それは突然だった。
昼食を終えて、木の幹を削る作業を始めた。
それもある程度終わりが見えてカッパーさんの提案で二度目の煙草休憩をしていた時のこと。
一度は離れて行った愛煙鳥たちが戻ってきて、その鼻の良さに驚きつつも煙草を吸いながら頭を撫でていた。
獰猛そうな見た目だし、実は魔物という情報のせいで少し怖く見えるが実際の愛煙鳥は人懐こくてかなり可愛い。
とても魔物には見えないが、長く人と関わっている間にできた信頼関係のようなものなのだろう。
その愛煙鳥たちが突然激しく鳴いて慌ただしく飛び立った。
その様子に戸惑っている時に
「レイ坊!」
とカッパーさんが叫ぶ声が聞こえた。
反射的に振り返る。それと同時に背筋が凍った。
黒い巨大な影が目の前に迫ってきていた。それが何なのか分かったのは固く閉じた目を恐る恐る開いた後だ。
得体の知れない何か、正体のわからぬ黒い影だったがそれが猛スピードで突っ込んでくるのがわかった。
脳裏に浮かんだのは前世での最後の後継。目前に迫ってくる車だった。
さすがにこの世界に自動車はないだろう。しかしそれに似た何かが俺に迫ってくる。
ぶつかると思った咄嗟に買わせるほどの身体能力はない。
怖くて思わず目を瞑った。
身体にずしんという衝撃が響く。しかし、それだけだった。
予想していた痛みはない。固い何かに肌が触れた感覚はあるがそれも一瞬だった。
「な……なに?」
戸惑いつつ目を開く。
まず自分の身体を確認する。怪我はない。かすり傷すらも。
てっきりこの世界でも命を失ってしまったかと思ったがまだ無事に生きているようだ。
カッパーさんが緊急性のありそうな叫び声をあげたので何事かと思ったのだが……。
俺はぶつかって来た何かを確かめようと視線を前に滑らせる。
「え?」
その正体を見たのに俺の困惑は深まるばかりだった。
「レイ坊、無事か?」
慌てた様子でカッパーさんが駆け寄ってくる。一連の流れを少し離れたところから見ていたのならその焦りようも頷ける。
俺の目の前には身の丈の三倍もありそうなほどの巨体を持つ牛のような生物が倒れていた。
まず目を惹いたのが太く立派で固そうな角だ。それに比べ横たわる身体、特に前足や後ろ足には人間など比にならない筋肉がついている。
「レイ坊……無事なのか?」
近づいて来たカッパーさんが俺の様子を確認して困惑した声を上げる。
その反応を見るに俺にぶつかったのはこの牛のような生物で間違いないらしい。
「カウブルじゃ。家畜じゃが偉く興奮した様子じゃった。恐らく商人が連れていたのが何かの拍子に逃げ出したのじゃろう」
カッパーさんは俺の腕や肩を優しく触る。
本当に怪我をしていないのか確かめているようだった。
「ワシのめにはレイ坊にぶつかったカウブルが弾け飛んだように見えた。一体何があった?」
カッパーさんに聞かれるが答えられない。俺にも何が起きたのかわからないのだ。
その口ぶりから考えて普通は大けがではすまないのだろう。カウブルの巨体を見れば容易に想像できる。
しかし実際倒れたのはカウブルの方。困惑は深まるばかりだった。
その時、森の向こう。カウブルの来た方向で音が鳴り、草が揺れる。
俺とカッパーさんはまた別のカウブルが突っ込んでくるのではないかと身構える。
しかし現れたのは別の人物だった。
「父さん」
「ストンプ」
現れた人物に俺とカッパーさんの声が重なる。
「二人とも無事だったか」
ストンプは安心した様子でそう言った後、俺の隣で横たわるカウブルに目を向けた。
「それは……一体何があった?」
その言葉に俺とカッパーさんは顔を見合わせる。一体、どう説明すれば良いのか……。
悩んだが、結局わからないことも含めてストンプに説明する。
「レイトが?……本当に身体は何ともないのか?」
心配そうなストンプに俺が頷く。
「そっちは一体何があったんじゃ」
今度はカッパーさんがストンプに質問する。
カッパーさんの予想通り、カウブルは町を往来する行商人が飼いならしていたものらしい。
逞しく、脚力が強いカウブルは行商人の荷車を引くのに馬よりも重宝される。
そのカウブルが逃げ出したらしい。
「珍しいことだが、街道に魔物が出た」
とストンプが言う。町の門にストンプの姿がなかったのは行商人が魔物に襲われているという知らせを受けて急行したためだった。
幸い、魔物は小型で数も少なく町の衛兵隊だけで対処できた。行商人にケガもなく済んだのだが一頭のカウブルが襲撃に驚いて森の中に逃げてしまった。
「興奮状態のカウブルは危険だ。森に入っている二人が心配になり見に来たんだが……とりあえず無事でよかった」
そう言うとストンプは倒れたカウブルを軽々と担ぎ上げる。カウブルはぶつかった衝撃で気を失っているだけのようだ。それはよかったと思うが、それよりも人の三倍はあろうかという巨躯を軽々と持ち上げるストンプに驚く。
元冒険者という人間の鍛え方はそんなに凄まじいのだろうか。
「騒動は町にも伝わっているはずだ。母さんも心配しているだろう。今日は早めに帰ってきてくれ」
ストンプがそう言うので俺は頷いた。
町の方にカウブルを担いで帰っていくストンプの背中を見送りながら、結局どうして俺が無事だったのかを考え続けていた。