ある日、ティアナは夢を見た。
ふわふわと波をたゆたうような、優しい時の中で、ティアナはその人の後ろ姿を見ていた。
メイド服を着た彼女は、深い青色をしたセミロングの髪をしている。
彼女は白いメイド帽に器用に髪をしまうと、ゆっくりと後ろを振り向き、水色の瞳にティアナを映した。
まだティアナよりずっと背が高かった彼女は、ティアナの前にしゃがんで目線を合わせる。
瞳が青く、髪が水色のティアナとは、リバーシブルのようになった色合いの美女だ。
「おかーさんの髪は、どーしてそんな色をしてるの?」
まだ幼いティアナの質問に、彼女は優しく微笑みながら答える。
「それはね、神様からの贈り物だからかしら」
「おくりもの……?」
「ええ。だって、他の人と違うものは、自分にだけ与えられた特別なんだもの」
母の解答に、ティアナは目をパチパチさせて、不思議そうに首を傾げる。
「だけど、おかーさんは、それのせいで、仲間はずれにされてるんじゃないの?」
ティアナの言葉に、彼女は一瞬驚いた顔をしたものの、すぐにまた穏やかな表情に戻った。
「……ティアナは、自分の髪が嫌い?」
質問に質問で返されたティアナは、どうしていいかわからず口を結ぶ。
すると彼女は、ティアナの髪をそっと撫でた。
「私はね、ティアナの髪が大好きよ、あなたのは、私のよりもっと綺麗だもの」
「……おかーさんのよりも?」
純粋な目で問いかけるティアナに、彼女はコクリと頷いた。
「幸せを呼ぶ水色の髪……だから、どうか自分を嫌いにならないで」
この母親の言葉は、幼いティアナの心に深く刻み込まれた。
ティアナは嬉しかった。周りになんと言われようと、自分の意思を持っていいのだと思えた。
「私、嫌いじゃないよ、自分のことも、おかーさんのことも、大好きだよ」
満面の笑みで答えた瞬間、ティアナは母に強く抱きしめられた。
「愛しているわティアナ、私の自慢の娘」
耳元で微かに震える母の声を聞きながら、ティアナはめいっぱい彼女を抱きしめ返した。
辛いことがあってもいつも笑っていた。病で亡くなる直前まで、常にティアナを気遣っていた。そんな強くて儚い母の香りに包まれながら、ティアナはゆっくりと現実世界の扉を叩く。
「――ん……」
小さな声を漏らし、ティアナの長いまつ毛が僅かに動いた。ゆっくりと瞼を持ち上げると、徐々に視界が開かれる。
寝ぼけ眼に映る白とピンクの景色に、ティアナは自分の状況を思い出した。
――お母さんの夢、久しぶりに見ちゃった……。
まだぼんやりとした頭でそんなことを思うティアナは、キュートなお姫様ベッドの上で、ふかふかの布団を被って横になっている。天蓋やカーテン、寝具もすべてピンクなので、水色の豊かな髪がよく映えていた。
そろそろ起きた方がいいかなと、ティアナが身をよじって目を擦る。するとちょうどその時、コンコンと部屋のドアがノックされた。
「奥様、朝でございます」
ドアの向こうから聞こえた声に、ティアナは急いで上体を起こすと、顔の前にかかった髪をパッパと後ろに払いのける。
そして天蓋についたカーテンを開けると、ちょうどカルラが部屋に入ってくるところだった。
「おはようございます、奥様」
にこやかな面持ちで挨拶するカルラは、朝食をのせたプレートを手にしている。
「おはよう、カルラ、今日も美味しそうね、いい匂いがしているわ」
「そう言っていただけると作り甲斐があります」
ビクトール城に来て一週間、ティアナは敬語なしの言葉遣いにも慣れてきた。
地下室には食堂がないので、各自の部屋で食事を済ませる。その時間になれば、こうしてカルラが運んでくれるのだ。
ブリリアの王侯貴族たちは、特に決まった食事マナーがないので、そこで境遇がバレる心配はない。
勝手に美味しい手料理が出てくるし、朝もゆっくり寝ていられるし、侍女が身支度を整えてくれる。
この歳になって初めて王女らしい生活を体験したティアナは、王侯貴族ってなんて楽なのだろうと思った。
しかし、それでものすごく快適かと言われれば、そういうわけではない。
朝食を終え、身支度が終わったティアナは、テーブルの椅子に座って小さなため息をついた。
――やばい、暇すぎるわ……。
朝から晩まで、窓がない部屋で座りっぱなし。いくら広いといっても、息が詰まる。
生まれた時から働いたことのないお姫様なら、読書などしておしとやかに過ごすのかもしれないが。
幼い頃からメイドの母と一緒に働いていたティアナは、じっとしているのが性に合わない。
キッチンやお風呂なども地下室にあるため、地上に出る必要もなく、たまに出ても城内を数分散歩するだけで終わる。
そんな生活を繰り返し、ティアナの労働したいゲージは限界に達していた。
今日のティアナは、豊かな髪を編み込みのハーフアップにして、淡いグリーンのドレスを身に纏っている。
豪華な部屋の中、椅子に腰掛けて憂いた表情をするティアナは、まさにプリンセスと呼ぶに相応しい可憐な姿だ。
とても、掃除したくてたまらない婦人には見えない。
どうすれば労働できるか、ティアナは頭を悩ませた上、ついに口を開く。
「カルラ、私ね……お掃除が好きなの」
「……はい?」
そばで待機していたカルラが、少しマヌケな声を出した。
ティアナの苦悩を知らないカルラからすれば、突拍子もない言葉なので当然だ。
しかし、ティアナはなんとなく本音を言ったわけではない。ちゃんとその先のことも考えている。
「小さな頃から身体が弱くて、外に出るのが難しかったから、部屋を綺麗にすることが生き甲斐だったの」
「そう……だったのですか」
胸に手をあて話すティアナに、カルラは切なげな表情をする。
本当はめちゃくちゃ健康で、毎日宮殿中を掃除しまくっていたわけだが、それを知られるわけにはいかない。
ならば、病弱設定を上手く利用するしかないと考えた。
「だから、私に少しだけでも、カルラのお手伝いをさせてもらえないかしら?」
「そう言われましても、私の業務を奥様にお任せするわけにはいきません」
なるべく弱々しい演技をして訴えたティアナだが、真面目なカルラの前にあっさりと散った。
「それに、お身体が弱いのなら、やはりゆっくり過ごされた方がよいと思います」
「身体は大丈夫よ、大きな病を抱えているわけではないし……それに、ここに来てから、なんだか調子がいいの、カルラの食事が美味しいからかしら」
「奥様……」
ティアナの本心からの言葉に、カルラはじーんと胸が温かくなる。
病弱は嘘だが、ここに来てからの方が心身ともに軽いのは本当だ。
これで働くことさえできれば、なにも言うことはないのに……とティアナが思った時、ある考えが浮かんだ。
「そういえば、お城の家事は誰がやっているの? 執事を雇っている感じもしないし」
ティアナは素朴な疑問をカルラにぶつけた。
今まで城の中で、カルラ以外の使用人を見たことがない。
城の規模を考えると、使用人の数もある程度必要だと思われるが……。
「食事は専属のシェフを雇っていますよ。身体作りは騎士の基本ですから。ですが、掃除や洗濯などの家事は、騎士たちが手分けしてやっています」
なんと、シェフ以外雇っていなかった。
ロッキンベル宮殿には過剰なほど使用人がいたのに、ティアナは軽い衝撃を受けた。
「ええっ、そうなの……」
「はい、家事も肉体労働のうちですから、体力作りの一貫として、騎士見習いたちがこなしているようです」
確かに、騎士の人数や、城の広さを考えれば、なかなかの重労働になる。
家事を体力作りに利用するとは、一石二鳥ではある。
「な、なるほど……だけど、こんなに立派なお城を、騎士たちだけで綺麗にしているなんて……メイドや執事を雇ったりはされないのかしら?」
宮殿中を一人で掃除していた自分が言うのもなんだが、と思いつつ質問するティアナ。
城主のイザークは、貧民出身とはいえ、現在は子爵。こんな立派な城もあるのに、使用人が異常なほど少ない。
しかし、そこには、イザークなりのきちんとした理由があった。
「旦那様は贅沢がお嫌いなのです。騎士として必要なことにはお金をかけられますが、自身の欲は二の次のようです。なので夜会にも行かれませんし、貴族服もほとんど持っていらっしゃらないのですよ」
カルラの話に、ティアナは開いた口に両手をあてた。
貧民であったイザークは、金の大切さをわかっている。だから無闇に散財したりしないのだ。
「……はぁぁ……なんてこと……」
ティアナは感嘆のため息を漏らした。
聞けば聞くほど、イザークのイメージがよくなってゆく。
それと同時に、自分もなにかしたいという思いが強くなる。
「私もなにかお役に立てないかしら、せっかく身体が動くのに、一日中じっとしているなんてもったいないわ」
「そう言われましても……」
「例えば……そうね、みんながいない時に、お城のお掃除をやってみるとか?」
右手の人差し指を立てて提案するティアナに、カルラは一瞬固まった後、青い顔をした。
「な、なにをおっしゃるんですか! そんなこと奥様にさせられるはずがありません! どこの世界に城を掃除する王女様がいらっしゃるのですか!」
「や、やぁねぇ、カルラったら、冗談よ!」
悲鳴に近い声で断固反対するカルラに、笑ってごまかすティアナ。いつも落ち着いた彼女が、こんなに取り乱すところを初めて見た。
実は、城を掃除していた王女が目の前にいるなんて、カルラが知ったら卒倒しそうだ。
それからカルラはふーと息を吐くと、気持ちを整理して再び口を開く。
「……城の清掃は騎士たちで事足りているので、助ける必要はありません、他に手が足りていないことといえば……庭の整備くらいでしょうか」
「え?」
「え?」
カルラがなんとなく言ったことに、目ざとく反応するティアナ。
そして、そんなティアナに釣られたように返事するカルラ。
しかし、二人の表情はまるで違う。
みるみるうちに瞳を輝かせるティアナに対し、カルラの表情はだんだん曇ってゆく。
「……それだわ」
「……え……えぇ……?」
カルラは垂れ目をさらにしならせ、困惑するしかなかった。