(そんな、今さら地上へ連れていかれても困る!)
もう八年も暮らしている場所から離れて、どうやって生きていけと言うのか。それにサージャは地上にいても『形代』に変わりない。これから先も、王子の身に瘴気の影響がある度、サージャの体がそれを受けとめるのだ。今回の左目のように、体内での浄化が思うように進まない場合、このように人目につかない隔離できる場所が必要な上、食べ物など生きるための最低限の援助が必要だ。
今はこの神殿の地下で、ひっそり息をひそめて暮らしているが、討伐隊が出立する半年前までは、フードをかぶって顔を隠せば上階の広間ものぞけたし、神殿の裏庭を歩くこともできた。サージャの事情を知る神官たちは、必要と思われる食料や衣服をはじめ、本やノート、また絵を描くための画材だって用意してくれた。
「俺は、ここでいいです。ずっとここで暮らしてきたから、今さら不自由なんて感じてません」
「それは君が『形代』をしてる限りだろう。君の犠牲の代償として、ここの神官たちは君に最低限の衣食住を提供していたに過ぎない。もし君が『形代』でなくなったら、ここにとどめておく理由はない」
サージャは顔色を変えた。指先が無意識に左目へと伸びてしまう。正直このアザが消えなかったら、お払い箱にされるかもしれないと感じていた。自分の不安定な立場を見透かされたようで、王子に対する恐怖と警戒心が芽生えた。
しかし目の前の男は、そんなサージャのおびえにも似た感情をあっさり無視して、淡々とした口調で続ける。
「まずは君を王宮で保護する。『形代』の解消は、平行して進めるつもりだ」
「えっ……」
うろたえるサージャの元に大神官が駆けつけ、かばうように立ちはだかった。いつも作り物のような笑みを貼り付けている顔は、今や青ざめ唇を震わせている。サージャは、こんなに感情を露わにする大神官の姿をはじめて見た。
「そのようなこと、勝手にお決めになられたら困ります!」
「先に勝手に決めたのは、お前たちのほうだろう。いや、王妃に命じられて拒否もできなかったのだな。あらためて、すまないことを強いた」
「殿下……」
大神官が取りつく島もなく立ちつくす中、王子の手がサージャの腕をつかんだ。
「さあ、おいで」
「や、やだ……」
サージャは腰が引けた状態で首を振る。無礼とも思える拒絶に、王子は怒る様子もなく、ただ少し困ったように眉をひそめた。それでもサージャの腕ははなしてもらえず、もがいているうちに、軽々と抱き上げられてしまった。
「なっ、はなせ!」
「王宮に着くまではなさない」
まるで子どものように片腕で抱えられ、サージャはひどく自尊心を傷つけられた。しかし相手は王族なので、うっかり暴れてケガでもさせたら大変だ。しかもサージャはこの男の『形代』で、むしろ彼の身の安全を守る立場だ。
(このアザさえ消えれば……そうすればきっと分かってもらえる。いや、分からせてやる! コイツが無事でいるために、俺は今まで生きてきたんだからな)
サージャはひどく暗い気持ちで、頭上から降り注ぐ明るい光に目を細めた。王宮までの短い道のりは、決して愉快なものではなかった。神殿の上階にある祈りの間を抜けて、王宮へと続く屋根のついた廊下を進む中、たくさんの好奇な目にさらされた。
(なんで俺が、こんな目にあわなきゃならないんだ)
途中サージャの気持ちを察してくれたのか、王子がマントで頭を隠してくれたので少し安心した。小さな箱庭の世界にいたサージャにとって、その外側は未知の空間で、どんな危険があるのか想像もつかなくて怖かった。
(俺、どうされんだろ……)
やがて王子は足を止めると、次に扉が開くような音がした。たどり着いた部屋には複数の人の気配がして、サージャをますます萎縮させた。
「着替えを。あと湯を用意してくれ」
「かしこまりました」
サージャはやわらかなクッションに下ろされ、ようやくマントを取り払われた。多くの人の視線を感じて、体を小さくするように両手で足を抱える。そこではじめて靴を履いてなかったことに気づいた。
「まずは体を休めてくれ。食事は中庭に面したテラスに用意させよう。君は少し日に当たったほうがいい」
たしかにその点は、サージャも気にしていたところだ。いくらあの地下の部屋が、日光が差し込む構造だとしても、太陽が見えない地下に変わりはない。しかも地上に出る機会はとても限られていて、大抵は人目につかない日が暮れたあとだった。どう考えても体に悪い気がする生活だ。
「できるかぎり早く、この術を解く方法を見つける。そのあいだ君にはここで過ごしてもらうが、不自由しないよう取り計らうつもりだ」
不自由しないとは、と部屋の中に視線を巡らす。着の身着のままで連れてこられたサージャは、今着ている寝巻代わりの白い木綿の上下以外なにも持ってきてない。神殿地下の住処にあるのは、学校に通えない代わりに用意された数冊の本と、時間をつぶすために与えられた画材道具に数冊のスケッチブック、また多少の自炊をするために使っていた鍋や皿が少しばかり。あとは普段着ていた神官用の、裾の長いくすんだ水色の制服が数枚ほど。
「服だけは無いと困るので、取りに戻ってもいいですか」
「服はこちらで用意させる。君は普段どのような服を好んで着ていた?」
服に好みとか、関係あるのだろうか。裕福な貴族ならあるかもしれないが、神殿では神官服しかなかった。だからといって神殿に連れてこられる前の、街での暮らしはとても質素で、特に子どもの服などは近所同士でゆずり合う誰かのお下がりばかりだった。気にする点は、体のサイズに合うかどうかだけだ。
「普通の、昼間に着られそうな服ならなんでも。特に好みとかありません」
「わかった。ならばこちらで君に合いそうな色や形を選ばせる」
色や形を選ぶ必要など、どこにあるのだろう。サージャは基本人前に出ることはない。それでも外に出るときは、必ず足首まですっぽり覆うフード付きのマントを着用するのだから、服の色や形に意味はなかった。
服装は、強いて言えば『記号』だ。メイドたちは丈の長いワンピースにエプロンを着用し、兵士は硬そうな胸当てを身につけている。サージャはいちおう神官扱いなので、神官服を着ていた。おそらく好みの服を着るのは、着飾るのが好きな貴族くらいだろう。
(この人は『王子』だから)
きっと『王子』には好みの形や色があるのだろう。その『王子』がソファーの前に片膝を着いて、サージャの顔をのぞきこむ。視線を合わせているつもりだろうが、なぜサージャに対して『王子』が目線を合わせる必要があるのか。
(それは俺が、この人の『形代』だから)
自分が受けた瘴気を肩代わりする人間。もし『形代』がその瘴気を受けとめきれなくなったら、自分に戻ってきてしまうかもしれないと危惧しているのか。少なくとも大神官や王妃は、そう信じているようだった。
しかしサージャは、自分を『形代』に変化させた術師にこっそり聞いたから、本当はなにが起こるか知っている。
(この瘴気は、俺の体から絶対にはなれない。体の中で浄化するしかないんだ)
万が一、この『形代』の術が解かれるとすれば、それはおそらく……。