布がかかった瞬間、領民たちがどよめくのが聞こえた。
どこに行った、転移魔法かと混乱する声がするということは、どうやら私たちどころか、この布も見えていなかったみたい。
「これって、おばあ様が……」
【ティアナお嬢様、大奥様、リリーです。どうぞそちらを脱がず、そっと身を屈めて舞台左から裏側へお越しください。民に囲まれることなく、目的の場所までお連れします】
おばあ様がやったの? と聞く前に、耳に直接声が飛び込んできた。小さな声を遠くに届けることのできる、風の基本魔法。
確かにリリーなら、布を狙った場所に被せることも簡単なはずだ。私と同じく頭から布を被っているおばあ様も、ウインクして笑ってるし──この布のことはあとでリリーに聞けばすぐに分かる。
今は舞台から捌けるのを優先したほうがいいみたい。
……足が覗かないように少し屈み、言われたとおり舞台裏に回り込む。
するとヒラヒラと、小さな手だけが私たちを招いていた。
私たちも布から出た部分はこう見えるんだろうけど──客観的に見ると、ちょっと怖い。
そっと傍寄ると、もぞもぞとリリーが私たちを覆う布に入ってきた。
「お呼び立てするような真似をして申し訳ありません。お迎えに行くと、身動きが取れなくなったときに困ると思って……」
「いいのよ、気にしないでちょうだいリリー。あなたにはそのために遅れてきてもらったのだから。むしろよく察してくれたわ」
褒めるおばあ様と、照れ笑いをするリリー。やっぱりおばあ様の仕業だった。
「ここで説明すると、誰にぶつかるか分からないわね。リリー、あなたの被っていた布を下に敷いて、私たち全員を二枚の布でくるんでくれる?」
「もちろんです大奥様」
おばあ様の指示を受けたリリーは、いそいそと布を地面に敷き始める。
リリーが手に持っていたときはただの白布にしか見えていなかったのに、敷いたとたん、それは水たまりのように地面を映し出した。
「これって、どういう魔法……?」
「光魔法の一種らしいです。私も詳しいことは存じ上げませんが、豪商人や貴族の皆さま、王家の方々がご利用になるものとお聞きしました」
「物を包めば秘密裏に物品の受け渡しが可能になり、被れば逃亡が容易になるシロモノよ。風魔法も編み込まれていて、小さな話し声なら外には聞こえないようになってるわ。……かつて飢饉があったときに貴族たちの間で流行ってね。長く続いている家は、ほとんどがこれの恩恵を受けているの」
おばあ様の表情が、とても忌々しそうな笑顔で歪む。きっとおばあ様が餓死した世界でもこれは使われたんだろう。そう思えば、この表情にも納得できた。
……魔法って便利ね。
こんなものがあると世間に知られれば、生活に困った人間がいくらでも盗みを働けることになってしまうけど──きっと相当高価なものだ。
普通に生きていればこんな物、存在さえ知らないまま過ごすんだろう。
富裕層から見える世界と、貧民、賤民から見える世界は違う。
富裕層が知っている道具と、それ以外が知っている道具も違う。
同じ人間のはずなのに、なぜこんなにも差が生まれたんだろう。
私はこの差を、ザナートの言っていたような神の愛がかたよった結果とは思えない。
だからもし理由があるのなら──それを、知りたいと思った。
ピリッと、頭が痛む。
「っ……」
「ティアナ? どうしたの、どこか痛む?」
「いいえ、大丈夫よ。きっと少し疲れただけ」
笑って誤魔化したけど、おばあ様は心配そうに額を撫でてくれた。
考えごとをしている間に、リリーは準備を終えたらしい。どうやったのか二枚の布はピッタリと閉じられていて、ほんのちょっとだけ狭いくらい。
だけどそのお陰で、おばあ様が私をギュッと抱きしめてくれている。
……この胸に抱かれるのも今日が最後だと思うと、なんだか鼻の奥がツンとした。
「大奥様、このあとはどのように……?」
「ありがとうリリー、あとは私がやるわ。と言っても、転移石を使うだけだけれど」
おばあ様が取り出したのは、手の平大の丸い石だ。
魔力を込めれば、決まった場所に移動することができるとソフィーに聞いたことがあるけど……私は実際に使うところを見たことがない。
ただの石にしか見えないのになんだかめずらしくて、思わずのぞきこんだ私を、おばあ様が笑った。
「忘れ物はない? すべて持っていて?」
問いかけにも深く頷く。
肩から掛けた革バッグは、おばあ様からいただいた無限容量魔法がかかった特別製だ。私が植物の治癒力について書き綴っている本も入れてあるし、もちろん、白紙のままの本もたくさん詰めてある。
あとはいくつかの保存食料と、森での生活に必要だったもの、あったら絶対に便利だった物が詰まってる。
可愛いソフィー、大事なソフォーラ。本当はあの子も最後に抱きしめたかったけれど、きっとソフィーから拒絶されるのが目に見えていたから諦めた。
あの子の本音を知らないままだったら、きっとそれを願って──今頃傷ついて泣きわめいていたかもしれない。さっきのあの子みたいに。
そういう意味では、私たちやっぱり姉妹でよく似ているんだろうな、なんて思える。
やがておばあ様が手の中にある転移石が淡く光り、足元からの風を感じた。
頭がくわんと回ったような、不思議な感覚。空中に放り出されたようなそれに一瞬引き攣ったような声をあげてしまった直後、私の足は、布越しに存在する土を踏みしめていた。
リリーが腕を振ると、私たちを覆っていた布がふわりと巻き取られていく。
目の前に広がっているのは、私の中ではつい先日まで暮らしていたばかりの──だけど今回の人生では初めて目にする、広大な森だった。
吹き抜ける風が、青い匂いの空気を運んできた。
あの日、火に囲まれた森。さみしく暮らした森だ。
不安がないと言えば嘘になるけれど、それでも一年暮らした、私の居場所には変わりない。
ふらりと、足が森へと踏み出す。
「っティアナお嬢様!」
泣き出しそうなリリーの声に、私は満面の笑顔で振り返った。