ティアナがイザークを見送っていると、階段の前に誰かがいるのがわかった。
イザークは彼のそばで立ち止まると、少ししてから再び歩き出す。どうやらなにかを伝えたようだ。
イザークが階段を上り始めると、入れ違いになるように、今度は彼がティアナに近づいてくる。
イザークよりやや背が高く、騎士らしいガッチリした体格をした青年だ。
「どうぞ、お姫様、俺が部屋に案内しますよ」
ティアナの前で立ち止まったルーカスは、ニッコリ笑って右手で進むべき方向を示した。
「あ、はい、よろしくお願いいたします」
ティアナが挨拶をしている間に、ルーカスは床に置いてあったティアナのカバンを持ち上げる。
それからすぐに歩き始めたので、ティアナも遅れないようついていく。
ルーカスは階段には目もくれず、一階の通路を進んでいる。
「あの、初めまして、私はティアナと申します」
ティアナは目の前にある広い背中に向けて、自己紹介した。
するとルーカスが、一拍置いてからチラッとティアナを見る。
「一応、初めてじゃないんですよ、結婚式に出席させてもらったんで」
その台詞から、あの少ない出席者の中に、ルーカスがいたことがわかる。
失礼なことを言ったと思ったティアナは、申し訳なさそうに
「……申し訳ありません、あの時は周りを見る余裕がなくて」
「なんか、やけに丁寧なお姫様ですね」
ティアナはヒヤリとして、急いで言い訳を考える。
そして今の自分が『病弱で引きこもりの王女』であることを思い出した。
「……そ、そうですか? 小さな頃からいろんな方のお世話になっていたからかもしれません……」
「ああ、なるほど」
事前にティアナの事情を聞いていたルーカスは、すんなり頷いて再び前を向いた。
――あまり丁寧すぎても怪しまれてしまうのね、気をつけないと……。
ティアナにとって、身近な王女といえば姉のアネッタしかいないが、自分とはあまりに性質がかけ離れていて手本にはならない。
ティアナは自分なりの王女像を考え、それに近づける努力をしなければと考えた。
「俺は団長……シルベリオス卿の右腕で、副団長をしているルーカス・ダニエランです」
「ルーカスね、どうぞよろしく……」
ティアナは先ほどより砕けた口調で答えると同時に、ルーカスがイザークの側近であることに納得した。
あれほど少ない出席者だったのだから、イザークが厳選したに違いない。
玄関がある広間を出ると、真っ直ぐに続く廊下を歩く。
ロッキンベル宮殿のような派手さはないが、重厚感のある立派な作りだ。
しかし、ティアナは少し異様な空気を覚える。
ティアナが歩いている通路の両脇に、金色の鎧がずらりと並んでいたからだ。
通路に沿うように置かれたそれは、汚れていたり欠けていたり、ずいぶん使い古されたものに見える。金色もやや黒く、鈍い色に変化していた。
静まり返った廊下に無数の鎧が立ち並ぶ様は、ゴシックホラーのような雰囲気がある。
「……気になります? 鎧が」
落ち着かない様子のティアナに気づいたルーカスが尋ねた。
例にない不思議な場所。気にするなと言う方が無理な話だ。
「ええ……この鎧たちは、なにか意味があるのかしら?」
「戦で死んでいった奴らのものです」
ルーカスの答えに、ティアナはすぐさま後悔した。軽率に質問してしまったことを。
「国王に近づくためには、信頼を得る必要がありましたからね……かなり無茶な戦もありましたが、勝ち抜くしかなかったんです。そうして消えていった騎士たちを悼み、讃える方法はないかと、だんちょ……シルベリオス卿が考えたんです。だからここにある鎧は、みんな亡くなった当時のまま保管されています」
ティアナは言葉がなかった。
そして、一瞬でもこの鎧を不気味に感じた自分を恥じた。
傷つき、壊れそうになった鎧には、国のために戦った騎士たちの魂がこもっていたのだから。
「……そう、だったんですね……知らずに、安易に聞いてしまって、ごめんなさい」
「……いえ」
ルーカスは丸くした目にティアナを映した。
まさか元凶である国王の娘に、謝られると思っていなかった。
しばしの沈黙が二人を包んだ後、ティアナは再び口を開く。
「……さっき、シルベリオス卿と言っていたけど、彼は爵位を持っているの?」
ルーカスはイザークをシルベリオス『卿』と呼んだ。
それは爵位のある王侯貴族にしか使われない敬称のため、ティアナはその呼び方が気になったのだ。
「あれぇ? 聞いてないんですか?」
「お父様はそういった話はされないの、政に関わるようなことも一切……」
ルーカスの反応を予測していたティアナは、スムーズに違和感のない答えを返した。
王女が政に関わらないのはもちろん、身分の低い騎士に興味を持つわけもないので、ティアナのこの返事は正解だった。
本当は冷遇されていたため、家族から大事な情報を聞いていないわけだが、そんなことは言えるはずもない。
「まあ、確かに、お姫様が階級を気にする必要なんてないですもんね」
案の定、ルーカスは納得し、ティアナの質問に答える。
「彼は元貧民でね、そこから腕一つでのし上がって、セレステッタ騎士団を結成、以降戦果を上げたり、王の護衛を務めたりと、その功績が認められて、子爵の爵位をもらったんですよ」
ルーカスの簡潔な説明だけでも、イザークの華麗なる躍進が理解できた。
この国では、奴隷として生まれれば一生奴隷、貴族として生まれれば一生貴族と、生まれた時の身分が、生涯に渡って変わることはない。
どれだけ努力しようと、自分ではどうしようもないこの制度も、マルティン政権の闇であり問題であった。
そんな中で貧民出のイザークに爵位が与えられるなど、異例中の異例。それほどイザークがマルティンの懐に入り込んでいたということだ。
「……すごい方なのね」
「本当は公爵の爵位をもらってもおかしくない功績ですけどね、子爵に留めているところに、マルティンの差別意識が現れていますよ。そもそも爵位を与えたのも、自分のためだったんじゃないかと思います。そばに置く人間の身分が低いのは我慢ならなかったのでしょう」
それは裏を返せば、爵位を授けてでも、護衛につけたいほど優秀だったということだ。自分の命を守るためには手段は選ばないとも言えるが、理由はなんにせよ、あの父を動かしたイザークにティアナは感服した。
「そんな強さを手に入れるだなんて、並大抵の努力ではなかったでしょうね……」
「まあ、それもこれも、マルティンを言いなりにさせるための、お膳立てに過ぎなかったわけですけどね」
ルーカスはティアナの様子を窺い見るが、ティアナは黙って進行方向を見ている。
メイドとして暮らしていたティアナは、メイドたちと同じ部屋で寝て、同じ場所で食事をしていた。
メイドたちと親しくすることもなかったが、同じ空間にいれば、いろんな話が耳に入ってくる。
家族が身売りをしたとか、知り合いに奴隷がいるとか、誰かの子供が飢え死にしたとか……。
優れた国王が統治しているなら、絶対耳にしないようなことばかりだった。
そんなメイドたちの生の声を、長年間近で聞いてきたティアナは、マルティンが明君でないことを知っていた。むしろその、逆ではないかと。
血を分けた娘を虐げるような人間なのだ、他人に無関心でもまったく不思議ではない。
それらから、例の一件――イザークが反乱を起こしたことも、マルティンに非があると理解していた。
だからティアナは、なにも言わなかったし、言えなかった。
それでも自分の反応を待つルーカスに、別の話題を振ることにした。
「あの……わざわざシルベリオス卿と言わなくて大丈夫ですよ、普段通りの呼び方で」
予想外のことを言われたルーカスは、いささか面食らってマヌケな顔をした。
「あ……そう、ですか? 王侯貴族の方なら、そっちの方が馴染みがあるかと思って」
「ええ、そうだと思いました」
ティアナはルーカスが自分に合わせて、イザークの呼び方を変えていることに気づいていた。
シルベリオス卿と呼ぶ時、何度も詰まっていたので、呼び慣れていないのだろうと思ったのだ。
門番の騎士は団長と呼んでいたのに、わざわざ人によって呼び方を変えるなんて、ルーカスは気遣いの人ではないかと感じた。
「んじゃあ団長で。助かります、かしこまった呼び方って、実は苦手なんで」
ルーカスは頬を人差し指でポリポリ掻きながら、困ったように笑った。
――マルティンの娘なのに、細かいところに気づく、賢いお姫様だな。
感心するルーカスに、柔らかく微笑み返すティアナ。
そこで通路の中腹辺りに着くと、ルーカスがようやく足を止めた。
「さて、着きましたよ」
ルーカスと一緒に立ち止まったティアナは、意味がわからず首を傾げる。
着きましたよ、と言われても……ここは通路のど真ん中、ドアもなければ部屋も見当たらない。
「まあ、見といてください」
ルーカスはなぜか少し得意げな顔をして、右足を前に出すと、その真下にある床を
そして前にずらすように動かすと、同時に床も動き出した。
灰色の通路の一部が、出入り口になっているのだ。
まさかの隠し扉に、ティアナは開いた口に両手をあてた。
「す、すごい……!」
「でしょう? ここから地下室に行けるようになってるんです。他の貴族も王族も知らない、部外者には秘密の通路ですよ」
ティアナも王族になるが、人質なので外部と接触して情報を漏らすことはないだろう。
ルーカスはもちろん、それをわかった上で話している。