あの日、私との別れを惜しんでくれる人はいなかった。
突然のことに戸惑い、混乱しているように見えたソフォーラの本音も、さっき聞いたばかりだ。あの子が賤民どころか魔力の弱い人間まで差別していると知った日から予想はしていたことだけど、少しショックではある。
だからこそ、リリーが私を呼び止めてくれたことが、本当に嬉しかった。
「大丈夫、ちゃんと生きていくわ。ほかの人たちとだってうまくやっていってみせる。──だけどもしたまに、リリーが会いに来てくれるなら……とっても嬉しい」
前回の人生で、私には森の中の知り合いなんていなかった。
貴族として生きてきたプライドを捨てられず、賤民として生活することに恥さえ感じていたせいだって分かってる。たまに人に優しくされても、うまく感謝すらできなかった。そんな人間と、誰が助け合おうと思うだろう。
今度はそんな失敗しないように、と思っているけれど──知らない人たちとコミュニケーションを図るのは、やっぱり勇気がいるしきっと心も疲れていく。
リリーが遊びに来てくれたら、どんなに心強いだろう。
「行きます、絶対! お仕事がお休みの日は、必ず……!!」
ぐすぐすと鼻をすするリリーは、私よりも年上なはずなのに、なんだか幼く見えた。
たとえこの約束を反故にされたとしても、今日のリリーを思い出して、私はいつまでもリリーを待てる気がする。
「ジェンティアーナ、これも持ってお行きなさい」
おばあ様から渡されたのは、さっき使ったばかりの大布だった。
「普段は決して使わず、誰にも打ち明けずに、大切にしまい込んでおいて。だけどどうしても助けが欲しい時もあるでしょう。森に住む人々だけでは解決できない問題も出てくるかもしれない。そんな時、これを使って。私が健在なら、絶対に力になると約束するわ」
「……持って行ってもいいの? これ、かなり高価なものなんじゃ」
「あら、だからこそでしょう。可愛い可愛い孫娘の旅立ちに、手を尽くさない婆はいないものよ。それに、リリーのことも安心なさい。私付きにして、年配のメイドたちからも正しい意味で可愛がってもらえる環境にしますからね」
ぱちんとウインクして見せるおばあ様は、今までで一番魅力的で、楽しそうに見える。これまでそんなこと考えもしなかったけれど、もしかしておばあ様、いろいろなことを考えて手を回していくのがお好きなのかもしれない。
「業務として、森にお使いもさせるわ。もう会えないなんてことには絶対にさせませんから、余計な気を回さずあなたは森での生活を安定させることを第一にね。……神からの恩恵が、あなたを導くことを祈っているわ」
そう言って、私の手に指輪を嵌める。
斬り殺されたあの瞬間、私の時間を巻き戻し、植物の持つ治癒力について知識をくれた指輪だ。
もう二度と、あんな未来にはしたくない。
「──じゃあ、もう行きます。おばあ様、リリー! ご機嫌よう!!」
笑って手を振り、森に駆け出す。
振り返ったら、きっと泣いてしまうような気がした。
前回の人生ではわけも分からず歩き回った森の中だけど、今はまっすぐ、私が暮らしていた小屋に至る道を辿る。木々が生い茂り、草に埋もれた木の根で足を取られる地面すら、今回は苦もなく踏破することができた。
その先にある、ほんの少し開けた場所。より一層鬱蒼とした中にあるその小屋は、私が辿りついた時よりも、ほんの少しキレイな状態でそこに建っていた。
「……こんなことを言うのもおかしな話だけど、久し振りね。──ただいま、私のもう一つのお家」
壁を撫で、額をつける。
私が暮らした粗末なお家、私の死んだ場所。暑い日もひんやりしてる代わりに、寒い日は凍えるほど寒い家。
それでも私に屋根と壁のある場所を提供してくれた、かけがえのない居場所だ。
鍵も取り付けられていない扉を押せば、軋んだ音を立てて簡単に開く。
不思議と、あの日のような埃くささは感じない。代わりに、ヒューヒューと変な音がしていた。
「あまり汚れてないけど……風が漏れてる? 二年後には廃墟同然だったけど隙間風はなかったし、この頃はまだ誰かが修繕しながら使ってるのかしら。それならこの小屋に住むのは無理かも──?」
言いかけ、小屋の中を見回して、絶句する。
確かにヒューヒューという音はしていたけど、これは完全に予想外だった。
首と顎の境が分からないほど喉を腫らした男の子が、ぼろぼろの布を巻きつけるようにして台の上に寝転がっている。
「……これは、ちょっとまずくない……!?」
顔が赤くて、喉が腫れてて、ヒューヒューと音がする。
どう見てもこの感じ、治癒士にかからないといけないやつだ。しかも、たぶん今の私と同じ歳か、少し年上くらいの男の子。
貴族がどうとかじゃなくて、私、殿方と対面することはあっても、手に触れたことすらないんですけど……!
思いっきり壁に背中をつけて、とりあえず距離をとってみる。
だけどその時うっかり、地面に置かれていた木桶を倒してしまった。
がろんと重い音がして、男の子の顔がギュッと歪む。
「なに……だ、れ……」
薄く目を開いた彼が、かすれ切ったひどい声で呟く。
聞き取るのもむずかしい。だけどその声に、私の胸がぎゅうっと締め付けられる感じがした。
こんな状態で、たった一人で、こんな場所で寝ているしかできないなんて、辛すぎる。
ひどく咳き込んでいる彼に恐る恐る近づき、顔を覗くようにしゃがみこんだ。
「勝手に入ってしまってごめんなさいね。大丈夫、私も賤民よ。住む場所を探してここに来たの。……なにか私にできること、ある?」
問いかけに彼は、震えた呼吸を落ち着かせながら、涙目で頷く。
「み、ず。のど、いた……」
「お水が飲みたいのね。少し待って」
さっきひっくり返した木桶が使えるかと思って、振り返る。けれどそこにこぼれていた水を見て、私はまた絶句してしまった。
土の上でもわかる程度に、白く濁った水。汲まれてから放置され続けて、腐ってしまったんだ。この木桶も、きれいな水で洗わないと使い物にならない。私が来なければ、きっとこの子は数日以内に死んでいた。
小屋の中にある、あまりにも濃い死の気配に、愕然とさせられる。