その夜サージャは、喉の乾きを感じて目を覚ました。
(熱い……)
左目が燃えるように熱い。
ああいつもの発作か、と固く目を閉じてやり過ごそうとする。
この半年ほどの間、よく夜中にこんな発作が起きた。瘴気を吸った体の部位が熱くなり過ぎると、焼けるような痛みへと変化する。
眠りを妨げられるので、ただでさえ落ちている体力が、ますます削られてしまう。
しかし神殿の地下は、暗くて静かで、人目が無いから安心できた。
どうせ治癒魔法は効かないからと、神官たちも安心して放置してくれる。サージャにかまわなくても、誰も責任を取る必要はなかった。だから仮に、たまたま通りかかった誰かが、地下から漏れるうめき声を偶然耳にしても、駆けつける必要もなければ助けを呼ぶ義務もなかった。
――誰にも、どうしようもできないのだから。
(でも王宮だって、同じだよな)
王宮にいる治癒師は、神殿の治癒師と変わらない。
誰に診てもらっても困らせてしまうだけだ。だから放っておくしかない。
――ならば少しくらいなら、声をあげても大丈夫だろうか。
でもここは神殿の地下ではない。サージャがうめき声をあげたら、誰かが駆けつけてしまうかもしれない。
そう考えながら無意識に口元をおおっていた両手に、あたたかな手が重なった。
「痛むか」
薄く両目を開くと、緑の双眸が間近にあって息をのんだ。
「アンタ、いつから……」
いつからここにいたのだろう。
もしや寝てるときに、うっかり声をあげてしまったのか。
「落ち着いて、ゆっくり息を吸って吐くんだ……そう、いい子だ」
「は、はっ……なんで、ここに、いるの?」
食いしばった歯の隙間から、塩からい味がした。額やこめかみからこぼれ落ちた汗が、唇の隙間から流れこむ。その不快さに顔をしかめると、大きな影が視界をさえぎって、次にやわらかな布が額に当てられた。
「君の苦しみを、私が変わってやれたら、いいのだが」
「……やめといたほうが、いいよ」
切れ切れの言葉に重なるように、王子の吐息が暗闇に溶けていく。
「君だけ苦しむのは不公平だ」
顔の汗をぬぐわれ、ややホッとしたところで、こめかみに湿った感触がした。小さくはねるような水音に、サージャの頬が熱くなる。
(また、だ)
キスに見せかけて、治癒魔法を使っている。今朝も同じことをされたから、すぐに気づいた。
(治癒魔法は効かないって言ったのに)
それでも使うのは、気がすまないからだろう。
やはり罪悪感があるのだ。きっとサージャばかり苦しんでる姿を見て、無駄だと分かっていても、使わずにいられないのだ。
サージャが大人しくしていたら、王子は大胆にも唇を、こめかみから額へとすべらせていった。もはや隠すことなく治癒魔法をかけている。
ジワリとしみこむそれは、痛みをわずかにやわらげてくれるようで、サージャは少しだけ驚いた。例の薬以外、効かないと思っていたからだ。
(ただの思いこみ、かな……?)
王子の唇を通して流れてくる治癒魔法は、くすぐったいくらい控えめで静かで、抵抗感なく皮膚からしみこんでいった。
こんなふうに労わるような魔力は、はじめて経験した。
それというのも、これまで受けたことのある治癒師の魔法は、どれも強引な力で抑えつけようとする感じがしたから。
「眠れそうか?」
「うん……」
フワフワと包まれるような魔力に身をまかせたサージャは、いつの間にか眠りに落ちていた。
目が覚めると、寝室には誰もいなかった。
「お目覚めですか」
昨日と同じように、サージャが起きるのを見計らったようにメイドがやってきた。タオルを受け取って浴室へと向かう。
洗面台で手早く顔を洗い、濡れた顔を上げると、正面の鏡の中の人物が驚愕のあまり目を見開いた。
(えっ、待って、嘘だろ。こんなことって……)
見間違えかと、あわててタオルを顔にあてて乱暴に水をふきとり、もう一度鏡をのぞきこむ。
前髪をかき上げて、むき出しになった左目周辺の、額やこめかみに広がるアザの一部が、まだらに薄くなっていた。濃い部分はあいかわらず真っ黒だが、薄くなった部分は緑色を帯びていて――蔦のような形と相まって、まるで植物のようだ。
(なに、この色! はじめてだ、こんなの)
いつもならば、浄化が進んでアザが薄くなってくると、淡い紫色に変色する。その色合いがまるで打ち身のケガのようで、食事を運んでくる神官たちは、時に気の毒そうに、また時に気味悪そうにながめていたものだ。
サージャ自身も、治りかけのアザを見るのは好きではなかった。
アザというより、むしろ自分の顔自体を見るのが嫌になっていた。陽の光を浴びない顔色は白く冴えなくて、不健康そうでなさけなかった。
そして特に、すっかり色の抜けた紫色の瞳は、ちょうど治りかけのアザのようで嫌いだった。
(まてよ、瞳の色……?)
まだらに薄くなっている部分は、緑に変色している。その色は、昨夜サージャを見つめていた王子の瞳を彷彿とさせた。
(まさか、アイツの治癒魔法のせいなのか?)
サージャは改めて、額とこめかみのアザを、念入りに観察した。緑がかっている部分は、主に髪の生え際やこめかみ部分で、前髪を下ろしてしまえば隠れてしまう位置だった。
(これは……アイツに見つからないようにしないと)
もし王子がこの状態に気づいたら、きっと完全に回復するまで、自らの治癒魔法を使おうとするに違いない。
それだけではすまずに、この先ずっとサージャがうまく浄化できないたびに、助けようとするだろう。
――やがて『形代』としての存在価値はなくなる。
遠い昔に告げられた言葉が脳裏をよぎり、サージャは洗面台についた手をグッと握りしめた。
存在価値がなくなるのは、別にかまわない。ただ『形代』は不要だったとか、過去の自分を否定されるのは嫌だが、ここから先は『消耗』する一方だと分かっているから、今後は不要だと言われても、しかたないと納得できる。
まだ『形代』になって間もないころ、術師に教わったことのひとつが『消耗』についてだった。
――お前はいつか枯渇する。『形代』は消耗品だ。
枯渇の兆しは、もう見えていた。浄化の遅さがなによりの証拠だろう。
しかし王子の治癒魔法が『効いて』しまったら、役目を終える日が遠くなってしまうかもしれない。
(そんなの、困る……)
サージャは、いつしか自分が『消耗』して、神殿を立ち去る日を待ち望んでいた。
あの薄明るい地下の部屋で、自由に太陽の下も歩けず、与えられた食料を食べて、それでも耐えてこれたのは、終わりを示されたから。
終わりの見える苦しみには、どこか目標じみた意味があって、これまでずっとおだやかな気持ちで走ってこれた。
「サージャ様、大丈夫ですか」
ノックの音でサージャは我に返った。
扉の外からメイドのうかがうような声が聞こえる。急いで浴室を出ると、扉の前にはホッとした表情を浮かべるメイドと、なぜかそのすぐ後ろに王子の姿があった。
「どうした。なにがあった」
「えっ、別に何も?」
サージャは手櫛で前髪を整えると、平然を装って首をかしげてみせた。
「もう朝ごはん?」
「ああ」
「なんか王宮に来てから、食べてばっかいるような気がするなあ」
軽口に笑顔はやりすぎだったかもしれない。聡い王子は、問うような視線をサージャに向けた。