喫煙所以外の場所で煙草を吸ってもいい。
それは俺にとっては目から鱗のような、突然雷に打たれたかのように衝撃的なことだった。
いや、トヨリさんの口ぶりから察するに恐らくこの世界には「喫煙所」そのものが存在しない。いうなれば世界すべてが「喫煙所」。
楽園か?
レイトの記憶を遡っても情報が出てこないはずだ。存在しないものの情報なんて得られるはずもない。
震える足で俺は一歩踏み出した。
傍から見たら生まれた小鹿。だが気分的には大空を駆けるペガサスのようだ。
トヨリさんの店の片隅、大通りに面した一画に陣取って震える指で小袋から煙草を一本取りだす。
やっとだ……やっと吸える。
おかしな話だ。この身体では煙草を吸ったことなんて一度もないのだから。
当然ニコチン不足に悩まされることもなく、ヤニ切れでイライラもしない。
吸う空気は美味しく、吐く空気も清らか。
そんな健康体に俺は今から毒を取り込もうとしている。
普通の人ならば理解できないだろう。元喫煙者でもこれを機に禁煙を始める理由として十分すぎる。
だけど……だけどどうかわかってほしい。
これは俺のためなのだ。
俺のための新たな人生。俺のために煙草を吸う。
肉体ではなく、魂に刻まれたヤニ切れを今ここで解放するのだ。
「……ふぅはあぁぁ」
口に加えた煙草に火をつける。
煙が空に昇っていき、薄くなって消える。
至福の時だ。
袋の中に乱雑に入れられて、タール数も健康被害への警告も書いていない煙草は恐らく前の世界の物に比べたら数段劣る代物なのだろう。
しかし気にはならなかった。いや、想像よりもずっと美味く感じられた。
酒場の店主と目が合った。
幸せそうな俺を見て店主が「ふふっ」と笑う。俺もそれに「ふふっ」と笑い返した。
これだ。この仲間感が懐かしい。
狭い喫煙所で見知らぬ人と一つの灰皿を囲む。
「お互い肩身が狭いですね……へへ」なんて思いながら吸う一本。
これが格別なのだ。
なんて勝手な仲間意識を芽生えさせていたら、酒場の店主が信じられないことをした。
なんと吸い終わった吸殻をそのまま道にポイッと捨てたのだ。
「な……」
思わず絶句する。仲間だと思っていたが前言撤回だ。アイツはやってはいけないことをした。喫煙者として絶対に破ってはいけないことをしやがった。
喫煙者が嫌われる理由の上位に何が含まれているか知らねぇのか。「煙草のポイ捨て」だ(俺調べ)。
いや、嫌われる嫌われないの問題だけじゃねぇ。ポイ捨ては単純に町を汚すだけでなく、不審火の原因になりやすい。
さらに捨てた吸殻を餌と間違えて鳥が飲み込み窒息してしまうケースだってあるんだ。
人として決して許されることじゃねぇんだよ。
至福の時に水を差された俺は怒り心頭だ。相手が屈強で強面の男だってかまわねぇ。文句を言ってやる。
そう息巻いて酒場の店主の元に向かった時だった。
一羽の黒い鳥が俺の前を颯爽と横切る。
「おあっ」
咄嗟の出来事に思わずのけ反る。
びっくりして横切った鳥の方を見ると酒場の店主が捨てた吸殻の方に喜々として近づいていく。
カラスかと思ったが、それにしては妙にでかい。どちらかというと鷹の真っ黒版と言ったところだ。
いや待て、悠長にそんなことを言っている場合ではない。
今まさに一羽の鳥が吸殻を餌と間違えて誤飲しそうになっているのだ。
「おい、待て。食うな!」
そう叫んだが時すでに遅し。
黒鳥はくちばしで器用に吸殻を拾うとぱくりと一飲みしてしまった。
「ああ……」
まずいことになった。
このままではこの鳥は窒息してしまう。いや、身体が大きいから窒息こそしないかもしれないが健康に被害は出るだろう。
どうするべきか。すぐにでも吐き出させるべきだろう。しかし、獰猛そうな見た目が怖い。
鷹そっくりな目が不思議そうにこちらを見ているが、無理矢理に吸殻を吐かせようとしたら怒って襲ってくるかもしれない。
「おい兄ちゃん何してんだ」
躊躇していると背中に声がかけられる。
振り向くと酒場の店主が両腕を組んでこちらを訝し気に見ている。
「何してんだ」じゃねぇだろう。
「あんた見てなかったのか? この鳥、あんたがさっき捨てた吸殻を食っちまったんだぞ」
俺がそう訴えても酒場の店主は気にも留めない。「それがどうした」とでも言わんばかりの態度で首を傾げている。
その態度ですら俺の神経を逆なでするのに、店主はさらに信じられないことを言ってのける。
「『食っちまった』って……当たり前だろうが。そいつに食べさせたんだから」
俺の脳はもう理解が追い付いていない。
異世界は煙草を自由に捨てるいい世界だと思った。
しかし、現実は違うのか?
ごみを平然と動物に食べさせるようなクソ野郎がはびこる世界なのか?
怒りに肩を震わせていると後ろで鳴き声がした。
さっきの黒い鳥が俺の足元にすり寄ってくる。
「鳴き声はカラスそのままだな」と思いながら元気そうな鳥を見て一先ず苦しんでいなくて良かったと安心する。
黒い鳥は俺の周りをちょろちょろと歩き回る。愛嬌があってかわいい。獰猛な見た目とは違い大人しい生物のようだが、その行動に何の目的があるのかわからず困惑する。
「またか……食いしん坊め。悪い兄ちゃん、吸い終わったんなら、その煙草そいつにあげてくんねぇか」
酒場の店主がそう言った。
その言葉が信じられずに俺は手元の煙草を見た。
すると黒い鳥がさっと飛んで俺の手から煙草を奪い取っていく。
「あっ」
止める間もなく、再び地面に降り立った鳥が吸殻を飲み込む。さも美味しそうにだ。
俺には何が何だかわからなかった。