いてしまったのね」
前から倒れたティアナは、うつ伏せの状態でアネッタの声を聞いた。
バカにしても動揺しないティアナに腹を立て、わざと足を出して転かしたのだ。
床に這いつくばったティアナを見下ろしたアネッタは、いいきみだと思いクスッと笑った。
そんな二人の元に一つの気配がやって来る。
廊下の先から歩いてきた人物は、アネッタの姿を見つけて口を開いた。
「アネッタ、なにをしているんだい?」
声をかけられたアネッタは、一瞬目を大きくして、素早く後ろを振り返った。
床に突っ伏していたティアナも、顔だけ持ち上げ、前方に立つ人物を確かめる。
裾の膨らんだ白いズボンに、刺繍が美しい紫のベストを着ている、長い黒髪を三つ編みにした彼は、ムアンルド人の証である褐色肌をしていた。
「カーリン様……ティアナが躓いたので、手を差し伸べようとしていたところですわ。本当に鈍臭くて、手のかかる妹ですの」
「へえ、そうだったのかい、アネッタは優しいんだね」
「そんなことありませんわ、姉として当然のことですもの」
先ほどとは別人のように柔らかな物腰で、優しい笑顔を見せるアネッタ。
その相手は、カーリン・サハラ・ストラジャン。シニャールの次男であり、ムアンルド王国、第二王子である。
もしカーリンに嫌われ、縁談を断られたら、王妃になれなくなってしまうため、気をつけているのだ。
息子がいないマルティンにとって、王位を継承するためには、娘に婿を取るしかない。
ブリリアは大きな国だが、マルティンの世界的評判は芳しくない。ゆえに、今のブリリアに息子を婿入りさせたいと言うのは、シニャールだけだった。
豊かな土地で農作物が取れるブリリアと、金や鉱石が取れるムアンルド。
お互い手を結ぶには、ちょうどよい相手ということだ。
「……ごめんなさいね、ティアナ? カーリン様と結婚して王妃になるだなんて、私だけ幸せになってしまって……あなたがこれから、嫁ぎ先でどんな仕打ちを受けるかと思うと、とても心が痛むわ」
ティアナの方を向いて、感情を込めたふうに言うアネッタ。
しかし添えた手で隠した口元が、愉しげに笑っていることを、ティアナは知っている。
「アネッタ、父上が帰還の準備をされている。見送りを頼むよ、僕もすぐに向かうから」
「はい、かしこまりました、カーリン様」
アネッタはドレスの裾を持ち上げ、膝を軽く折って挨拶すると、ティアナに背を向け歩き出した。するとリリーも頭を下げ、アネッタの後ろに続く。
ハイヒールの音が遠ざかると、ティアナは床から立ち上がるため、腕に力を入れる。
するとティアナが上体を起こす前に、すっと手が伸びてくる。
それに気づいたティアナは、床に腹をつけたまま、目の前にいる彼を見上げた。
しゃがんだカーリンが、ティアナに手を差し伸べている。
手を貸してくれるのかと思ったティアナは、右手を持ち上げその手を取ろうとした。
――が、ティアナの手は取られることなく、代わりにグイッと顎を掴まれた。
無理やり上を向かされ、仰け反るような体勢になる。
「へーえ……アネッタの他にもう一人娘がいるとは聞いていたけど、まさかこんな見事な稀髪をしていたとはね。しかも……メイドの服なんて着せられて、ずいぶん爪弾きにされているようじゃないか」
カーリンは品定めするかのように、ティアナの容姿をじっくりと見た。
第二王女の存在は公にされているが、詳細については一切明かされていない。そのため世間では病弱だとか引きこもりだとか、なんらかの理由で人前に出られない姫君だと噂されている。
実際はメイドとしてこき使われているなんて、事実を知る者以外は夢にも思わないだろう。
仮に宮殿内ですれ違っても、髪を帽子に収めていれば目立ちもしないし、誰かに気に留められることもなければ、素性がバレることもない。
身分の低い使用人に関心を持つ、変わり者のシニャールを除いて。
そういうわけで、カーリンもティアナとは初対面なわけだ。
「案外可愛い顔をしているんだな、アネッタよりずっと好みだ、でも僕はアネッタと結婚する、でないと王になれないからね」
爛々と光る紫の瞳に舐めるように見られ、ティアナはだんだん気分が悪くなってきた。
父親のシニャールと容姿は似ているが、纏う空気がまるで違う。妖しく不穏な影を背負っているような青年だ。
ティアナが黙っていると、カーリンはニッと口角を上げた。
「だけど君がどうしてもと言うなら……愛人にしてあげてもいいよ」
チャリン、カーリンの耳飾りが鳴るのと同時に、その顔が接近する。
瞬間、ティアナは手を突き出して、カーリンの顔を押し退けた。
「嫌っ!!」
ティアナの手に押されたカーリンは、バランスを崩して尻もちをついた。
仰け反った体勢から咄嗟に手を出したティアナも、バランスを崩して、また床に突っ伏す。
冷たい床に座り込んだカーリンは、みるみるうちに顔つきが変わってゆく。
やがてスックと立ち上がると、ティアナの前で片足を高く上げた。
「思い通りにならない女は嫌いだよ」
「うっ……!」
カーリンは上げた足を勢いよく下ろし、ティアナの左手を踏みつけた。
体重をかけられたティアナは、痛みに耐えながら鈍い声を漏らす。
「僕が王になったらもっと痛い目に遭わせてやるから、覚えておけよ」
カーリンは見下ろしたティアナにそう告げると、足を離してアネッタと同じ方向に歩いていった。
カーリンの姿が見えなくなると、ティアナはようやく上体を起こす。
そして冷たい床にペタンと座り込むと、踏まれた左手を右手で撫でた。
「イタタ……もう、二人とも乱暴なんだから……」
ハーッとため息をつきながら、とほほな表情を浮かべるティアナ。
躓かせたり、足を踏んだり、野蛮人でお似合いなのは、アネッタたちの方ではないかとティアナは思う。
「こっそり軟膏取ってきちゃおうかしら……あ、でもまだお掃除の途中だったわ、急いで終わらせないと」
ティアナは独り言を言いながら立ち上がると、そばに転がっていた帽子を拾い頭に被り直す。
そしてマルティンに呼ばれる前にいた場所に戻ると、さっさと掃除の続きを始めた。
まるで何事もなかったかのように、淡々と業務をこなすティアナ。
心を病んでも仕方ないほど過酷な日々なのに、根が明るく前向きなため、悲壮感が漂わない。
しかし、ティアナは時々考えていた。
私はこの宮殿の中で、一生を終えるのだろうかと。
宮殿の窓を丁寧に拭きながら、晴れ渡る空を眺める。
――イザーク様……あなたは一体、どんなお方なのでしょうか。
期待と不安に胸を膨らませながら、ティアナはまだ見ぬ旦那様を想像していた。
※※※
数日後、ティアナとイザークの結婚式が行われた。
小さな教会の客席には、ティアナの父であるマルティンと、イザークの部下が数名座っているだけだ。
王女の嫁入りだとは思えない、質素な挙式には理由があった。
一つ目は、イザークがマルティンに民への減税を言いつけたから。
王は民から徴収した税金で暮らしているため、それが少なくなれば、贅沢はできなくなる。そのため祝い事の祭典などに関する出費も、必要最小限に抑える必要があった。
そもそもマルティンはティアナの挙式に金をかける気などなかったため、今回の件に関してはちょうどいいと思っていた。
二つ目は、祝い事ではないから。
この結婚はイザークがマルティンを制御するため、娘を人質に所望したもの。
つまり『結婚』を利用した脅しに過ぎず、挙式はそれを証明する形だけでよかったのだ。
家同士の繋がりを大切にする、政略結婚よりも重く冷たい契り。
この結婚式はティアナにとって、人質になる儀式といっても過言ではなかった。
『貴様は黙って下を向いておくのだぞ、口なしの人形のようにな』
『挙式で逃げられないように、その不気味な髪を隠しておしまい』
マルティンとジゼルに言われた通り、ティアナは黙って下を向き、イザークの腕に手を添える。水色の髪が目立たないよう、いくつも重なったヴェールを纏いながら。
お互い顔を見ることもなく、バージンロードを歩く。
静けさの中、祭壇の前に辿り着いた二人に、神父がお決まりの言葉を読み上げる。
「新婦ティアナ、あなたはここにいるイザークを、病める時も健やかなる時も、夫として愛し敬い、慈しむ事を誓いますか?」
「……はい、誓います」
この瞬間、ティアナはイザークの妻となり、人質生活が幕を開けた。