(こんなに体が軽く感じるのは、久しぶりだ)
中庭にやってきたサージャは、緑のグラデーションが美しい、繊細なレース製のベール越しに空を見上げた。
本当は直に太陽を浴びるのが理想だが、体をすっぽり覆うベール越しでもじゅうぶん満足だ。
ハイランドは比較的高地で栄えた国なので、一年を通じて気温が低く、夏でも涼しい。代わりに日差しはやや強く、肌が弱ければひどい日焼けに苦しむため、外出時は長いベールをかぶることが多い。
王宮に連れてこられた当初、サージャに与えられたのは黒いレースのベールだった。
それが今朝、急きょ用意されたこの緑色のベールは、どう考えてもサージャのアザに合わせて用意されている。カモフラージュにもってこいだが、これをかぶっていても、部屋の近くの中庭しか出ることを許されてない。
(本当に俺、ねらわれてるのか? 俺の素性を知ってる人は限られているし、王子は伴侶って呼んでるけど、それってまだ正式じゃなくて、婚約者候補みたいだし)
王族ともなれば、婚約者候補はたくさんいるのが普通だと聞いた。王族は側室を娶ることが可能なので、たとえサージャがいても、妃の座はまだたくさん空席があるはずだ。
「……そろそろ部屋にもどろっかな」
考えてもしかたないことだ。
この王宮には無理やり連れてこられ、今は王子の庇護のもと暮らしているが、彼の正式な伴侶ともなれば、話は違う。サージャは自身の身の安全のため、大勢の妃たちの中でも末席に座れたらよかった。
(いや、なんか、よくない気がする……たくさんの中のひとりじゃ、なんか嫌だ)
やはり状況が落ち着いたならば、王宮を出ていきたい。だがその場合、行き先は神殿ではなくなる……。
「サージャ様、あちらからお部屋へ戻りましょう」
メイドが、あきらかに遠回りを方向を示したので、少し引っかかりを覚えた。
なにかあったのかと、たずねようと口を開きかけたそのとき――背後から名前を呼ばれた。
「サージャ、そこにいるのでしょう?」
振り返ると、少し離れた茂みの隙間から、青い神官服が見えた。しかもその人物の声は知っている――よく食事を運んでくれた神官のものだ。
「なんで、ここにいるの?」
茂みから現れた顔見知りの神官は、引きつった笑顔を浮かべていた。
「まったく、何度も面会を申しこんだのに、ずっと断られていたんですよ?」
「えっ、そうだったの?」
神官へ駆けよると、今度はメイドに後ろから鋭く声がかかった。
「いけません、サージャ様!」
なにがいけないのか分からないが、目の前の神官は、当番の日は欠かさず食事を運んでくれた人だった。名前はあえて聞かずにいるが、むこうも教える気はないようだった。
神殿では、サージャが名前を知る者がいないのだ。
それは『形代』の術に関係していて、不用意に名前を呼ぶと、王子とのつながりが弱まるからと言われ、誰も教えてくれなかった。
「大神官様が、あなたの体調をとても心配されてましたよ? 一度、神殿でお話しされたいそうです。さあ一緒に戻りましょう」
そう言って神官はサージャの手を取った。
サージャは驚きのあまり、その場に立ちすくんだ次の瞬間……目の前に数人の兵士が立ちはだかった。
彼らは無言で神官を引ったてると、あっという間にサージャのもとを去っていった。
「サージャ様、大丈夫ですか!」
「あ、はい……」
メイドたちに取りかこまれて、サージャは神官とは反対側へと連れていかれた。
(ベールをかぶっててよかった)
おそらくアザの様子は見えなかったはずだ。
サージャの周囲には、部屋にいる時こそ人数がしぼられているが、一歩部屋の外へ出ようものなら、大勢のメイドや兵士が付き添う。そのほとんどがアザのことを知らないため、サージャはベールをかぶって顔を隠していた。
でも一番見られたくないのは、あの神官だ。なぜなら彼を通じて、大神官にも知られたくなかったから。
部屋に到着すると、兵士はもちろん、ほとんどのメイドも部屋を出ていった。
残されたのは、ノーラというメイドだけだ。
ノーラは、サージャがはじめて王宮に来た日から、そばで仕えてくれたメイドだ。三十路は過ぎているだろうか、口数が少なく、落ちつきのある物静かな女性だ。
そんな彼女が部屋の扉の前で、たった今やってきたディラン第三王子殿下に、先ほどの一件を説明していた。王子がメイドになにか命じるときは、必ず彼女を通すのだが、逆にメイドから報告があるときも、彼女から王子に報告をするようだ。
「話はひと通り聞いた。大変だったな」
王子はサージャのもとにやってくると、軽く抱きしめた。
「あの神官の男は、見習いのころから定期的に王宮に通って、神殿との連絡をつとめていた。君がいる部屋の付近には、限られた者以外は誰も立ち入らないよう命じていたのだが、君が私の部屋に移ったことを知らない一部の者が、いつものようにあの神官をこのあたりに入れてしまったようだ。もう二度と、このような事態にならないから安心してほしい」
サージャは、あの神官が見習いのころから、定期的に王宮へ足を運んでいたことのほうが気になった。
彼がサージャの食事を定期的に運び、大神官との取りつぎをするようになったのは、もう何年も前からだ。名は知らないが、ほぼ毎日顔を見ている上、他の食事を運ぶ神官と違って、サージャに話しかける唯一の人間でもあった。
「あの神官は、いつも地下に食事を運んでくれた人だよ。だから危なくないって思って」
「君の腕をつかんで、強引に神殿へ連れていこうとしたと聞いた」
「それは大神官様に命令されたからだよ。神殿で話があるから、一度戻ってこいって」
「それは聞き捨てならないな」
王子はサージャの手を取ると、人払いをして寝室の扉を開けた。
中に入ると、カーテンが開いた室内は、すでにベッドメイクをすませて、すっかり掃除したあとのようだ。
「大神官は『形代』について、深く関わりのある人間のひとりだ。神殿内では絶対的な権力を持ち、一部の王宮関係者もあの男の息がかかっている」
「……王宮と神殿って、仲が悪いの?」
サージャが疑問に思って眉を寄せる。質問の仕方としては稚拙だが、他に核心を突く言いかたが思い浮かばない。
「仲が悪いかどうか分からないが、持ちつ持たれつの関係であることは否定できない。その昔、国全体がもっと信心深い生活を送っていたころ、神殿の力が絶大で、王家すら彼らに従っていた。大神官の承諾がなければ、王位に就けない時代もあったくらいだ」
その歴史について、サージャは詳しく知らなかった。子どものころに読んだ簡易な歴史書には、神殿が今より大きくて、各地にも小さな神殿が多数あったというぐらいだ。
しかし現在、地方の神殿のほとんどが閉鎖し、残された建物は王家が買い取ったあと、公民館や市役所として再利用されていた。
「大神官には警戒してくれ。なにより君に、このような非道な術をかけるよう手配した男だ」
王子はサージャのベールをそっと外すと、緑色の蔦模様が広がるこめかみに唇をよせた。
サージャは黙ってそれを受け入れながら、手の中にある小さな紙切れをどうしようかと悩んでいた。先ほど庭で神官に手をつかまれたとき、そっと握らされたものだ。
中身はまだ読んでないが、王子に伝えようか迷っていた。もしかすると大神官からの、重要な伝言が書かれているかもしれない。
王子の口ぶりから想像するに、今後サージャと大神官が話す機会など与えないつもりだ。
仮にそういう場を設けても、必ず王子が立ちあうだろう。
(あとで読んでから、どうするか考えよう)
サージャは王子のことを信じようとしていたが、真の意味で信頼するには、まだ時間も材料も足りない。
だから神殿側の話を聞かずして、うまく判断ができる自信がなかった。