「……イザークと呼べと言ったはずだが」
イザークはさっきから気になっていたことを指摘した。今朝、ティアナに『様』をつけるなと言ったはずだが、まだ彼女はそう呼んでいる。
ティアナはハッとしながらも、まだイザークを呼び捨てにすることに抵抗がある感じだ。
「……あ、はい、ですがやはり、旦那様を呼び捨てにするなんて」
「お前の方が身分はずいぶん高いだろう、俺のような貧民出に敬称をつけるのに抵抗はないのか」
真剣な顔で問いかけるイザークに、ティアナは考えを巡らす。しかし、やはり素直な意見を言うしかないと思った。
「なんの努力もせずに得た身分に価値があるとは思えません、イザーク様のように実力で上り詰めた方を私は尊敬いたします」
ティアナは美しい姿勢でイザークを見据え、ハッキリと自分の意志を告げた。
それは自身を虐げてきた王族に対する言葉でもあったかもしれない。
迷いないティアナの台詞に、イザークは衝撃を受けた。
彼女の考えは、イザークのそれと同じだったからだ。
それだけではない。ティアナからすればイザークは、父に刃を向け、人質に嫁がせた張本人。にも関わらず、憎むどころか尊敬などと口にするとは……変わり者にもほどがある。
イザークはそう思いながらも、楽しくなっている自分に気づいた。
そして無意識のうちに、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。
ティアナはその笑顔を見逃さなかった。
テーブルに片肘をついて、優しげな表情を向けるイザークに見惚れた。
「……そうか、だが、今後は俺を呼び捨てにしなければ口を利かん」
「ええっ!? そ、それは困りますわ!」
「はは」
予想通りの反応をするティアナに、イザークの口からまた笑い声が漏れる。
子供のような条件を出されたティアナは、仕方なく敬称を省くことにした。
「で、では……い……イザーク……?」
ティアナが上目遣いで遠慮がちに名を口にした――次の瞬間、ガタッと椅子を立ち上がる音がしたかと思うと、唇に柔らかな感覚が触れた。
時が止まったかのように静まり返る室内。
やがてイザークが唇を離すと、ティアナと間近で目が合った。
イザークはテーブルに身を乗り出し、ティアナの顎を掴んだまま口を開く。
「なんだその顔は。深夜に夫の部屋に来たんだ、覚悟ができていないとは言わせないぞ」
まさに、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたティアナは、徐々に思考を動かし始める。
そしてようやくイザークに唇を奪われたことを理解したが――。
「きゃっ……!?」
ほうけた様子のティアナに痺れを切らしたのか、イザークはティアナの方に回り込むと彼女を抱き上げた。これが本当のお姫様抱っこだ。
「あ、あの、イザーク」
ティアナの戸惑いをよそに、イザークは軽々と彼女を持ち運ぶ。
小柄で華奢なティアナは、イザークにとって羽のように軽い。
見た目は細身なのに、どこにこんな力があるのだろうか。
しかし、今のティアナにそんなことを考える余裕はない。
イザークが向かったのは、テーブルの奥、部屋の角に置かれたベッドだったからだ。
それを目にしたティアナは、ようやくこの先も求められていることに気づいた。
「あっ、あのっ、でも、イザークは――」
――他に好きな人がいるのでしょう?
そんなティアナの言葉は、ベッドに乱暴に下ろされた勢いにかき消された。
ギシリ、ベッドのスプリングが軋む。
黒い寝具に仰向けになったティアナは、覆い被さるように迫るイザークを見上げた。
自分は女として見られていない、だから夜に二人きりになったところで、絶対になにもないと思っていたのに。
一体どこでスイッチが入ったのか、ティアナは気が動転して全身を強張らせた。
そんなティアナを見たイザークは、苛立ちと胸の痛みを覚える。
その気で来たんじゃないのか、やはり俺に抱かれるのは嫌なのか、ならばやめるべきか、だがもう止められない。
イザークの中であらゆる感情がひしめき合い、複雑な表情を浮かべた。
「恐ろしいだろう、かわいそうにな、こんな野蛮人に捕まっちまって……」
圧倒的に優位なはずなのに、なぜか辛そうなイザーク。
その様子を見たティアナは、もしかしたらなにか思うところがあるのは、自分だけではないのかもしれないと感じた。
少し落ち着きを取り戻したティアナは、イザークに向かってゆっくりと右手を伸ばす。
そして人差し指と中指を尖らすと、サクッとイザークの眉間に突き刺した。
完全に油断していたイザークは、ティアナに眉間をグリグリされたまま数秒固まった。
「……これは、一体なんの真似だ」
「あ、申し訳ありません、眉間にたくさん皺が寄っていたもので」
眉間の深い皺が気になったティアナは、それを解そうとしたのだった。
ティアナのあえて空気を読まない行動に、イザークも少し冷静さを取り戻す。
そして一旦ティアナから離れ、ベッドに腰を据えると、今度は自分の指で眉間に触れた。
――そんなにひどい顔をしてたか?
イザークが心の中で自問している間に、ティアナも上体を起こし、ベッドに座った。
それから膝に両手を置き、少し気まずそうなイザークと向き合う。
「私は、あなたのことを恐ろしいとも野蛮人だとも思っていません、ただ、こんな展開になると思っていなかったので、驚いただけで……」
ティアナの台詞からその気がなかったとわかったイザークは、ガッカリして拗ねるような気持ちが湧いてくるが。
「あ、でも、経験がないので物理的にはちょっと怖いですが」
続いてティアナの口から出た言葉にキョトンとした。
王女の初めての相手が夫なのは自然なことだが、それにしてももう少し言い方があるだろう。
「物理……」
イザークは気になる部分を復唱しながら、小さく吹き出した。
ティアナのあまりに色気のない表現が可笑しく、肩の力が抜けてしまったのだ。
「……まあ、そうだな、女の方は」
イザークは笑う時伏せ目がちになる。すると黒々とした長いまつ毛が際立ち、とても美しい。それなのに、少し幼く見えるところが、なんとも微笑ましかった。
「イザークは笑うととっても可愛いのですね」
「な……」
イザークの白い頬が赤みを帯びる。
今朝もこんな変化を目にしていたティアナは、ようやくイザークが照れていることに気づいた。
イザークの人間らしい部分が、ティアナは親しみやすく素敵だと感じる。
「ふふっ、いつもそうしておられたらいいのに」
――チュドーーーン!!
もはや心臓だけの騒ぎではない。イザークの全身が爆発するかのような衝撃を受けた。
それでも不器用な性格が邪魔して、お前の笑顔の方が可愛いだろとは言えない。
だからイザークは言葉の代わりに、違う方法で想いを伝えるしかなかった。
「敵や部下にだらしない顔を晒すわけにはいかないだろ、だから――」
イザークはティアナの肩を押すと、優しくベッドに押し倒した。
再びティアナの上にイザークが覆い被さる体勢になる。
しかし先ほどとは違い、イザークの眉間に皺はなかった。
クールで綺麗な顔をしているのに、金色の瞳だけが獣のように熱を帯びている。
「ティアナにだけ見せてやる」
これがイザークにできる、精一杯の愛の告白だった。
――認めよう。俺は、この女に惚れている。
ついに観念したイザークは、ティアナを抱きしめ、口づけ、肌に触れてゆく。
ティアナは初めての感覚に戸惑いながらも、イザークが与えるものすべてを慎ましく受け止める。
――どうしてかしら、ちっとも嫌って思わない……。
この夜、ティアナとイザークは夫婦の契りを交わした。