「う……」
ゆっくりと目を開ける。
視界に映ったのは知らない景色だった。
「ここは……」
どうやら誰かの屋敷の中らしい。豪華な装飾が至る所に見える。
起き上がろうとしたが、その瞬間、手を後ろに回されて縛られていることに気が付いた。
なんとか腹筋の力で身体を起こす。
知らない場所。縛られている身体。
これって、完全に……。
「あら、起きたの?」
「!」
必死に状況を整理しようと考え込んでいると、突然見知らぬ声がした。
そちらに目を向ければ、視界に映ったのは猫の獣人の女性。
(……誰?)
見覚えのない顔だった。思わず首を傾げる。
私のそんな表情に気付いたのか。女性がフンッ! と鼻を鳴らしながらふんぞり返って言った。
「私を知らないの? とんだ田舎者ね!」
「……申し訳ありません。よければお名前を……」
「ミランダよ! 誇り高きオーウェイ家の娘、ミランダ・オーウェイ! そのちっさい脳に刻みつけなさい!」
その名前を聞いてハッとした。
ミランダ・オーウェイ……。グレン様から「気をつけろ」と言われていた令嬢の名だ。
確かに猫の獣人という点も一致している。
となると、私をここへ誘拐してきた理由は。
「なんでんな所に連れてこられたのか、あなたもよく分かってるんじゃない?」
「……それは」
「そう! あなたをグレン様の婚約者から辞退させるためよ!」
やっぱり。思った通りだった。
(ああ……私はバカね。グレン様にあれほど気をつけろと言われていたのに……)
行き慣れた街の中で少しだけ、と思い、ユーフェミア様や護衛の人達から離れた完全なる私の不注意だった。自己嫌悪で泣きたくなる。
そんな私の様子を、ミランダさんは意にも介さず。
私に近づき、長い爪で私の顎をつつ、となぞりながら言う。
「ねぇ、あなた? 確かエリンというのだったかしら」
「……はい」
「じゃあ、エリン。
ここであなたのお口から、「グレン様の婚約者は辞退いたします」という言葉が聞けたら……、解放してあげてもよくってよ?」
目を見開く。
ミランダさんは口角を歪ませながら続けた。
「だってそうでしょう? あの麗しいグレン様の婚約者に相応しいのはこのわ・た・く・し。あなたのような地味で、ぽっと出の、人間の小娘なんかが務まる役じゃないわ。
だから、今ここで、私に、「グレン様の婚約者の座をお譲りいたします」と宣言してほしいの。そしたら……何もせずにお家に帰してあげたっていい」
「……私がその後、グレン様にそのことを言うとは思わないんですか」
「やあね。あなただってそこまでお馬鹿さんではないでしょう? 言ったらどうなるか……、想像できないはずはないわよね?」
完全なる脅しだ。私がこのことを周りに言いふらさないよう、牽制をかけてきている。
(……グレン様の婚約者を、この人に……)
譲る。そのことを、頭の中で想像してみる。
……そうしたら、きっと私はお払い箱だ。そのまま祖国に帰って、二度と彼の顔を見ることも叶わなくなるかもしれない。遠くから見るくらいなら、出来る可能性はあるけれど。
ミランダさんは美しい獣人だった。しなやかな尻尾に整った顔立ち。おそらく獣人の中でも飛び抜けて美しい部類に入るのだろう。
彼女の言うように、グレン様と並んで遜色ないと誰もが思うのは、きっと彼女の方だ。
……そこで。彼女と並び立ち、笑顔を浮かべているグレン様の姿を思い浮かべたら。
『──ズキン』
「っ……」
ずきん、ずきん、と、絶え間なくやってくる胸の痛み。
なんだろう、これは。
自分でもよく分からない。
でも、一つだけハッキリしていることがある。
「……や、です」
「は?」
「いや、です。グレン様の婚約者の座は、渡したく、ない」
──彼の隣にいられる権利を、他の人に渡したくない。
そう強く思った。
「うっ!」
その瞬間、ミランダさんの手が私の首にかかり、ギリギリと締め付けてきた。
息が詰まって、呼吸ができない。
「っ……!!」
そのまま上げられる私の身体。
足をばたつかせるが、効果はあまり無いようだった。獣人って、こんなに力が強いのね。今まで知らなかったわ。
ぼんやりとする視界の中で、ミランダさんが世にも恐ろしい形相で私を睨んでいるのがわかる。
「……ざけるな、ふざけるなふざけるな、ふざけんなッ!!
彼の隣に相応しいのは私!! 家柄も!! 容姿も!! 誰より私が相応しいに決まってるのよ!!」
「ゔ、かはっ、……!」
「それを、名も知らぬ弱小国家から来た人間の小娘が奪うなんて……っ!! 許されないに決まってるでしょう?!」
そうだ。その通りだ。
言ってることは間違ってない。……多分。
でも、嫌だと思ったのだ。
彼にいつも困ったように、でもどこか楽しそうに笑みを向けられるのは、私でありたい。他の誰かがその場所に居るのは、とても辛くて、さみしい。
そこで、気付いた。
(ああ、私……)
どうして、今までこんなことに気が付かなかったんだろう。
私、きっと、グレン様のことが好きなんだ。
最初はあんなに狼体の彼に魅了されていたのに。気付けば、脳裏に浮かぶのは人間の顔をした彼ばかり。
でも、狼体の彼への想いも無くなってはいない。きっと二つとも、同じくらいに好きなのね。
ふ、と笑みが零れる。
こんなことにも今の今まで気付いていなかった、私への自嘲のようなものだ。
しかし、それがミランダさんの逆鱗に触れたらしい。
「……アハハッ! 随分と余裕ですのね。憎たらしいこと。
でも、これを見ても笑っていられるかしら?」
手を急に離される。身体が地面に激突した痛みに耐えながら、必死に呼吸を整える。
そんな私の姿を見下ろしながら、ミランダさんが指をパチン! と鳴らした。
すると別室に控えていたらしい、大きな男性の獣人達が数名部屋に入ってくる。
皆、下卑た笑みで私を見ていた。
……ぞっとするほど、嫌な笑い方で。
「そこまで言うのなら、実力行使に出てあげますわ」
「じ、じつりょ、く、こうし……?」
「分からない? ま、なんて子供な方。
まぁ今にわかるわ。お前達、やっておしまいなさい」
ミランダさんの一声に男達が私の方へと向かってくる。
手足も、頭も押さえつけられて、声にならない声が出た。
ひやっと背中が寒くなった。
(実力行使って……まさか!)
「『皇族へ嫁ぐには純潔であることが必須』……ですものね?
それに、男達に弄ばれた惨めなお前の姿を見たら、グレン様はどんなお気持ちになりますでしょう」
予想は当たっていたようだ。
ほくそ笑む彼女の顔が、とても醜いものに思えてならない。
必死に制止の声を出す。
「っや、めて、くださいっ!! や……っ!!」
「うるさいですわねえ。そこの、口も塞いじゃってくださいませ」
「むーーッ!!」
すると、大きな手に口を塞がれて声が出なくなった。
そうしている間にも、私の身体を彼らの手が、舌が這っていく。
(──嫌だ!!)
「ッ!!」
「いっでェ!! この女ッ、噛みやがった!! このっ!!」
「い゛ッ……!!」
口を塞いでいた男の手を噛むと、顔を思いっきり殴られた。口の中に血の味が広がる。
逃げようとしても身体を引っ掴まれ、戻された。
「無駄なんだよ!!」
「余計な手間かけさせんな!!」
彼らの影が、大きく大きく、上へと伸び上がっている気がした。
恐怖で身体が震える。
心を染め上げたのは、恐怖と、絶望。
(嫌だ、こわい、こわい)
それと。
こんな状況でも微かに残っている、誰かへの希望だった。
「……グレン、さま……」
彼の名を呟くと、目からぽろりと涙が零れた。
「────うわぁあッ?!」
「?!」
すると、扉の向こうから叫び声が聞こえた。
その場に居た者全員が扉の方を見る。
そして、バン!! と勢い良く扉が開かれた。
姿を現したのは。
「────エリンッ!!」
「ぐれん、さま?」
私がずっと、頭の中で思い描いていた。
グレン様その人だった。