サージャはストーブから出したてのトレーをキッチン台に置くと、茶色く焦げ目のついたビスケットを隣の男にすすめてみた。
「これは食べていい状態なのか」
どうやら王子は、焼きたてのビスケットを食べたことがないらしい。
指をのばして慎重にひとつつまみ上げると、口元へ運んでそうっとかじった。
「うまいな」
「焼きたてはね。冷めるとかたくなっちゃいますよ」
サージャがビスケットを咀嚼する横で、王子は不思議そうに手の中のビスケットを見下ろす。
「かたくなると、食べられないのか」
「そんなことないけど」
サージャは手の粉をはらうと、ノートをやぶった紙でビスケットの残りを包んだ。
「私にも分けてくれるか」
真剣な顔で問われ、サージャは目を丸くした。
「別に、食べたければ食べてもいいですけど」
「食べたい。特に冷めたあとが気になる」
どうやら王子は、冷めたビスケットの味が気になるらしい。
(変な人……)
こうしてサージャは、久しぶりの部屋で短い滞在を終えると、ビスケットと一緒にまとめた荷物を抱えた。すると王子は再びサージャにシーツをかぶせて、当たり前のように抱き上げた。
「さあ、王宮へ戻ろう」
その夜。
ディランが執務室で書類の束と向き合っていると、軽やかなノックの音とともに扉が開いた。
「ああ、やっぱりここにいたか。念のため軍部から回ったけど、今日は顔を出してないって聞いたから、まさかと思ってここへやって来てみたら本当にいた」
リューク王太子は、部屋の主の許可も得ずにズカズカと中に入ると、デスクのそばのソファーにドカリと腰を下ろした。
「お前、本当に軍を辞めるつもりか? 叔母上から聞いて驚いたよ」
ディランは書類を机の上に置くと、椅子の背もたれに寄りかかった。
「ええ。できれば以前のように、兄上の補佐に戻りたいと思ってます」
「それは大歓迎だけど、本当にいいのか? お前ずっと浄化魔法を生かした仕事をしたがっていたじゃないか。それとも遠征疲れか? はじめての討伐任務が、まさかの半年だもんな。嫌気が差してもしかたないけど、普通は長くても二週間程度だって知ってるだろう? 公務もあることだし、叔母上に相談して今後は短期の任務に限定してみても」
「兄上の補佐に戻れるのならば、軍部の仕事は辞めるつもりです。マリキル隊長にはすでに話をつけてあります」
弟の真っ直ぐな視線を受けて、リュークは肩をすくめた。それがディラン自身の意思ならば反対する理由はない。
さきほど会った叔母のマリキル隊長でさえも、五年前ディランが軍部に籍を置いた当時あれほどよろこんでいたのに、弟の決断に惜しむそぶりも見せなかった。
当人も、当人の上官も納得の上ならば、リュークに異論はない。
「では今後の仕事については、明日の朝にでも打ち合わせをしよう。朝食がすんだら私の執務室へ来てくれ」
「兄上。戻られる前に、処理済みの書類を確認してください」
リュークは扉へ向けた足を、一旦デスクへと戻した。積み上げられた書類の一番上を見て目を丸くする。
「わあ、もうこんな先まで終わってるのか。これはありがたい」
「この量ならば半日仕事です」
「お前ね……少しは休養を取ったほうがいいぞ。だいぶ痩せただろう? 半年も城を開けてたから、疲れもたまっているはずだ。休養も大事な仕事のうちだぞ?」
リュークは抱えた書類の束をパラパラとめくりながら、自分の言葉にウンウンとうなずく。
そこでふと視界の端に、異質な物をとらえて瞬きをした。
「それは、なにかの食べ物か?」
「ビスケットです。私の伴侶が焼きました」
そういえば、弟が遠征から帰還するなり、神殿へ恋人を迎えに行ったという噂は耳にしていた。
これまで色恋沙汰などとは無縁と思っていた弟が、まさか神官に懸想していたとは驚きだった。
「ひとつもらっても?」
「……かまいませんが、冷めているのでかたくなってます」
渋るように言った弟の顔に、リュークは思わず吹き出してしまった。
「いや、やっぱりいいや。その愛しの伴侶どのとは、いつ会わせてもらえる?」
「当面は無理ですね。体を壊しているので、私以外とは一切面会謝絶です」
そう話す弟の顔色こそ、体を壊しているのではないかと疑うほど青ざめている。
ふりかえってみると、ここ数日の彼の動向はおかしなところばかりだ。
凱旋帰還するなり祝賀会をすっぽかして神殿へ行ったり、急に軍を辞めると言ったり、とつぜん伴侶を決めてしまったりと、奇行とも呼べる行動が続いている。
だが国王夫妻は、今のところ横槍も入れずに静観している。
なにか訳があるのかもしれないが、苦しい遠征から帰還した息子に労いの意味をこめて、しばらく好き勝手にさせてるだけなのかもしれない。しかしほかの兄弟姉妹を含めて、誰もが今の彼を『らしくない』と思っていた。ディランは昔から品行方正でストイックで、常に理性的に行動する人間だからだ。
「そうか……なにか困ったことがあれば、いつでも相談にのるからな」
兄の言葉に弟はうなずくものの、その表情から胸の内を聞き出すのは容易じゃなさそうだった。
腕組みをしたサージャは、目の前の状況に困惑していた。
「この部屋とその付近は夕方まで人払いしておりますので、ご安心してお使いください」
メイドはそう言って、しずしずと扉の前に移動した。どうやらそこで待つつもりのようだ。
(いや俺、別に料理好きってわけじゃないんだけど)
サージャが案内されたのは、簡易キッチンがある小部屋だった。どうやらメイドの控え室のひとつらしく、あまり頻繁に使用してないと言われた。
控え室らしく、小さなテーブルセットがあり、そこには料理に使えそうな、しかし偏った種類の食材が用意されていた。小麦粉だけでも数種類あって、さまざまな調味料が並んでいる。しかし野菜も果物もない。ちなみに調理道具はボールが数種類あるのに、ナイフもまな板も見当たらない。
(これじゃお菓子しか作れないじゃないか)
ことの発端は、サージャが神殿の部屋でビスケットを焼いたことだ。
そばにいた王子に味見でひとつ勧めてみたところ、気に入ったらしく、けっきょく残りをすべて渡すことになってしまった。
王宮に戻るなり、仕事があるからとサージャの部屋を後にした王子は、その手にしっかりビスケッ
トの包みを持っていた。その後なぜかメイドに案内されて、このキッチンの部屋にやってきて今に至る。
「なにか他に必要な食材があれば、お申しつけください」
メイドの言葉に、サージャはちょっと考えてから口を開いた。
「ナイフとかは、貸してもらえないですか?」
「申し訳ございません。食材ならご用意できるのですが」
どうやら危険?なアイテムは使わせてもらえないようだ。ナイフが使えないことを考えると、あえて野菜も果物も用意されてないことが理解できる。
「あのう、ここにあるもので何が作れそうか、教えてもらえませんか?」
サージャがためらいがちにそう言うと、メイドは一瞬驚いたような表情を浮かべた。手まねきしてテーブルの前まで来てもらい、食材の前であらためて意見を求める。
「どうでしょう? やっぱりお菓子くらいしか作れませんよね?」
「たしかにそうですね。でも殿下は甘い物も召し上がられますよ」
なぜ王子に渡すことが決定事項なのか不思議だったが、ほかに渡す人がいるかと問われれば王子しかいない。
(あのかたいビスケットで懲りて、食べないかもしれないな。まあ、それなら俺のおやつが増えるだけだ)