日が傾いて、執務室が黄昏色に染まるころ、ページをめくる微かな音を乱暴にさえぎるノックの音が響いた。
「どうぞ」
ディランの返事とほぼ同時に開かれた扉から、兄である王太子が現れた。金糸のダブルブレストからは、ドレープをきかせたシャツの袖が揺れている。
つい先刻まで公務だったと言わんばかりの姿だ。
「おや、これは、これは、仕事をさぼってるのかい?」
「本日の仕事は、すでに終わってます。ついでに明日の分も」
王太子はおおっ、と感嘆の声をあげると、子どものように両手をパチリと合わせた。
「優秀で勤勉な弟を持って、なんて僕は果報者なんだ」
「勤勉はさておき、優秀かどうかは疑わしいところです。少なくとも今は、自分に失望する一歩手前まできてますので」
「なんだ、なんだ? なにか問題でもあるのか? 悩みならいつでも聞くといったろう?」
王太子は壁際の椅子をつかむと、重厚なつくりの執務机まで引きずっていき、弟と向き合うように腰を下ろした。
「それで? 僕のかわいい弟君は、何を思い悩んでいるのかな? まさか色恋沙汰ではあるまいな」
「私の伴侶についてであることは、相違ありませんが」
ディランは本を閉じると、組んでいた足を解いて物憂げに、執務机に頬杖をついた。
「え、本当に恋の悩み? それはおもしろ……いや、めずらしいことだ」
ふざけた口振りのわりには、王太子の表情は真剣で、ディランに向ける瞳は愛情深かかった。
だからディランも、ようやく重い口を開く決心がついた。
「彼は禁忌の術によって、私の『形代』にされました。その解呪の方法を調べているのですが、まだ何も有益な手がかりが見つけられないのです」
「『形代』か……それはまた、やっかいなことを」
王太子は『形代』について、多少の知識があるようだ。神妙な顔つきで、ディランの手元に置かれた本に手を伸ばす。
「そんなカビの生えた古臭い、太古の術がいまだに使われてるとはね。だから、こんなホコリまみれの蔵書を引っぱり出してきたのか」
「この本は、禁書を扱う蔵書室に保管されてたものです。たしかにこの何十年もの間、誰かが手にした形跡はありませんでした」
「王家の禁書室なんて、過去の過ちを詰めこんだ、ふきだまりのような場所さ。ふだん誰も近づこうとすらしない。蓋を開けると、臭いものばかり出てくるからね」
ディランは机に並ぶ、擦り切れた本の表紙に目を落とす。布張りの装丁はところどころ変色し、指でこするだけで綻びができそうだ。
(何十年もの間、放置し続けたせいで、過ちの記憶も廃れていったのか……)
だから安易に、禁忌の術などに手を出したのだろうか。
黄ばんだページに綴られていたのは、太古の昔にリトアギル国が消滅したこと。かの国の民は、自分たちの土地を捨て、世界中に散っていったこと。そして一部の人々は、ここグランカーサに身を隠し、やがて現ハイランド王国の民となったこと。
また長きに渡ってその血は薄まり、いまや完全に途絶えてしまったこと。
(そのリトアギルの『浄化力』が、彼のそれと似ている。もしかすると彼の祖先に、かの民の血が混じっているのかもしれない)
ディランの思い浮かべる彼――サージャという青年は、何年ものあいだ神殿の地下にある隠された部屋で、ひそやかに暮らしてきた。
青年と呼ぶには哀れなほど小さく痩せていて、一見少年に見紛う容姿をしているが、その表情は落ち着いた大人のそれだった。動揺すると口調が少々子どもっぽくなるが、自分の考えや意見をしっかり持っている。
(きっと彼は、私の存在をうとましく思っているだろう)
正直、彼の口から『アンタ、ずっと王宮で守られてきたんだろ?』と指摘されたのはショックだった。
それと同時に、彼の周囲には本当の意味で、彼を守る者がいなかったことがうかがえた。
彼は神殿の地下に、あたかも囚人のごとく閉じ込められていたにもかかわらず、今でもあの地下の部屋に戻りたがっている。
長年住み続けたため、愛着のようなものがあるのかもしれない。
しかし部外者のディランからすれば、あれは『部屋』ではなく『独房』だ。
最低限の衣食住を与えられたのは、すべては『形代』を生かすためであり、王家の禁忌を外部に漏らさないため。そのように周囲の思惑によって、彼のあの地下での生活が成り立っていた。
(そういったことを、彼はすべて分かった上で、あの生活に戻ろうとしてる気がする)
サージャは子どものころ神殿に連れてこられ、以来ずっと外の世界から隔離されてきたから、知らないことも多いだろう。
しかし彼は物の理を知っていて、自分の意見もはっきりしてる。むしろ他者に惑わされないきらいがあるので、たとえ状況に流されても、そう簡単に他人の意見に感化されることはなさそうだ。
(そんな彼から本心を聞き出すなど、至難の業だな)
ディランが小さくため息をついたところで、本を手にした王太子が口を開いた。
「実はついさっき、アンクランからの使者が到着した」
アンクラン国は、大陸中央に広がる『深淵の森』をはさんで、ハイランドの南東に位置する。国土はハイランドの二倍近くあり、沿岸部の貿易拠点と豊かな資源により、国力は大陸一と謳われていた。
「どうやら我がハイランドの、先の魔獣討伐について噂が、現アンクラン国王の耳まで届いたらしい。是非一度、話の場を設けたいと言ってきた。お前も知ってのとおり、近年どの国でも『瘴魂』による魔獣被害は拡大してるからな。国を越えて、互いに協力したいと思っているのは、なにも先方だけではない」
「瘴魂に関してならば、アンクラン側のほうが、より深い知見を持っているでしょう」
この大陸の中心的存在でもある『深淵の森』には、古来より瘴魂と呼ばれる瘴気の源がたびたび出現しては、森の周囲に暮らす人々をおびやかしてきた。
特に、森の南東側に多く出現する傾向がみられ、その位置にもっとも近いアンクラン国は、瘴魂と戦ってきた長い歴史がある。
数多くの経験を踏まえて、もっとも効果的な瘴魂の対処法を編み出してきた彼らは、歴史を遡ると中には道理に反する、残酷な方法も数多くあったと聞く。
「たしかにあの国は、うちより瘴魂についてくわしいし、魔獣討伐の経験も豊富だ。だが、いまだ瘴魂の発生原因を突き止めていない」
「……それを言うならば、うちも手がかりすらないでしょう。どこの国も発生する都度、対処してるだけです」
ディランはそういって目を伏せた。
王太子の視線を感じたが、あえて自分から口にしたくない。
「お前が無傷で帰還したことは、すでにアンクラン国王に知られている。その第三王子が、なぜ瘴気の影響を受けずに帰還できたのか、その秘密を教えを乞いたいと、正直に書かれた書簡をもらったよ」
王太子の言葉に、ディランは嫌な予感をおぼえた。
「お前の伴侶も、関わってくる話だ」
「お断りします。彼はもう、じゅうぶん苦しみました……すべては私の身代わりになって」
アンクランは、その昔リトアギルの民を『使役』していた――どの国も知っている、有名な話だ。
しかしその使役のやり方までは、手元にある擦り切れた古書を読むまで詳細をしらなかった。
その昔、北東の地にリトアギル国が存在していたころ。アンクランによって捕らえられたリトアギルの神官たちは、瘴魂の対処をするため、命を削って浄化に身を投じることを強要されたという。
神官たちは、体に瘴気を吸い込み体内で浄化するという、不思議な方法を使ったとされる。
それはサージャの浄化のやりかたと、極めて似ている方法だった。
「アンクラン側に、彼の情報は漏れてませんか」
「今のところはまだ。仮に嗅ぎつけられた場合、お前との繋がりについて疑念を抱くかもしれない」
「この術は、アンクランも知っていると?」
「いや、そこまでは分からない。だが知らない可能性が高いよ。あの蔵書室を漁っても、その術だけは見つからないだろう」
王太子は、そこで一瞬言葉を切った。次に、どこかためらうように続けた。
「これはもしかすると……ハイランド王家のために編み出された、門外不出の術かもしれない」