私を哀れむ領民の声に、お父様はやっと我に返った。
「ジェ、ジェンティアーナ! そんな、そんなことをさせるわけにはいかん!!」
なだめすかすように話しかけるお父様の表情は、言葉と裏腹に、引きつって目が泳いでいた。
「確かにお前は賤民だが、間違いなく侯爵家の令嬢でもあることも事実なのだ。それがこのような、領民の前でおのれの素性を晒したうえ──領地を出るなどと」
「賤民は皆、領地を囲む塀の外にある森で暮らしています。私が賤民である以上、そちらに身を寄せるのが当然かと思うのですが、いけませんか?」
「いけないというか、その」
困ったように言いよどむ。
それもそうでしょうね。前回の人生では、私が侯爵令嬢だなんて誰も知らなかった。だから侯爵家を追放された時に街中を通っても誰も気づかなかったし、私を利用して侯爵家になにかしようとした人もいなかった。
だけど今回の私はこうして、領民の前ではっきりと侯爵家の人間であることを語って姿を見せている。
少し頭のいいコソ泥なら──私に接触して、侯爵家の構造や警備の手薄な場所を聞き出すことくらいは考えつくでしょう。それをこの人は気にしている。
「ご安心ください。私はどんなことがあっても、侯爵家の情報を他人に漏らしたりいたしませんわ」
笑顔で告げると、また領民がざわめいた。
漏らされては困る秘密がある、とでも匂わせるような物言いに食いついてくれたらしい。私は本宅に出入りできなかったから、実際そんな秘密があるかなんて知らないけれど──そんな疑惑を持たれること自体が、お父様たちにとっては不都合だろう。
なんせ慈悲深さで売っている侯爵家だ。
お父様とお母様はいっそうあわてて、私に駆け寄ってきた。
「違うぞジェンティアーナ、私たちはそんなことを心配しているんじゃない!」
「そうよ、ティアナ! これから美しくなっていくあなたが、無法者たちの中でなんの拠り所もなく暮らすなどと言い出すものだから──私たちはそれが心配なの!」
……ああ。
私が覚えている限り、初めて両親に抱きしめられた。
まるで大切な娘みたいに。
まるで、愛しているみたいに。
あったかくて、やわらかくて、なでてくる。
これまで一度も、私にはこんなこと言ってくれたことはなかったから、なんだか泣きそうだ。
まったく、本当に。
うそつき。
唇を噛み、二人を引き離す。
驚く二人の顔を睨むこともできず、顔をそらした私を──おばあ様が支えてくれた。
「心配は無用です。あなたたちはソフォーラのことで手一杯でしょうけれど、ティアナが森に着くまで私の権限で護衛をつけるし、定期的に様子も見守ります。私が育てた、娘同然の孫ですもの。あなたたちが気に病むことなど、これまで通り、なにもないのですよ」
私をかばうように引き寄せてくれたおばあ様は、きっとわざと、嫌味な言い方をしていた。
ソフィーのことにばかり一生懸命で、私にはこれまでなにもしてこなかったのに白々しいと、吐き捨てるような口調だった。
お父様たちも、おばあ様には頭が上がらない。バツが悪そうに目を泳がせているだけだ。
そして、妹は。ソフィーは。
今もまだ事態を理解できていない様子で、私をじっと見ていた。
泣き出しそうな顔。信じられない顔。今にもなにかを叫びだしそうに唇を震わせているソフィーを心配したのか、領民の子どもの手が袖を引こうとした瞬間だった。
「うそよ」
ソフィーは笑って、そう言った。
「お姉様が賤民だなんて、そんなの嘘よ。だって、だってこの間だって一緒にお茶を……お茶を飲んだじゃない! 私のお姉様が、この私のお姉様がそんな、魔法を使えないなんて──じゃあ私は、賤民を慕っていたの? 賤民と一緒にテーブルを囲んで、お茶を飲んだってこと!? そんなの……!!」
「ソ、ソフォーラ!!」
お母様は今度は、あわててソフィーを抱きしめに走った。忙しそうで大変だ。
たぶんこのままだと、ソフィーがとてもよくない言い方をすると思ったんでしょう。……間違いなく正解だと思う。まぁ、すでにだいぶ言っちゃってはいるけれど。
まだなにか叫び足りないらしいソフィーをなだめながら、お母様はソフィーを馬車へと連れて行く。
お父様はそんな二人とおばあ様を交互に、オロオロとした様子で見てから──やっぱり、馬車へと戻って行った。
「さようならお父様。私、このまま行きます」
声を投げても、聞こえていないのか返事もない。慈悲深い侯爵家の姿はもうおしまいらしかった。
侯爵家の馬車は、逃げるように広場から駆けて行く。
それを面白がるように見送る領民たちに向き直り、改めて声を張った。
「皆様、お騒がせしてごめんなさい。けれどこれまで貴族として立っていたけじめとして、皆様に事実を伝えたかったんです。……もうお会いすることもないでしょう。今後もこの侯爵領と皆様の生活が、穏やかで平和なものであることを祈っています」
言い終わった私に、控えめな拍手が起こる。
賤民を称えたくない気持ちと、貴族としてのけじめをつけた子どもへの労い。それときっと、おばあ様への配慮。いろんなものが入り混じったような、なんともすっきりしない、中途半端な拍手だ。
それでも、今の私には充分だった。
少なくともこれで、侯爵家には賤民となった娘がいることは領民に周知できたし、慈悲深い侯爵家という姿に、違和感を持たせる布石は投げ入れられた。
もし今後、前回のように呪いで国民を殺したなんて貴族が言い始めたとしても、侯爵家への反発で、異議を唱える人間も出てくるかもしれない。
そうなれば、賤民を皆殺ししようとする動きは鈍くなる。
起こるかどうかも分からない未来への布石だけど、まぁ、ないよりマシでしょ。
……ただ単に、お父様たちの評判を落としたい気持ちもあったしね。
こっそりと舌を出した私と、それを笑ったおばあ様の上に、ばさりとなにかか被さった。
──たぶん大きな布、かしら?